四日目 塔への行軍
昼過ぎ、王都の北門から五千の影が動き始めた。
重装騎兵が先頭を行き、その後ろに軽装歩兵、弓兵、魔術師団と続く。
風に翻る軍旗が、午後の陽光を鈍く反射している。
ハルは冒険者部隊の中ほどを歩いていた。
革鎧が肩に食い込み、腰の暗銀剣が歩くたびに太腿を打つ。
「塔の調査だけで五千か。よっぽど危険だと判断したんだな」
髭面が汗を拭いながら呟く。
石畳が途切れ、土の道が始まる。
靴底が湿った土に沈み込み、黒い水が革の隙間から染みてきた。
行軍に抉られた轍が、幾筋も北へ向かって伸びている。
列の前方で、騎兵の馬が鼻を鳴らし、不安げに首を振った。
蹄の音が近づいてきた。
白い馬に跨る人影。
陽光を受けて輝く黄金色の髪が風になびき、尖った耳がその間から覗く。
エルフの美しい女性だ。
淡い緑の法衣に、精緻な銀の刺繍。
周囲の空気が変わった。
冒険者たちが歩みを緩め、兵士たちも振り返る。髭面が口笛を吹きそうになって、慌てて口を押さえた。
「ハル様でいらっしゃいますか」
澄んだ声だった。
朝露が葉を伝い落ちるような、静謐な響き。
「ああ、僕がハルだ、あなたは?」
髭面が驚いた顔でハルを見る。
「私はユーメリナと申します」
馬から降りる所作に、永い刻を生きる種族の気品があった。
足が地に着いた瞬間、枯れかけていた草が微かに色を取り戻した様な気がした。
「ハル、お前、まさか知らなかったのか」
髭面が肘で小突く。
「エルフの聖女様だぞ。七英傑の」
ユーメリナ。
名は知っている。
前回、彼女は重傷を負って王宮で治療を受けていたはずだ。
だが今、目の前に立つ彼女に傷の影すらない。
「アスモダイ様から伺いました」
ユーメリナが微笑む。
「もし何かあれば、あなた様を頼るようにと」
「僕を?」
「はい。あなた様のおかげで、私も命を救われました」
風が止んだ。
「どういうことだ?」
「迷宮の探索中、暗闇から巨大な異形が現れた時のことです」
彼女の瞳が、記憶を辿るように揺れた。
「腕が幾つも生えた、おぞましい姿でした。私は退路を断たれ、死を覚悟しました」
静かに続ける。
「異形の腕が振り下ろされる、まさにその瞬間でした。アスモダイ様が横から飛び込み、魔剣の一閃で腕を切り飛ばしたのです」
「まるで、その異形の動きを全て知っているかのような太刀筋でした」
胸が、軋んだ。
あの夜、ギルドで語った異形の特徴。アスモダイはそれを覚えていたのか。
「ハル様のおかげだ、と。後でそう仰っていました」
「そうか......」
小さな石が、確かに波紋を広げている。
ユーメリナの表情がわずかに翳った。
「深層で、尋常ならざる異形と遭遇しました」
声が落ちる。周囲の音が遠のいた。
「人の如き体躯に、捻れた大きな角と黒い翼。紅蓮の瞳」
彼女の瞳に、恐怖の残滓が揺れている。
「まるで堕ちた王の如き、禍々しき姿でした」
角冠の異形。
胸の二重円環が、冷たく疼いた。
あいつだ。
「カサンドラ様が最初に倒れました。その魔法は......暗き矢と呼ぶべき、見たこともない黒い光でした」
ユーメリナの手が、微かに震えている。
「トート様が最後の魔力で私だけを強制転移させました。重要な書物と共に」
「他の英傑たちは?」
「......分かりません」
静かな声。
「ただ、あの状況では......」
ユーメリナは目を伏せる。
長い睫毛が影を落とした。
沈黙が流れる。
行軍の足音だけが、単調に響いていた。
「アスモダイ様が仰いました」
ユーメリナが顔を上げる。
「もし自分たちが倒れたら、ハル様と女王陛下が最後の希望だ、と」
最後の希望。
重い言葉だった。
「......分かった。一緒に塔の最上階を目指そう」
ハルが頷く。
「僕たちが今選べる道は、それしかない」
日が西の山稜に沈む頃、王国軍五千の軍勢が塔を取り囲んだ。
「確かに……扉が」
アルベルトが呟く。
黒い暗銀石の表面が、松明の光さえも吸い込んでいく。石に刻まれた古い紋様が、見る角度によって異なる影を落とし、まるで生きているかのように蠢いて見えた。
「魔力だ」
宮廷魔術師の一人が震え声で告げた。
「塔全体から、尋常ならざる魔力を感じます」
「陣を敷け」
アストライアの号令が響く。
兵士たちが慌ただしく動き始める中、ハルは少し離れた場所から、指揮を執るアストライアを見ていた。
松明の光に照らされた横顔。
揺るぎない声で次々と指示を出す姿。
(前回、アストライアは最後まで諦めなかった)
(血を吐きながら、それでも王国のために)
腕の中で冷たくなっていく重さが、まだ残っているような気がした。
胸が締め付けられる喪失感。
(今度は違う。必ず)
「ハル様」
振り返ると、ユーメリナが立っていた。
「作戦会議が始まるようです。ご一緒にどうですか」
ハルは首を振った。
「僕は、ただの冒険者だから」
ユーメリナは少し首を傾げ、それから小さく微笑んだ。
「でも、アスモダイ様が信頼された方です。陛下もきっと」
一瞬の躊躇。
「それに、私一人では心細いのです」
その言葉に、ハルは苦笑した。
(七英傑が心細いわけないだろう)
「分かった」
天幕の中、作戦会議が始まっていた。
松明の光が地図と古い図面を照らしている。
「三百名で突入する」
アストライアが宣言した。
「承知しました」
騎士団長アルベルトが頷く。
「では明朝、第一陣が道を開き、後続が——」
「お待ちください」
ユーメリナが立ち上がった。
「朝を待たず、今すぐ突入すべきです」
空気が張り詰める。
「ユーメリナ様。兵は行軍で疲労しております。万全の状態で臨むのが良いかと」
レイナルド隊長が眉を顰めた。
「迷宮から瘴気が湧き始めています」
ユーメリナの声に、天幕の空気が張り詰めた。
「私は実際にあの瘴気に触れました。肌を這い、骨まで侵す、生ける者を拒む毒です。刻限を置けば置くほど、その濃度は増していきます」
彼女が天幕の外を示す。
「突入を急ぎ、塔の上層へ向かうべきです」
「皆様の疲れは、私が癒しましょう」
ユーメリナが目を閉じ両手を掲げる。
淡い光が天幕を満たし、そして外へと広がっていく。
温かな波動が兵士たちを包み込んだ。
疲労が抜け、傷が癒えていく。
「これは......」
兵士たちから驚嘆の声が上がる。
アストライアが、静かに頷いた。
瞳に、鋼の決意が宿る。
「ユーメリナの言う通りだ。瘴気は我らを待ってはくれぬ」
「では、すぐに突入を」
アルベルトが立ち上がろうとした時、ユーメリナの背後に控えていた人影が前に出た。
「少し、いいか」
ハルだった。
「君は?」
「ハル。冒険者だ」
アストライアの瞳が、微かに見開かれた。
「そなたが、アスモダイが言っていたという......」
言葉が途切れる。何か、測るような視線。
ユーメリナが口を開く。
「ハル様の意見も、お聞きください。私の命の恩人です」
アルベルトが頷く。
「瘴気の拡散速度は、おそらく予想以上に速い」
ハルが続ける。
「だから突入隊が入った後も、残りの部隊は順次塔に入り、上層へ展開していくべきだと思う」
「塔の包囲を解くと?」
「ああ。そもそも突入隊の背後を守るのに、塔の外にいる必要はない」
地図を指差す。
「これだけ大きな塔だ。内部も十分広いはず。中で防衛陣を敷く方が、万が一瘴気が押し寄せた時も上階へ退避できる」
ハルの脳裏に、黒い瘴気に呑まれた兵士たちの姿が蘇る。
塔の外で逃げ場を失い、灰と化していった光景。
「なるほど......塔そのものを城塞として使うということか」
アルベルトが顎に手を当てた。
「確かに理はある」
アストライアが立ち上がった。鎧が重く鳴り、天幕が一瞬静まり返る。
「その作戦で行こう」
威厳ある声が、宣告のように響いた。
「各隊、突入の支度をせよ。ユーメリナの癒しを受けた今なら、夜通し戦える」
兵士たちが動き始める。
金属が擦れ合う音、革帯を締める音、祈りの呟きが重なり合う。
ハルは天幕の窓から塔を見上げた。
頂は闇に消え、終わりが見えない。
まるで、自分の運命のように。




