二日目 巨大異形
地響きが、洞窟全体を震わせていた。
巨大な異形が、ゆらりと一歩を踏み出す。
思っていたより、速い。
よろめくような足取りに見えて、一歩がやけに大きい。複数の脚が絡み合い、湿った肉の擦れる音を立てながら、確実に距離を詰めてくる。
ハルが剣を構え直した。
巨体の右腕――いや、無数の腕が融合した塊が、振り下ろされる。
紙一重で躱す。石床が砕け、破片が飛び散った。
ハルは着地と同時に剣を掲げ、殺気を放った。威圧。巨大異形の注意を引きつける。
無数の顔が、一斉にハルを向いた。歪んだ瞳のすべてが、獲物を定めた獣のようにぎらついている。
「全員、援護を!」
ガルトの号令が響く。
「回復と支援魔法が使える冒険者は彼を支えてくれ!他は距離を保って攻撃だ!」
髭面の冒険者が戦斧を振るう。
アークオークとの戦いで疲労しているはずなのに、その動きに迷いはない。
「こいつ、頑丈だな!」
刃が異形の脚を削り、黒い血が飛び散った。
ガルト自身も剣を抜き、側面から斬りかかる。
だが、異形の皮膚は想像以上に硬い。剣が弾かれ、火花が散った。
巨大異形が腕を横薙ぎに振るった。
「うわっ!」
槍兵が吹き飛ばされる。壁に叩きつけられ、苦悶の声を上げた。
「治癒を!」
魔術師が駆け寄り、手をかざす。光が傷を包むが――
「効きが悪い......」
普段の倍以上の魔力を注ぎ込んで、ようやく傷が塞がり始めた。
そのとき、異形の別の腕が近くの瓦礫を掴んだ。
人の頭ほどもある岩塊。それを、壁際の負傷者へ向けて投げつける。
岩が宙を飛ぶ――
『暗き炎よ......』
ハルの口が動いた。
その言葉が喉を通る瞬間、胸が抉られるような感覚があった。
何かが、内側から削り取られていく。
虚空に暗い火球が生まれた。
岩塊と火球が空中で激突する。
音もなく、岩は灰となって霧散した。黒い塵が、舞い落ちていく。
(なんだ、この感覚は)
手が、かすかに震えていた。
使うたびに自分が薄れていく感覚だけが、確かにある。
巨大異形が、動きを止めた。
無数の顔が、一斉にハルを見つめる。赤く濁った瞳に、一瞬だけ――人間のような何かが宿った。驚愕か、恐怖か、それとも――
次の瞬間、異形の動きが激しくなった。
「ヤリナオォシィィィィィィィ......!」
壊れた声が洞窟に響く。腕の振りが速くなり、より凶暴に、より激しく暴れ始めた。
だが、百一名の連携攻撃は確実に効果を上げていた。
矢が次々と突き刺さり、魔術の炎が肉を焼く。剣と槍が、少しずつ巨体を削っていく。
戦いの中で、ハルの胸元が大きく開いた。
汗に濡れた肌に、紋様が浮かび上がっている。二重の円環。薄く、光を放っているようにも見えた。
巨大異形の動きが、鈍った。
無数の瞳が紋様を捉え、そして――
悲しげな咆哮が響いた。
ガルトの剣が、深々と胸を貫いた。
巨体が、ゆっくりと膝をついた。
黒い血が、まるで涙のように無数の顔から流れ落ちる。
そして最期に、すべての口が小さく動いた。
声にならない、何か。
やがて巨体は前のめりに倒れ、石床が鈍く軋んだ。
黒い血溜まりに、松明の光が揺れている。死骸から、黒い靄が静かに立ち上っていく。
静寂が戻った洞窟に、荒い息遣いだけが響いている。
「終わった......か」
誰かが呟いた。
ハルは自分の手を見つめた。
さっき、暗い炎を放った手。
震えは、まだ止まっていない。
胸の二重の円環が、冷たく脈打っている。
見渡せば、死者こそいないものの、負傷者は十名を超えていた。壁にもたれる者、座り込む者、肩を借りて立つ者。
「治癒魔法が効きにくい」
治癒師が青い顔で報告する。
「普段の三倍は魔力を使わないと......」
ガルトは状況を見渡した。
額に汗を浮かべ、剣を鞘に収めながら思案している。
「撤退する」
反対の声は上がらなかった。むしろ安堵の吐息が漏れる。
「ここが引き際だ。これ以上は危険すぎる」
髭面の冒険者が苦笑した。
「まあ、依頼分の仕事はしたってことで」
遠くから、低い咆哮が響いてきた。
一つではない。幾つもの声が、洞窟の深部から湧き上がってくる。
ハルは洞窟の奥を見つめた。
(さらにすすんでなにか手がかりをみつけたいが......)
(これ以上進むと死人がでそうだな。良い判断だ)
撤退準備を進める中、ガルトがハルに歩み寄った。
「あの魔法」
静かな声だった。
「見たこともない魔法だったな。炎術系に似ていたが......」
ハルは答えない。答えられない。
「あれのおかげで死者を出さずに済んだ、感謝する」
ガルトが肩を叩く。
正規兵の若い槍兵が、ハルに頭を下げた。
「助かりました。あの岩が飛んできていたら......」
「無事でよかった」
胸の奥で、小さな温かさを感じた。前回ここで失った命が、今回は守れた。
他の兵士たちも、感謝の眼差しを向けている。恐怖ではなく、敬意を込めて。
「さあ、戻るぞ」
ガルトの号令で、一行は石段を登り始めた。
地下二層を後にして、地上へ。
まだ薄いが、確実に濃くなっている何かがある。
(あと三日か......)
ハルだけが、その期限を知っていた。
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