四日目 古き英雄
天幕を出ようとしたハルの袖を、ユーメリナがそっと引いた。
「ハル様、少しよろしいでしょうか」
振り返る。
ユーメリナの瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「陛下も、お聞きください」
アストライアが足を止める。
ユーメリナの真剣な表情を見て、騎士団長に目配せした。アルベルトは頷き、静かに天幕を出ていく。
三人だけが残された。
ユーメリナは何度もハルの顔を見つめ、そして視線を逸らす。
まるで信じがたいものを見ているかのように。
(こう何度もみつめられると少し恥ずかしいな......)
「どうしたのだ、ユーメリナ」
アストライアが問う。
「失礼なことを伺いますが......」
ユーメリナが息を呑む。
「ハル様は、本当に、ただの冒険者なのですか」
暫しの沈黙。
松明が、パチパチと音を立てていた。
「これを見てください」
ユーメリナが懐から小さな丸い水晶板を取り出した。
首から下げていた銀の鎖に繋がっている。
「これは祖母の形見の護符です。記録魔法で刻んだものだと」
手が震えている。
「子供の頃から、お守りとして身に着けていました。まさか、このような形で......」
魔力を込めると、淡い光と共に映像が浮かび上がる。
三人の人物が並んで立っていた。
皆、屈託のない笑顔を見せている。
一人は上質な鎧を纏った若き男性。
「この鎧の男性は、当時の王国の王族だったと聞いています」
ハルは映像の王族の男を見つめた。
(この顔......)
懐の銀貨が、急に重みを増したような気がした。鋳造局で見せた、あの古い銀貨に刻まれた横顔。同じだ。
(とても懐かしい気分だ、思い出せないのがもどかしい)
さらに深紅のローブを纏った女性魔術師。
そして、もう一人——
「これは......」
ハルの言葉が止まった。
(僕だ)
剣を携えた若い剣士。その顔は、鏡を見ているかのように、自分と瓜二つだった。
「五百年前、エルフの聖都が魔物の大群に襲われた時、救ってくださった三人の英雄です」
ユーメリナの声が震えている。
「祖母の時代。人間の王族、大魔法使い、そして一人の剣士。彼らがいなければ、今の聖都は存在していません」
水晶板の映像が揺らめく。古い記録魔法特有の歪みだ。
ユーメリナがハルを見つめる。
「最初にお会いした時から、違和感がありました。ハル様からは......長き時を経ても朽ちない古木のような気配がします」
ハルは水晶板をもう一度見つめた。
「確かにこれは……僕だな」
「人間が五百年も生きられるはずがない。でも」
ユーメリナが一歩近づく。
「ハル様は、確実にこの剣士と同一人物です。お顔だけでなく、立ち姿も、剣を握る手の形も、すべてが」
沈黙が落ちた。
確かにそこにいる剣士は自分だ。だが、記憶にはない。霧に包まれた過去の、さらに向こう側。
「覚えていないんだ」
正直に答える。
「記憶がない。気がついたら、あの迷宮で目覚めていたんだ」
(僕は五百年前の人間なのだろうか)
ユーメリナの瞳が揺れた。
「何かが、あったのですね」
「聖都を救って下さった後に」
静かな声だった。ただ事実を受け入れるように。
「ずっとおかしいと思っていたことがあります」
「三人は、鬼神のような強さだったと聞きます。魔物の大群を、たった三人で殲滅したと」
「聖都だけではない。各地で活躍していたと祖母は言っていました。それほどの英雄が」
ユーメリナが首を振る。
「人間の歴史書には一切登場しない。王都の大図書館で調べても、学匠院の古文書を漁っても、彼らの名前すら出てこない。この王族の方の名前も。まるで」
「存在そのものが、なかったかのように」
消された歴史。封印された真実。
それは王国にとって、知られてはならない何かなのか。
アストライアが眉を寄せる。
「そういえば、幼い頃、王国史を学んでいたとき違和感を覚えたことがあったな」
アストライアの声が、記憶を辿るように遠くなる。
「五百年前以前の記録が、妙に不自然で。まるで後から繋ぎ合わせたような。王位継承の系譜も、その時期だけ飛んでいる。でも当時は幼く気にもとめなかった」
言葉が止まった。
「意図的に改竄されている?」
アストライアが拳を握る。
「仮に、その五百年前の歴史が真に重要だったとしよう」
声に、苛立ちが滲む。
「ならば、私の知らない王家の歴史があるというのか。歴代の王が受け継ぐべき記録が欠落している?」
「瘴気と異形の出現も、偶然ではないのかもしれぬ」
「......異形」
ユーメリナが口を開いた。
「そういえば、カサンドラ様が……亡くなる直前、異形たちの正体について、陛下にお伝えしたそうにしていました」
「カサンドラ?」
ハルが眉をひそめた。
「たしか七英傑の......」
「はい。教会の大司教様です」
ユーメリナが頷いた。
「冷たい方に見えましたが、孤児院を支援されていて……よく足を運んでいらした優しい方でした」
「カサンドラが......」
アストライアの顔色が変わった。
「たしかヴェルメール枢機卿のもとで古い文献の管理を司っていた」
ヴェルメール。
ハルの脳裏にあの鋭い眼光が蘇った。銀貨を見た時の、あの異様な執着。
「教会か......」
ハルが呟く。
さらにユーメリナが水晶板の、王族とされる男性を指差した。
「これを見てください。この方の腰の剣......」
ハルの手が、反射的に自分の剣に触れる。
同じだ。暗銀の鞘、特徴的な柄頭の紋章。すべてが一致している。
「その剣」
アストライアも気づいていた。
「一昨日の朝、城門で見た時は朽ちていたはずだ。だが今は美しい剣になっている。しかも......よく見れば暗銀剣か」
アストライアが自らの剣の柄を見せる。
「そして、この紋章。我が王家の家紋に、よく似ている」
ユーメリナが続ける。
「五百年前、この王族の方が持っていた暗銀の剣が今、ハル様の元にある。これが何を意味するか......」
言葉が途切れた。
「私は祖母に聞いたことがあります」
ユーメリナの声が、小さくなった。
「三人の英雄について、もっと詳しく教えてほしいと。でも祖母は」
言葉を切る。
まるで、口にすることさえ憚られるかのように。
「多くを語ることはありませんでした。ただ一言、『人間の歴史に深く関わるな』と」
天幕の中の空気が、一層重くなった。
「祖母は人間と距離を置こうとしていました」
ユーメリナが続ける。
「でも、三人の英雄への敬意は本物でした。水晶板を見つめる時の眼差しは、今でも覚えています。深い感謝と、そして......哀しみのような何かが混じっていました」
エルフの長老が警告するほどの秘密。
そして消せない恩義。
その狭間で、何を思っていたのか。
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
王家、エルフ、そして教会。
それぞれが断片を持ちながら、誰も全体像を知らない。
ユーメリナが顔を上げた。
「私も手伝います」
真っ直ぐハルを見つめる。
「記憶を取り戻すお手伝いを。だってハル様は、私の、そして森の聖都の恩人ですから」
微かに笑む。
「陛下」
静かな声が、天幕の入口から響いた。
レイナルド隊長が一礼して立っている。
その表情は冷静だが、目には緊張の色があった。
「突入準備が整いました」
そして、少し声を落とす。
「魔術連絡によると、南の迷宮周辺で、瘴気が少しずつ広がり始めているようです」
三人の顔が引き締まった。
レイナルドが敬意を込めた眼差しを向ける。
「ご命令を」
アストライアが立ち上がった。
鎧が重く鳴る。
「行くぞ」
威厳ある声。
「生きて帰ることが先だ」
ユーメリナが水晶板をしまう。
ハルも剣帯を締め直した。
(そうだ、まずは塔だ)
三人は天幕を出た。
松明の数が増え、塔の周囲が偽りの昼のように照らされた。
五千の兵が、整然と並んでいる。
先鋒の三百名は、既に塔の石扉の前に集結していた。
ハルは腰の暗銀剣に手を添えた。
五百年前の自分になにが起こったのか。
そして、なぜ今ここにいるのか。
塔から吹く風が、古い魔力の気配を運んでくる。
刻限との戦いが、始まろうとしていた。




