四日目 銀貨
依頼書に署名を終えると、受付嬢から参加者には駐屯地の寝所が提供されると告げられた。
「近いし俺はそっちに行って出発まで寝るぜ」
髭面が肩を回しながら言う。
「お前はどうする?」
「宿に戻る」
「今からか?酔狂だな」
髭面は笑って駐屯地へ向かった。
ハルはギルドを後にした。
出発まで半日ほどある。
(そういえば)
最初に銀貨を見せた時、亭主は「今夜だけなら」と渋い顔をしていた。
前回は一泊だけして自分から出ていったが、今回は違う。
結局ずっと泊めてくれている。「まあ、なんとなく放っておけなくてな」と照れくさそうに言いながら。
挨拶くらいはしておこう。
最後になるかもしれないのだから。
(人の温かさか)
夜道を歩きながら、一人静かに息を吐いた。
宿に戻ると、夜はさらに更けていた。
亭主の姿はなく、夜勤の若い男が欠伸をしながら帳簿をめくっていた。
「亭主さんは?」
「もう寝てますよ」
部屋に戻り、窓辺に立った。
遠くで犬が吠えている。王都の夜は、穏やかだった。
遅い朝になって階下に降りた。
「おお、起きたか!」
亭主が血相を変えて駆け寄ってきた。
顔が紅潮している。
「どうした?」
「あんたのあの銀貨、覚えてるだろ?古銭商が買い取った後、とんでもないことになってな」
亭主は興奮気味に身を乗り出した。
「女王陛下が買い取られて、鋳造局が調べたんだとよ」
声が上ずっている。
「なんと五百年前のえらく価値のある硬貨だったらしい。急に誰が持ってたのか大騒ぎになってな」
一息ついて、声をひそめた。
「今じゃ教会のお偉方まで出てきて、所持者に褒章を与えるって話だ」
「教会が?」
ハルは眉をひそめた。
王国の機関ならまだしも、なぜ教会が。
「俺も詳しくは知らん。鋳造局の調査結果に教会が興味を示したらしいが、それ以上は......」
亭主が肩をすくめる。
「とにかく、鋳造局に行ってみろ。大歓迎されるぞ」
ハルは思案した。まだ時間はある。
(もしかしたら......)
懐の銀貨に手を当てる。
触れた瞬間、胸の奥で何かが疼いた。
記憶の断片が、霧の向こうでちらつくような感覚。
「ありがとう、行ってみる」
王都の中心部へ向かうにつれ、通りが変わっていく。
商人街の雑多な喧騒が遠ざかり、石畳は精緻な幾何学模様を描き始めた。
すれ違う人々の服装も上等なものになり、護衛を連れた貴族の馬車が行き交う。
やがて、白亜の建物が見えた。
鋳造局——王国の富を司る機関。
重厚な石造りの建物は、三階分の高さがあり、整然と並んだアーチ窓が威厳を放っている。
正面の大扉の上には、王家の紋章と天秤、そして金貨を模した装飾が施されていた。
「銀貨のことで来た」
「銀貨……? まさか、あの——」
受付の職員の顔色が一変した。
「しっ、少々お待ちください!」
慌てて奥へ駆けていく。すぐに別の職員を連れて戻ってきた。
「恐れ入りますが、剣はこちらでお預かりします」
ハルは腰の暗銀剣を外して渡した。
慌ただしく奥へ案内される。
通された応接室は、王侯貴族を迎えるような豪華さだった。
革張りの椅子、磨き上げられた黒檀の机、壁には歴代の貨幣の見本が額装されている。
そこには二人の男が待っていた。
一人は恰幅の良い中年男性。
紺色の上質な官服を着ている。
もう一人は、純白の法衣に金糸の刺繍が施された教会の正装を纏っていた。
(奥の暗がりか。柱の陰にも何人かいるな)
「私は鋳造局長のアルジェントです」
中年男性が立ち上がり、深々と頭を下げた。
その動きには、明らかな緊張が滲んでいる。
「そしてこちらは、枢機卿ヴェルメール猊下」
枢機卿と呼ばれた男は、座ったまま鋭い眼光でハルを見つめていた。
灰色の髭、深い皺、そして底知れぬ叡智を宿した瞳。
「僕はハル」
簡潔に名乗る。
「その銀貨は、君が?まだ持っているのか?」
ヴェルメールが身を乗り出した。
「いや、失礼しました。いきなりすぎましたね」
アルジェントが慌てて割って入る。額に汗が浮かんでいた。
「実はこの銀貨は、五百年前にごくわずかに鋳造されたものでして」
震える手で古い帳簿を開いた。黄ばんだ頁には、かすれた文字で記録が残っている。
「古い記録にしか残っておりません」
声が低くなった。
「誰も持っているはずがない……いや、持っていてはいけないものなのです」
「詳しい話は……」
ヴェルメールが言葉を選ぶように続ける。
「王国の機密に関わるから明かせないが……まだ持っていたら、見せてもらえないか」
ハルは懐から、残っていた数枚の銀貨を取り出した。
机に並べる。
カンという澄んだ音が響いた。
二人は息を呑んだ。
ヴェルメールの瞳孔が、一瞬収縮する。
「これは......しかも保存状態が信じられないほど良い」
アルジェントが震える手で一枚を摘み上げ、ランプの光にかざす。
肖像が鮮明に浮かび上がった。
若い男性の横顔。
王冠は被っていない。
(この顔......やはりどこかで)
ハルの脳裏に、一瞬何かが閃いた。
だが、霧に阻まれてそれ以上は見えない。
「なぜ持っている?」
ヴェルメールの声が低くなった。
「覚えていない」
ハルは正直に答えた。
「気がついたら、持っていた」
沈黙が落ちる。
応接室の空気が、徐々に重くなっていく。
ヴェルメールがゆっくりと立ち上がった。
「この銀貨に刻まれた人物は、歴史書にも出てこない。いないことになっている」
空気が、凍りついた。
「その意味が分かるかな。これは現王家ですら、いや陛下ですら、ご存知ないことなのだ」
ヴェルメールの目が、危険な光を宿した。
「どうしても知りたい」
ヴェルメールの声が震えた。
「......王国にとって、いや世界にとって、あまりに重大なことなのだ。許してほしい」
右手がかすかに動く。
瞬間、柱の陰から教会の戦闘装束を着た男たちが音もなく現れた。
四人、いや五人。黒い布で顔の下半分を覆い、身のこなしは獣のようにしなやかだ。
全員が隙のない構えで囲む。
(やっぱりいたか)
二人が同時に飛びかかってきた。
一人は正面から、もう一人は死角から。
連携は完璧だった。
だが――
ハルの体が、思考より先に動いた。
羽交い絞めにしようとする腕を、紙一重で体を捻ってかわす。
相手の勢いを利用し、返す動きで手刀を繰り出した。
首筋に軽く当てる。
急所への正確な一撃。
男は声も出さずに膝から崩れた。
別の男が背後から組み付こうとする。
体を沈め、相手の重心を崩して投げ飛ばす。
男は受け身も取れずに壁に激突した。
三人目が短剣を抜いた。銀色の刃が光る。
ハルは最小の動きで刃筋を逸らし、手首を掴んで捻る。
短剣が床に落ちる甲高い音。
(体の調子がいい)
前回の死に戻りで得た何か。
いや、もっと深い、染み付いた戦いの記憶。
「戦う気はない」
ハルは両手を軽く上げた。
倒れた男たちは、すでに立ち上がり始めている。
殺していない。手加減はした。
ヴェルメールの顔に、驚嘆の色が浮かんだ。
アルジェントは椅子に座り込んだまま、呆然としている。
「塔へ調査に行く。それが終わったらでもいいか?」
「塔?」
ヴェルメールの表情が変わった。
「ああ、陛下が出陣される開かずの塔の調査隊か......」
息すら切らしていないハルを見て、頷く。
「なるほど、君のその強さなら......そうか、わかった」
「陛下をお守りしてくれ」
腕の中で息絶えたアストライアの、最期の重さが蘇る。
「......ああ」
ハルの声に、思わず力がこもった。
ヴェルメールが意外そうに眉を上げる。
それから、小さく微笑んだ。
「今日はすまなかった。塔の調査が終わったら来て欲しい。今度は賓客としてもてなすことを約束する」
「わかった」
少し間をおいて。
「......実は、僕自身も知りたいんだ」
ハルはそう言いながら、銀貨を懐にしまった。
最後の一枚を取る時、表面に映った自分の目が、暗い紅に見えた気がした。
扉へ向かう。
「ハル殿」
振り返ると、ヴェルメールが真剣なまなざしでこちらを見ていた。
「一つだけ聞きたい。君に......時の刻印は、あるのか?」
「刻印?」
胸の紋様が一瞬疼く。
「いや、すまぬ、なんでもない。......必ず戻ってきてくれ」
「君という人間にも興味が湧いた」
ハルは頷く。
扉を閉め、廊下を歩く。
入口で預けた暗銀剣を受け取る。
職員が恭しく差し出した。
外に出ると、午前の陽光がまぶしかった。
(あの枢機卿、何か知っている)
銀貨を握りしめる。
冷たい金属の感触。
そして脳裏をよぎる、見知らぬはずの横顔。
胸の二重の円環が、冷たく疼いた。
塔への出発まで、あと一刻。
腰の暗銀剣が重みを増したような気がした。




