五日目 始原の塔(四)
転移の光が収まり眼前に広がっていたのは、めまいがするほど巨大な螺旋階段だった。
石造りの階段は上へ上へと続き、その頂は霞んで見えない。
階段の外周には等間隔で魔力結晶が埋め込まれ、青白い光が螺旋を描いて天へと昇っていく。
三人は駆けるように階段を登り始める。
どれほど登っただろうか。
息が切れ始めた頃、壁面に大きな水晶の窓が現れた。
アリサが足を止めた。
「陛下......」
震える声に、女王も振り返る。
アリサは窓の外を指差していた。
女王は窓に歩み寄り、そして――言葉を失った。
眼下に広がっていたのは、もはや王国ではなかった。
黒い瘴気が大地を覆い尽くし、まるで暗黒の海のように波打っている。
王都も、森も、すべてが死の霧に沈んでいた。
「......急ごう」
それだけ言うと、女王は再び階段を登り始めた。
無念を胸の奥に押し込め、その背中は最後まで王としての責務を果たそうとする悲壮な決意に満ちていた。
永遠とも思える螺旋階段が、ようやく終わりを迎えた。
三人の前に、古い石造りの小部屋への入口が現れる。
小部屋に足を踏み入れると、中央に大きな石碑が立っていた。
アリサが駆け寄り、表面の古代文字を読み始める。
「また断片的です......『輪廻兵』『瘴気』『深淵』......輪廻兵?聞いたことのない言葉ですね」
その時、アリサが石碑の横に何かを見つけた。
「これは......」
古代文字とは明らかに異なる魔力文字で、何かが走り書きされている。
「五百年前の汎用魔法言語です。読んでみます」
アリサは文字をなぞった。
「……『塔に魔力が回復すると防衛機構も復活しちゃうみたい、だいじょぶだった?』……??」
アリサが困惑した表情を浮かべた。
「なんだか軽い感じですね、これを書いた人は......」
女王は石碑を見つめたまま、しばし沈黙していた。
『輪廻兵』という見慣れない文字を指でなぞり、何かを思案している。
その横顔には、重大な決断を下そうとする者の苦悩が浮かんでいた。
やがて、深く息を吐くと、意を決したように男に向き直った。
その表情には、追い詰められた者の決意があった。
「そなたに、託したいものがある」
男は黙って女王を見つめた。
「祝福——王家に伝わる禁断の魔法がある。これを受けた者は、理を超える力を得るという。だが、その行き着く先は破滅だとも」
女王は一瞬言葉を切った。
「王家は古い時代から、誰もこの祝福を使っていない。禁忌とされてきた」
女王は男の眼を真っ直ぐに見つめた。
「それでも、一縷の望みにでもすがりたい。我が祝福を受けてくれないか」
男は静かに頷いた。
「......分かった」
女王は深く息を吸った。
「我が名はイレニア・ディ・エルヴァンディア。真名を——アストライア」
「イレニア陛下......」
真名を明かすことの意味を、宮廷魔術師であるアリサは理解していた。
アストライアは両手を組み、古い言葉で詠唱を始めた。
「深き淵を廻りて昇る者よ、堕ちては昇り、昇りては堕ちる、その永劫の螺旋に身を投ぜよ——」
徐々に、アストライアの体が黄金の光に包まれていく。
それは温かく、しかし畏怖を感じさせる光だった。
光は渦を巻きながら上昇し、小部屋全体を照らす。
詠唱が頂点に達した。
「そなたに、我が王家の祝福を授ける」
アストライアが手をかざした瞬間——
『王家の祝福という名の枷を君に授ける』
男の脳裏に、別の光景が閃いた。
同じ光。同じ構図。
だが、自分に手を伸ばしているのは、アストライアではなく——高貴な鎧を纏った若い男の姿——
「これは祝福であり——」
アストライアの声が響く。
『——祝福は、呪いでもある』
若い男の声が重なった。同じ警告、同じ苦渋。
「そなたにしか、託せない」
『でも、君にしか託せないんだ——』
最後の言葉が重なった瞬間、若い男の声がもう一度響いた。
『——親友』
その呼びかけが、胸の奥を貫いた。
その瞬間、男の胸が灼熱の光を放った。
服の下から漏れ出す光は、アストライアの黄金とは違う、より古い、より深い輝きだった。
二つの光が接触しようとした瞬間——
まるで互いに反発する二つの力がぶつかり合ったかのように、激しい光の奔流が生まれた。
アストライアは後方に吹き飛ばされ、壁に背中を打ち付けた。
アリサが慌てて駆け寄り支える。
黄金の光は完全に霧散し、小部屋には男の胸から漏れる古い光だけが残った。
「ありえない......」
アストライアは掠れた声で呟いた。
「王家の祝福が、完全に拒絶された。いや、これは拒絶ではない。すでに別の祝福が——」
アストライアは男の胸を凝視した。
服の隙間から見える紋様、その形式、その刻印の古さ。
「その紋様......まさか、すでに祝福を受けているというのか」
熱い。焼けるように熱い。そして、なぜか懐かしい。
その時、小部屋に黒い瘴気が流れ込み始めた。
床を這うように広がる死の霧。
「議論は後だ!」
アストライアが叫び、三人は扉へと駆け出す。
男は走りながら、自分の胸を押さえた。
まだ、あの声が響いている。
『親友——』
誰かが自分を呼ぶ声。
温かく、懐かしく、そして痛切に響くその声が、胸の奥から離れない。
三人は、小部屋を飛び出した——
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