三日目 朽ちた剣(二)
鍛冶場の扉を押す。
熱気と鉄の匂いが迎えた。
「おう、戻ってきたか」
グリムが振り返る。
上半身裸のまま、汗が炉の光を反射している。
「暗銀石だ」
ハルが小さな欠片を差し出す。
親指の先ほどの大きさ。
鈍い銀色の光沢を放っている。
「ほう、本当に見つけてきたか」
グリムが欠片を摘み上げ、炉の光にかざす。
「さっそく始めるか」
剣を作業台に置く。
グリムが棚から古い瓶を取り出す。
中には透明な液体が入っている。
「暗銀石はそのままじゃ使えん」
欠片を液体に落とすと、銀色の雫となって溶けていく。
「これだけじゃまだだ」
グリムが炉の横にある、別の小さな炉を開ける。
中には通常の炎とは違う、淡い紫色の炎が静かに燃えている。
「魔力炉だ。先祖代々ってやつだ」
溶けた暗銀を鉄の匙ですくい、紫の炎にかざす。
液体が虹色に輝き始めた。
「温度と魔力の加減が肝だ。ちょっとでもずれると、ただの銀になっちまう」
太い指で慎重に匙を動かしながら、剣の欠損部分に一滴ずつ垂らしていく。
雫が剣に触れた瞬間、まるで生き物のように刃の傷に染み込んでいく。
錆びた表面が、内側から押し出されるように剥がれ落ちていく。
「暗銀剣の特徴だ。時を記憶する石——自分の形を覚えてる」
朽ちた鞘も、同じ工程で本来の姿を取り戻していく。
黒革に銀の装飾。柄頭の紋章が、炉の光を受けて浮かび上がった。
「だがな」
グリムが腕を組む。
「暗銀剣は実戦向きじゃない。ミスリルより軟らかく、オリハルコンより魔力を通さん。なのに昔の王家は暗銀にこだわってた」
「なぜだ?」
「さあな。ただ——」
グリムが古い帳簿を引っ張り出す。革表紙は煤けて、頁は黄ばんでいる。
「ひいじいさんの鍛冶日誌が残っててな。五百年以上前は、王家はもちろん、その血筋からも山ほど注文が来てたらしい。暗銀剣をな」
グリムが苦笑する。
「遠い血筋でも、王家の血が入ってれば注文してきたってさ」
頁をめくる。
「だが五百年前あたりからか、めっきり減って、今じゃ女王陛下の剣くらいか、暗銀を使ってるのは」
剣が一際眩い光を放つ。
光が収まると、そこには美しい剣があった。
刀身は鏡のように澄み、刃紋が波のように走っている。
柄の紋章も鮮明に蘇っていた。
「できたぞ」
ハルが手を伸ばし、剣を取る。
驚くほど軽い。
いや、軽いだけではない。
手に完璧に馴染む。
鞘から刃を滑らせる。
鏡のような刀身が、炉の光を反射した。
柄を握り直した瞬間——
世界が、遠ざかった。
グリムの声が水底に沈む。
炉の熱が薄れていく。
そして——魂の深淵から、何かが引き剥がされた。
大切な記憶を忘れる瞬間に似ている。
親しい顔が霞んでいく時の、あの喪失感。
朝の夢が指の間からこぼれ落ちる時の、取り返しのつかなさ。
膝が震える。
空洞が、胸の奥に生まれた。
そこにあったはずの何かが、もう二度と戻らない。
剣が——応えた。
剣身に淡い燐光が宿る。
塔が放つ魔力の光に似た、蒼白い輝き。
「......なんだこりゃ」
グリムが身を乗り出す。
目が爛々と輝いている。
炉の火を見る時と同じ、職人の眼だ。
「暗銀剣が光ってやがる!」
慌てて古い帳簿をひっくり返す。
埃が舞い上がり、頁が激しくめくられる。
「ねぇ......どこにもこんな記録はねぇぞ」
革表紙の日誌、羊皮紙の覚書、石板の拓本まで引っ張り出す。
そして突然、グリムが爆笑した。
「ガハハハハ!」
太い手で作業台を叩く。
工具がガチャガチャと跳ねる。
「五百年の記録にもねぇ現象を、さらっと起こしやがる!」
酒瓶を取り出し、ぐいっと煽る。
「詮索はしねぇ。約束は約束だ」
ニヤリと笑う。
「だが面白いもん見せてもらった。暗銀が光るなんて、死ぬまでにもう一度見られるかどうか」
もう一口飲んで、瓶をハルに差し出す。
「祝杯だ。その剣と、おめぇの門出にな」
ハルも一口飲む。喉が焼けるような強い酒だ。
「いくら払えばいい?」
「金はいらん。光る暗銀剣なんて面白いもんが見れたからな」
剣を鞘に納めながら、グリムが付け加える。
「ただ、一つ教えとく。さっきも言ったが、昔の暗銀剣の記録は残ってる。だが——」
太い指で剣を指す。
「お前のは、それらとは全然違う。もっと繊細で、実戦的で、手間暇が桁違いだ。それこそ、当時の王に献上するような代物だ」
ハルの手が、無意識に柄を撫でた。
「大事にした方がいい」
「ああ」
「時々でいい、顔を出せ。今度はドワーフ酒を飲ませてやる」
「ドワーフ酒?」
「ガハハ!人間にゃキツいぞ。ガルトの奴は三杯で潰れたからな」
ハルは思わず苦笑した。
「じゃあ俺は寝る。またな」
グリムが欠伸をする。
「ああ、ありがとう」
鍛冶場を出た。
星が冴えている。日付はもう変わっている。
腰の剣が、微かに重い。
いや、重いのではない。存在感が強いのだ。
鞘越しにも、かすかな燐光が漏れている気がした。
そして胸の奥では、二重の円環が冷たく疼いていた。
失われた何かの代わりに。
王都の通りは妙に明るい。
人々が走り回り、叫び声が飛び交っている。
ギルドの扉を押し開けると、異様な熱気に包まれた。
「——七英傑が、ユーメリナ様以外——」
「——帰還してないだと?信じられ——」
「——王国はどうなる——」
断片的な言葉が耳に飛び込んでくる。
ハルは壁際の席に腰を下ろし、耳を澄ませた。
「塔だ!開かずの塔に扉が現れたんだと!」
「ユーメリナ様が持ち帰った情報にも、塔のことが書いてあったらしい」
「昼出発の緊急依頼だ。報酬は——おい、これ本当か?」
胸の二重の円環が、冷たく疼いた。
七英傑が壊滅。前と同じ流れ。
アスモダイ......
異形の話を訊いていたときの、真剣な表情。
唇を嚙んだ。
「......その依頼、受ける」
ハルの声が、喧騒を切り裂いた。
周囲が一瞬静まり返る。
「おお、ハルじゃねぇか!」
振り返ると、髭面が立っていた。
「俺も行くぜ!」
豪快に笑う。
「なんだかんだで腐れ縁だな!」
「ああ、よろしく頼む」
ハルは立ち上がり、依頼書に署名した。
明日、塔へ行く。
今度こそ、最上階まで。
腰の暗銀剣が、かすかに脈打った。




