二日目 生還
夜のとばりが城壁の上から静かに降りてきた。
通りにはまだ明かりが残り、酒と汗の匂いが風に混じる。
冒険者たちの笑い声、木杯のぶつかる音、鉄靴の軋み――
王都の夜は、滅びを知らぬように賑やかだった。
ギルドの扉を押す。
油と紙と、焼いた肉の匂いが胸に入る。
笑い声がいくつも重なり合い、依頼板の前では若い冒険者たちが口論していた。
その喧噪を抜け、壁際の卓を選ぶ。
背中に木板の冷たさを感じる場所。
手袋を外して、指の骨を確かめる。
握った剣の感触は、まだ手の内から抜けきらない。
受付に手を上げ、スープを頼む。
運ばれてきたそれは、湯気を立てていた。
ひと口。
じゃがいもと玉葱の甘み、羊肉の旨味が広がる。
扉が鳴り、ガルトが入ってきた。
外套を丁寧に畳み、椅子の背に掛ける。軽く一礼して、静かに腰を下ろした。
鎧の金具が小さく鳴る。顔に疲れはあるが、目は醒めている。
「報告は終わったのか」
と声をかけると、ガルトは盃を手に取って小さく頷いた。
「ああ、待たせたな」
少し息を整えるように盃を傾け、告げる。
「王宮は騒然だ。女王陛下が七英傑を招集された。」
卓上の灯が、ハルの頬を照らす。
熱の残った光が揺れた。
胸の奥がわずかにざわめく。
ひときわ大きな笑い声が近づいてくる。
昼間、迷宮の先遣隊で肩を並べた髭面の冒険者だ。
「おう、お前ら。今日はこたえたな」
受付に手を上げて酒を頼み、まっすぐこちらへ向かってきた。
ガルトが笑う。
「思ったより元気そうだな」
「そりゃあ、死に損ねたばかりだからな」
髭面が腰を下ろす。受付の女が苦笑して器を並べ、酒が注がれる。
「あんな化け物の報告したんだ、王宮はどうなってる?」
「かつてないほどにざわめいているぞ」
ガルトが苦く笑う。
「メルクリウス殿が契約魔法で七英傑に知らせを送った。転移陣で皆、王宮に来るそうだ」
「なんだと」
髭面が盃を揺らす。
「すぐに公になることだがな」
「すげぇ顔ぶれが集まるな。七英傑か」
「ただの探索で済む話じゃなさそうだ」
ガルトが低く言う。
三人の間に短い沈黙が落ちる。
盃を持ち上げた。
笑い声が少し遠くに聞こえる。
「それはそうと――ハル」
ガルトが言った。
「明朝、グリムを紹介しよう。その古い剣をみてもらおう」
朽ちた剣。
胸の奥で何かがかすかに鳴った。
錆びているのに、切っ先はまだこちらを向いている気がした。
記憶は欠けている。
けれど、刃の重みだけは知っている。
「助かる」
と言うと、ガルトが頷いた。
盃を重ねる音が響く。
喧噪の中で、ひとときだけ静けさが戻った。
――扉が一際大きく鳴った。
笑い声が途切れる。音が引き締まる。重い足音。視線が一斉に向く。
鎧の鈍い光が見えた。腰の鞘が、夜の色を凝らしている。
誰かが息を呑んだ。名を呼ぶ声が、どこかから漏れる。
「……アスモダイだ」
空気が張り詰めた。手の中の盃が冷たくなる。
剣聖。七英傑のひとり。
姿を見るのは初めてだ。
「王家に呼ばれたついでだ」
低い笑い声が響く。
「足が勝手にここへ向いた。駆け出しの頃はよくここに世話になったからな」
職員が古い銘の瓶を持ってくる。
アスモダイが視線を巡らせたあと、こちらに向かってくる。
足音が近づくたび、空気が濃くなる。
「剣聖殿、まさかこのような場所でお目にかかれるとは」
ガルトが立ち上がり、胸に手を当てた。
アスモダイは手を上げた。礼を制する仕草。
その目がこちらに止まる。
何かが、視線の奥で鳴った気がした。
計るためではない。
確かめるために見られている。
「妙だな」
アスモダイが呟いた。
「骨の並びが、剣を知っている」
指が鞘に触れる。
店のざわめきが消えた。
誰かが盃を落とした音だけが聞こえる。
刃が閃いた。
白い線が視界を裂く。
振り抜かれた軌跡が空気を切り裂き、風圧が頬を打った。
……魔剣か?
見ただけでわかる。常の刃じゃない。
空気が震える。
しかし殺気はない。避ける必要はない。
寸前で止まった。刃先が目の前にある。
紫電が刃を螺旋状に取り巻き、微細な雷光を散らしていた。
時間が戻ったかのように、音がゆっくり戻ってきた。
「すまん。悪い癖だ。確かめたくなる」
「かまわない」
アスモダイが笑い、盃を傾けた。
「詫びに一杯どころか、腹に入るだけ奢ろう。酔いが回る前に、少し話そう」
酒が来た。皿が並ぶ。
焼いた肉の匂いと香草。盃を半分だけ傾ける。
「明日、迷宮へ潜る」
アスモダイが言った。
「ただの遺跡調査に、俺たちが呼ばれることはない。だが、あの女王は鼻が利く。嫌な勘じゃない。生き延びるための嗅覚だ」
「先遣隊はおまえたちが?」
ガルトが頷く。
「そうだ」
髭面が肩を竦める。
「石の上を、腐肉が滑ってきやがった。夢に出そうだぜ」
アスモダイが眉を寄せた。
「詳しく」
腕の生え方。顔の向き。重心の癖。
刃が届く距離で何が起こるか。届かない距離では何が見えるか。
ハルが語り終えると、静けさが降りた。
アスモダイが頷き、鞘を軽く叩いた。
「助かる。明日、油断はない方がいい」
――七英傑。
前に見た歴史では、あの日、彼らは戻らなかった。
「同行してもいいか」
と喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
立場も理由も足りない。
だが――先遣隊は生き延びた。情報も渡せた。
前とは、何かが違うかもしれない。
アスモダイの視線が、もう一度こちらに戻る。
「それにしても、お前は妙だ。……名は?」
「ハル」
「ハル、か。覚えておく」
アスモダイが急に立ち上がった。
「そうだ。酒の余興に手合わせしないか?」
髭面が杯を叩いた。
「おお、それは面白え!」
周囲がざわめく。剣聖アスモダイの手合わせなど、滅多に見られるものではない。
ギルドの裏庭。
松明が円形に配置される。冒険者たちが輪を作った。
訓練用の剣を受け取る。軽い。刃は潰されている。
アスモダイが構える。
酔っているはずなのに、隙がない。
最初の一合。
金属音が夜気を裂いた。
速い。
二合、三合。
剣が舞う。
酔いなど微塵も感じさせない精密な剣筋。
ハルが攻勢に出た。
腰を深く落とし、剣を大きく回す。
見慣れない大振りな型。
アスモダイの眉がかすかに動いた。
剣を返して受ける。重い。
想像以上の力が乗っている。
ハルの剣が下から斬り上げる。
必要以上に深い踏み込み。
アスモダイは後方に跳んで間合いを取る。
踏み込みの深さが尋常ではない——まるで巨大な何かを相手にするような。
ハルが見せた足運び。
摺り足でもない。跳躍でもない。
地を滑るような、独特の歩法。
アスモダイの剣が横薙ぎに迫る。
だがハルの体は水のように流れ、刃筋を躱す。
膝の抜き、腰の回転、重心の移動——すべてが滑らかだ。
アスモダイの表情に、さらに真剣味が宿った。
剣と剣が絡み合う。鍔迫り合い。
力ではアスモダイが勝る。
じりじりと押される。
だが、ハルは力で対抗しなかった。
急に力を抜き、アスモダイの押しを利用して体を横に流す。
同時に、柄頭をアスモダイの手首に向ける——
アスモダイはそれを読んでいた。
すかさず剣を引き、横に薙ぐ。
ハルは身を反らしてかわし距離をとる。
両者、同時に動いた。
アスモダイは必殺の突きを繰り出す。
ハルは——
剣を手放した。
いや、違う。投げたのだ。
回転する剣がアスモダイの視界を一瞬遮る。
その隙に、ハルは静かに間合いをつめる。
アスモダイの目に、一瞬の戸惑いが浮かんだ。
ハルが手首を返す。小手の金具が月光を鋭く反射した。
アスモダイが反射的に目を細める。
その瞬間——
ハルの手が、剣を空中で掴む。
そのまま振り抜き——
刃が、アスモダイの首筋で止まる。
一瞬遅れて、アスモダイの突きがハルの胸で止まった。
静寂。
松明の炎だけが音を立てている。
そして、歓声が爆発した。
「見事だ」
アスモダイが素直に剣を下ろす。
その目に、先ほどとは違う光が宿っていた。
「僕はほとんど酒を飲んでないからな」
ハルが訓練剣を返す。
アスモダイが低く笑った。
「それだけじゃあるまい」
訓練剣を置くと、踵を返してゆっくりと歩き始めた。
歩きながら、独り言のように呟く。
「対人用の剣技だけではない。大型の……いや、巨大な魔物を相手にするような剣が混じる」
「古い。大討伐時代......いや、もっと前か。今では根絶された巨獣と戦うための剣技」
そして、振り返ってハルを見た。
「しかも古武術の身体操作が絶妙に融合している。どうしても大振りになってしまう剣の隙を補うために水のように動く......」
ひとり呟きながらまた酒場へ戻っていく。
髭面が肩を叩いてきた。
「すげえな!剣聖と互角かよ!」
酒場に戻ると、アスモダイはすでに席についていた。
「いい腕だ」
杯を上げる。
「また手合わせしよう。今度は、酒抜きでな」
ハルも杯を上げた。軽く口をつける。
笑いが戻る。皿が空いていく。
髭面が昔話を持ち出し、アスモダイが短く返す。
戦の端の話。勝ち負けよりも、帰り道の匂いの話。
耳を傾けながら、灯の揺れを見ていた。
深更。卓の灯が低くなる。
受付の灯だけが残っていた。
ガルトが立ち上がり、外套を肩にかける。
「明朝、このギルド前で。グリムの件、忘れないでくれよ」
「ああ」
忘れるわけがない。
髭面が伸びをして笑った。
「英傑と飲んだ夜なんて、一生自慢できる」
外に出る。夜気が肺を洗った。
王宮が遠くに白く立つ。
空を見上げる。星がひとつ、増えたように見えた。
足音が石に吸われ、街路の角で消える。
夜はまだ深い。だが、朝は、必ず来る。




