三日目 朽ちた剣(一)
朝の光が王都の瓦屋根を鈍く照らしていた。
夜の霧はまだ街の石畳に残り、湿った空気が肌にまとわりつく。
ギルドの扉を押し開けると、酒と鉄と汗と油の匂いが押し寄せた。
煤が天井の梁に層を成し、煙の筋がゆらゆらと漂っている。
中は騒がしかった。
「本当に見たんだぜ、化け物をよ」
髭面が杯を揺らす。
(まだ飲んでいたのか…)
「腕が十本はあったな。叫んでたぜ......『オマエヲクッテヤル!』ってな」
「やめろ、縁起でもねえ」
隣の男が肩を震わせた。
「あー、そうそう似てたな」
「何が?」
「いや化け物よ、お前の顔にそっくりだった」
「てめえ!」
奥の卓では別の話。
「七英傑が動いたってことは、本気でヤバいんだな」
「ああ。でも、何とかしてくれるだろ」
ハルは隅で待っていた。
燭台の灯が揺れる。別の世界の明滅のように。
胸の奥で、二重の円環がかすかに疼いた。
「待たせたな」
ガルトが現れた。鎧ではなく、薄茶色の上着を着ている。
朝の光が、普段とは違う姿を照らしていた。
「今日は非番だ。約束通り、グリムのところへ行こう」
二人は街を歩き始めた。
「昨日のアスモダイ、よく飲むな」
「ああ、あれでもまだ序の口らしい」
石畳を踏む。朝市の喧騒。鍛冶屋の槌音。
グリムの鍛冶場は王都北の郊外にあった。
煤けた煙突が三本、歪んだ指のように空へ伸びている。
風に鉄の匂い。
地面には焦げた黒土と灰が層になって積もっている。
壁には古い鍛冶道具。
錆びた鉄鋏、欠けた金槌、用途の分からぬ歪な金具。
どれも年季が入り、油で黒光りしていた。
「おい、グリムいるか?」
返事はない。
「入るぞ」
扉が軋む。
炉の熱気が微かに残っていた。
奥の作業場で、巨体が大の字になって転がっている。
布一枚まとっていない。
腹が上下している。
沈黙。
ブッ
「......」
「風通しが悪いな」
「窓を開けない主義らしい」
ガルトは平然としていた。
グリムが片目を開けた。
瞳は金属光沢を帯び、炉の残火を映したようだった。
「......ガルトか。誰だ、そいつは?」
「ハルだ。昨日の任務で共に戦った。助けられた。腕は確かだ」
「古い剣を持っててな。見てやってくれ」
ハルは背中から剣を外し、グリムの前に置いた。
グリムの呼吸が、止まった。
煤けた指が刃をなぞる。
立ち上がり、腰巻きを身につけると、剣を炉へ運ぶ。
橙色の炎に剣をかざす。
光が刃を這い、金属の質感が浮かび上がった。
「ほう......」
剣をゆっくりと回す。
刃の側面、背、切っ先。角度を変えるたび、グリムの目が鋭くなる。
柄の装飾に指を這わせ、重さを確かめるように片手で持ち上げる。
刃の歪みを確認するように、片目を瞑って切っ先を見据えた。
作業台へ戻り、小さな木箱を取り出した。
絹糸で吊るされた細い針。
「方位磁針か?」
「鉱石針だ」
針を剣に近づける。
ゆっくりと回り、刃の中心線に完璧に平行になって止まった。
「暗銀石だな」
「暗銀石?」
「時を記憶する石だ」
グリムが剣を裏返す。
針も回転する。
「欠けても、元の形を覚えている」
針を柄から切っ先まで動かす。
微動だにしない。
「芯に一本......寸分の狂いもなく」
声が低くなった。
「こんな仕事ができる鍛冶師は、もう死に絶えたと思っていた」
柄の紋様を炉の光にかざす。
「王家の印に似ているが......違うな」
グリムが唸る。
「傍流か。分家か。あるいは......」
言葉を濁す。
「どこでこの剣を?」
「......気づいたら、持っていた」
グリムが豪快に笑った。
「なんじゃそりゃ!」
「直せるか?」
「暗銀石の性質を使えば、元の形に戻せる。ただし——」
太い指を立てる。
「微量の新しい石が要る。小石ほどでいい」
「どこで?」
「北方、開かずの塔の麓に古い鉱山がある」
ハルの胸が、高鳴った。
塔。
「廃坑となって久しいが、破片ぐらいは残っているかもしれん」
「剣は預けていく」
グリムは無造作に剣を手に取った。
「よかろう」
剣を炉の光にかざし、目を細める。
まるで子供を扱うように柄を撫でた。
「暗銀石の剣か。昔のじいさんの鍛冶記録、残っておったかな......」
鍛冶場を出る。
「悪いが、私はここでな」
ガルトが肩をすくめた。
「非番とはいえ、午後は顔を出さなきゃならん用事がある」
「ああ、ありがとう」
北の空に、塔が立っていた。
北へ向かう道は、人気が少なかった。
王都から離れるにつれ、石畳は土の道になり、やがて草に覆われた獣道となる。
この道は知っている。
前回、王国軍五千と共に通った道だ。
あの時は馬車と軍列。
今は一人。足音だけが草を踏む。
風が変わった。
湿った森の匂いから、乾いた岩と鉄錆の匂いへ。
道端の草が、ところどころ枯れている。
病気か、それとも——
丘を越えると、眼前に巨大な岩山がそびえていた。
その麓に、いくつもの穴が口を開けている。廃鉱山だ。
(そうだ、前回の夜、ここを遠目に見た)
野営地から見えた、黒い穴の連なり。
あの時は気にも留めなかったが。
坑道の入り口は木材で封じられているが、朽ちて隙間だらけだった。
そして、その向こうに——
始原の塔が、天を衝いて立っていた。
何かが違和感を感じる。
塔全体から、微かに魔力の燐光が漏れている。
青白い光が、石の表面を這うように明滅している。
近づく。
心臓が、止まりそうになった。
扉が、ある。
巨大な石扉が、重々しく口を開けている。
(まさか)
第四日目に出現したはずだ。
今日はまだ三日目。
いや、待て。
(報告が四日目だっただけで、本当はもっと前から——)
地震と同時に?迷宮が現れた時から?
扉の奥から、冷たい風が吹き出している。
魔力を孕んだ風。肌がちりちりと粟立つ。
一歩、扉へ向かおうとして——
止まった。
(いや、まず暗銀石だ)
グリムとの約束。剣を直すための石。
それを取らなければ。
塔から目を引き剥がし、廃鉱山へ向き直る。
坑道から、冷たい風が吹き出してくる。
暗闇の奥で、何かが微かに光っている。
腰の剣を確認し、坑道へ足を踏み入れた。
背後で、塔の扉が風に軋む音がした。




