四日目 開かれた扉
日が西の山稜に沈む頃、王国軍五千の軍勢が塔を取り囲んだ。
「確かに……扉が」
騎士団長アルベルトが呟く。
塔の基部に、これまで存在しなかった巨大な石扉が、重々しく口を開けていた。
女王は馬上から塔を見上げた。
王家の歴史よりも古い始原の塔。
五百年もの間、誰も入ることのできなかった『開かずの塔』。
いつの頃からか、害もなければ益もない、ただそびえ立つだけの石の巨人として、時折物好きな旅人が眺めていく程度の存在となっていた。
それが今、扉を開いている。
「魔力だ」
宮廷魔術師の一人が震え声で告げた。
「塔全体から、尋常ならざる魔力を感じます」
『始原の塔に魔力満ちし時』――古書の一節が女王の脳裏をよぎる。
「陣を敷け」
女王の号令が響く。
アルベルトが素早く各隊長へ指示を飛ばし、五千の軍勢が整然と野営の準備を始めた。
天幕の中、松明の光が地図と古い図面を照らしていた。
王国の重臣たちに混じって、冒険者パーティーのリーダーたちも作戦会議に加わっている。
「塔の内部構造は不明です」
グレゴリウスが古い文献を広げる。
「残念ながら、構造に関する詳細な記録は残されておりません」
「およそ五百年前までは自由に出入りできたようですが、どの記録にも『暗銀石で築かれた廃墟』『既に朽ち果てていた』『特に見るべきものはない』といった記述ばかりです」
女王が僅かに眉をひそめた。
「暗銀石……」
無意識に、腰の剣の柄に手が触れる。
「そして」
グレゴリウスが別の頁をめくる。
「塔が魔力を帯びていたという記録は、過去に一切ございません。今回のように塔全体から魔力が漏れ出すなど、前例がないのです」
謁見の間に、重い沈黙が落ちた。
「罠があるかもしれんな」
ベテラン冒険者のリーダーが口を開いた。
彼の隣には、幾多の古代遺跡を踏破してきた熟練者たちが控えている。
「正規軍の諸君は野戦には慣れているだろうが、閉所での戦いは勝手が違う。音の反響、視界の制限、退路の確保。古代遺跡の探索には独特の勘と経験が要る」
別のパーティーリーダーが地図を指さす。
「俺たちは先月も東の遺跡を探索してきた。未知の建造物でも、石造りの構造には一定の法則がある。隠し扉、重力落とし、毒矢の仕掛け――そういうのを見抜けるのは場数を踏んだ冒険者だけだ」
騎士団の隊長の一人が渋い顔をしたが、女王が手を上げて制した。
「彼らの言う通りだ。だからこそ冒険者ギルドに協力を要請した。王国兵の統率と冒険者の経験、両方が必要だ」
「三百名で突入する」
女王の決定に、重臣の一人が進言した。
「陛下、御身が直接赴かれずとも――」
「瘴気はもう迷宮から漏れ出している」
女王が静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「明日には王都に届くやもしれぬ。時間はない。それに――」
剣の柄に手を置く。
その瞬間、天幕内の空気が張り詰めた。
「私も十分戦えると思うが?」
誰も異を唱えられなかった。
魔法剣士として王国最高の実力を持つ女王。
その力は七人の英傑に勝るとも劣らず、彼らがこの場にいない今、まさに王国に残る最強の刃だった。
「熟練冒険者百名、王国精鋭二百名。私が先頭に立つ」
女王は地図に目を落とし、冷静に続けた。
「各階を制圧次第、駐留部隊を配置。退路を確保しながら上を目指す。アルベルト、そなたは外を固めよ。駐留部隊の派遣と、包囲軍の指揮を頼む」
「御意」
騎士団長が深く頭を下げた。
作戦会議が終わり、それぞれが散っていく。
冒険者たちの野営地では、焚き火を囲んで明日への準備が進められていた。
「解毒薬は各自三本は持ってるな?」
「ああ。あと麻痺消しも二本ずつだ」
「閉所で毒霧なんか使われたら逃げ場がないからな」
別の焚き火では、パーティーリーダーたちが戦術を詰めていた。
「前衛が壁になったら、すぐに後衛は詠唱開始。塔の中じゃ音が反響するから、合図は手信号だ」
「了解。罠を見つけたら左手を上げる、魔物なら右手だな」
「松明係は絶対に手を離すなよ。明かりを失ったら終わりだ」
不安げな会話が交わされる中、一人の男が静かに夕食を取っていた。
近くの冒険者が彼の落ち着きぶりを訝しげに見つめたが、男は気にする素振りもない。
周囲の緊張とは裏腹に、その所作はどこか日常的で、まるで幾度もこんな夜を過ごしたことがあるかのようだった。
腰にはありふれた佩剣。
しかし背中に斜めに背負われた剣は違った。
布に包まれてはいるが、その朽ちた鞘から漏れる気配は、かつて幾多の戦場を潜り抜けた武器特有のものだった。
男は立ち上がり、塔を見上げた。
星々の光と共に、塔全体がほのかに魔力の燐光を放っている。
燐光が麓を淡く照らし、山肌の古い坑道の影が浮かび上がる。
それは美しくも不気味な光景だった。
まるで塔自身が、長い眠りから目覚めつつあるような――
『封印が解けたら、必ず私を起こしなさい』
脳裏に響く声。
その言葉は魂に直接刻まれているかのように、何度も何度も反響していた。
夜が更けても、野営地には緊張が満ちていた。
武器の手入れをする者、祈りを捧げる者、仲間と最後になるかもしれない酒を酌み交わす者。それぞれが、それぞれの方法で、明日という未知への扉に向き合っていた。
女王は天幕の外に立ち、塔を見上げていた。
「アルベルト」
「はい、陛下」
「ユーメリナの容体は?」
「魔法連絡によれば、安定しているとのことです。ただ、まだ意識は戻っていないと」
女王は頷き、続けて問う。
「瘴気の状況は?避難は進んでいるか?」
騎士団長の表情が曇った。
「瘴気は予想以上の速度で拡散しています。王都でも避難が始まっており、すでに城下の一部が立入禁止区域となっています」
「時間がないな」
女王が呟く。
塔から吹く風が、古い魔力の気配を運んできた。
明日になれば、分かるのだろうか。全ての答えが。
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