五日目 黒き瘴気
女王が始原の塔へと挑んでから、すでに三刻が過ぎていた。
アルベルトは塔の入口を見上げ、女王の無事を祈っていた。
塔の一層と二層には駐留部隊をおくり、退路は確保されている。
「騎士団長!」
伝令が息を切らして駆け込んできた。
「南方より、魔物の群れが接近中!その数、およそ三百!」
アルベルトは即座に立ち上がった。
野営地にはおよそ四千五百の兵。
数では圧倒的に有利だが、不安が胸をよぎる。
「総員、迎撃陣形を取れ!」
号令と共に、兵士たちが整然と動き始める。
まだ二十歳そこそこの槍兵は、才能を認められて精鋭槍隊に加わったばかりだった。
隣の熟練兵士が話しかける。
「大規模戦は初めてか、レオン。落ち着いていけ」
「はい...!」
森の闇を裂いて現れたのは、異形の群れだった。
人の形をねじ曲げたような姿。
四肢は不自然に膨れ上がり、背から余計な腕が生え、顔には幾つもの口が勝手に笑っている。
皮膚は爛れ、滴る膿が黒い煙となって立ち上る。
その煙が触れた草木が、瞬時に枯れていく。
「あれは...なんだ?」
若い槍兵の声が漏れる。
「怯むな!」
アルベルトの叱咤が響く。
「我らは王国の盾!この地を死守し、陛下の背を守るのだ!」
矢が放たれ、魔術師たちの火球が闇を裂く。
前衛の槍兵が突撃し、盾が軋みながらも異形の猛攻を受け止めた。
「母上、見ていてください」
若い槍兵が槍を構える。
体は訓練通りに動いた。
槍先が正確に異形の腹を貫く。
黒い血が噴き出し、異形が苦悶の声を上げる。
「やったな!」
ベテラン兵が肩を叩く。
戦いは激しく、しかし王国軍が優勢だった。
訓練された兵士たちの連携は、異形の個々の力を上回っている。
治癒師の少女はまだ若いが、その技量は確かで、精鋭治癒術師隊への配属を許されていた。
負傷した兵士に治癒の光を注ぐと、傷が塞がり、兵士が再び立ち上がる。
「ありがとう、ミーナちゃん」
「私も...王国の一員ですから」
まだ経験は浅いが、必死に役目を果たしていた。
「押せ!このまま殲滅するぞ!」
アルベルト自身も最前線に立ち、剣を振るう。
鋼の刃が異形の腕を断ち切り、巨体を後退させる。
勝利が見えかけた、その時だった。
風が、変わった。
南の方角から、地を這うような黒い靄が押し寄せてくる。
それは朝から漂っていた薄い瘴気とは比較にならない、濃密な死の霧だった。
「南から...王都の方角から...」
アルベルトの顔が蒼白になった。
封印が完全に破れ、深淵から溢れ出た純粋な死そのものだった。
瘴気の先端が地面に触れた瞬間、草が灰と化し、小さな虫が瞬時に塵となって消えた。
木々の葉が黒く染まり、パラパラと崩れ落ちていく。
「総員、後退!」
アルベルトが叫ぶが、もう遅い。
死の霧が最前線の兵士たちを呑み込んだ。
「ぐあっ...!」
若い槍兵が喉を押さえる。
呼吸をした途端、肺が焼けるような激痛が走った。
皮膚の下を黒い何かが這い回り、血管が皮膚越しに黒く浮かび上がる。
熟練兵が駆け寄ろうとするが、彼自身も黒い靄に包まれる。
鎧が見る見るうちに錆びつき、剥がれ落ちていく。
「あ...ああ...」
若者の体が内側から崩れ始めた。
指先から灰となり、風に舞っていく。
最期に母の顔を思い浮かべたが、それも一瞬で霧散した。
槍だけが、灰の山に突き刺さって残った。
「治癒魔法を!」
治癒師の少女が必死に光を放つが、死の霧に阻まれて光は届かない。
それどころか、治癒の光そのものが黒い靄に侵食され、黒く染まっていく。
「なぜ...なぜ治せないの...!」
涙を流しながら術を続ける少女の手が、徐々に黒ずんでいく。
指の感覚が失われ、やがて腕全体が灰と化していった。
「いやっ...いやぁぁ!」
彼女の悲鳴も、死の霧に呑まれて消えた。
異形たちは黒い靄を浴びて変貌していた。
体が一回り大きくなり、狂ったような咆哮を上げながら突進してくる。
「死の霧が...奴らを強化している!」
「円陣を組め!魔術師は風の結界を!」
アルベルトが必死に指揮を執る。
残った兵士たちが円陣を組み、魔術師たちが風の壁で死の霧を押し返そうとする。
だが、黒い靄は止まらない。
風の結界に触れた瞬間、魔力そのものを腐食させ、結界を端から蝕んでいく。
死の霧がじわじわと円陣を狭め、兵士たちを追い詰める。
馬が悲鳴を上げて暴れ、黒い靄に触れた瞬間に骨だけを残して崩れ落ちた。
地面は完全に死に、黒い砂漠と化している。
「団長、このままでは...」
副官が青ざめた顔で進言する。
彼の頬には、すでに黒い斑点が浮かび始めていた。
「塔への伝令を!陛下にお知らせを!」
「もう...遅い」
アルベルトは苦渋の表情で首を振る。
死の霧はすでに塔の周囲も包み始めている。
退路は、断たれた。
巨大な異形が、円陣の前に立ちはだかる。
「モドル...モドル...オワラナイイイイイイ!」
異形の壊れた叫びが響き渡る。
黒い靄を全身に纏い、赤黒く光る瞳がアルベルトを見下ろしている。
その体からは、絶えず死の霧が溢れ出していた。
「せめて...一体でも多く倒さねば」
アルベルトは剣を構え直し、最後の突撃を命じた。
「王国に栄光あれ!」
アルベルトの号令に、残った兵士たちが応える。
「女王陛下のために!」
しかし、その声も次第に弱まっていく。
剣を振るう度に腕の感覚が失われ、足を踏み出す度に体が崩れていく。
灰になりながらも、剣は振るわれ続けた。
夕刻――
五千の兵が駐屯していた野営地は、今や静寂に包まれていた。
天幕は朽ち果て、旗は塵と化し、地面は黒い砂で覆われている。
生命の痕跡は完全に消え去り、ただ死の霧だけが濃密に漂っていた。
霧の向こうからは、歪んだ声がいくつも重なり合って聞こえてくる。
騎士団長アルベルトは、最後まで剣を握ったまま息絶えていた。
その体は半ば灰と化しているが、顔には無念と、そして女王への忠誠が刻まれている。
無数の武器が、黒い砂の中に埋もれていた。
塔の中にいる者たちは、まだこの惨劇を知らない。
黒い靄は確実に濃度を増しながら、塔を完全に包囲しつつあった。
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