1.2 アリガト
宵の口の帰り道、泥だらけの田道を俺は歩いて帰っていた。
今日アメリア様から教えてもらったことを何度も何度も脳内で反芻し、脳裏にこびりつかせる。
これが十三歳としての俺の仕事とも言えた。
教会による慈善授業は週に二回程度。
一回の授業の内容を忘れてしまったら、またいつ教えてくれるのかはわからない。
だからこそ、こうして帰り道の時間を使って自分なりに解釈しているわけだ。
「まぁ……大体は理解できた」
俺はページを一枚破り捨てる。
これまで俺が学んできたことは全てここに書かれているが、これが無くとも困るはない。
全部覚えてるからね。
そして、覚えたことの証明として、ページを破り捨てるのだ。
今まで破り捨ててきたページの中には、この都市の硬貨についてが書かれているページもあった。
おさらいしておくと……大都市クレオシスでは、青銅、銅、銀、金、プラチナの順で硬貨の価値は高くなる。
そして、銅貨を百枚集めれば銀貨一枚に相当し、銀貨百枚集めれば金貨一枚に相当する。
要は、百枚集めれば価値が上がるのだ。
とはいっても、市場で売られている物であれば、大体は銅貨で購入できるとアメリア様から教わった。
まぁ、俺には縁のない話だが。
「さてと、食料集めに行くか」
日課である食料集めに行こうとした瞬間、すぐそこに曲がり角を進もうとした瞬間――。
「おい、なんだこの乏しい金は!」
突如怒号が鳴り響き、目の前から橙色の短髪の少女が飛びだした。
その少女は力無く転がり、止まると弱々しい呻き声を上げつつ腹を抱えて背を丸めた。
その少女は貧民のような荒生地を切り出したような服ではなく、滑らかな素材で構成された上質な服を着ていた。
極め付けは左側頭部の……赤色のリボン……。
どこか見覚えのあるリボンだ……。
「うっ……うぅ……」
俺は辛そうに呻き声をあげている少女に近づき、触れずそっと表情を覗き込む。
髪に隠れて表情は読み取れなかったが……それでもわかることはある。
悔しそうに手を握り締め、血が滲むほど唇を噛んでいた。
「そこどいてろゴミカスが」
唐突に顔に影が覆い被さる。
「う……」
いつの間にか仰向けになって倒れてたようだ。
鼻が痛み、鼻腔から何かが垂れてる。
まぁ触れなくたってこれだけは溢れてれば嫌だってわかる……鼻血だな。
「うあっ!」
その瞬間、ドスの効いた鈍い音がした。
そろそろ自覚するべきだ、これは夢なんかじゃない。
痛みが教えてくれている。
これは立派な現実だ。
俺は過去に舞い戻ったんだと……貧民という立場に疲れて思考を停止するのはやめようじゃないか。
「おいなんとか言えよ金づるがッ! いつまでに払うんだ! くっだらねぇ」
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
必要最低限の装備を身につけた男性が震えている少女を背を何度も何度も蹴り付けていた。
「ヒョヒョ! よくやったぁぁぁ!」
どこか不安定な鼻歌が聞こえた。
少女が飛び出してきた道から栄養を過剰に蓄えた腹を上機嫌に揺らしながら着飾った貴族が姿を現す。
俺に目をくれることなく、じっくり舐めつけるような視線が少女へと向けられる。
「ヒョヒョ! こいつぁいい娘だ……将来有望! 即決だ、お家で飼うぞっ! 傭兵っ、こいつを連れてこい!」
「傭兵の中でも俺は中位傭兵だ、間違えんなよ! って、聞いてねーか……」
中位傭兵と名乗る男性が頭を掻きむしりながら、少女の手を無理やり引き、路地裏へと引き込まれていく。
少女は必死に抵抗しているみたいだが、俺から見えなくなるのも時間の問題だ。
正味彼女に関わる必要なんてない。
貴族の反感を買えばすぐに殺され、気に入られれば壊されるまで貴族に飼われ弄ばれる。
そんなくだらない人生を生きるのが貧民だ。
できるだけ見つからないよう穏便に過ごして――。
「……助けて! 私にはまだやることがあるの!」
か細く震える手が俺に伸びた。
橙髪が風に流されるように靡き、分かれた前髪から蜜柑色の目が覗いた。
苦しみと怯え、悲しみが複雑に混ざり合い、助けを求めるように瞳が揺れた。
「俺は……」
彼女が小道に連れられていくのを俺は黙々と見つめた。
助けてくれないと理解すると、蜜柑色の瞳が絶望に呑まれ宿っていた光を失い、涙が頬を伝った。
「いつつ……」
ズキッと頭に痛みが走ったが、それでも壁を使って寄り掛かりつつ立ち上がる。
「それでもやれる事があるならやってあげないとな」
そう呟きつつ、姿を消していった薄暗い小道を進む。
さっきは穏便にとか言っていたけど、俺は馬鹿だった。
きっと彼女を助けられるのに……。
でも、ここで助けるわけにはいかない。
特に人目がつく場所では。
「……私にはやるべきことがある――か」
言ってることが、まるで俺を助けようとしたフレニアみたいだな。
―――――――――――――――――――――
残留する鼻を摘みたくなるような匂いに混ざって漂う微かにシトラスの香り。
その匂いが俺を導いた。
一度だけ嗅いだ事のある匂い。
奇しくも、その匂いを嗅いだのは同じ状況だ。
少女を助けるために小道へと入り込み、後を追い、自分の未来を守るために諦め踏みとどまった……その状況に。
この時が俺の人生に後悔をもたらした最初の原点だったのかもしれない。
もし、勇気を出して歩んでいたら――。
もし、賢明な判断ができたら――。
もし、頼れる仲間がいたら――。
もし、誰にも負けない強さがあったら――。
過去を振り返れば、「あーすれば良かった」とか「こーすれば良かった」とか何通りもの後悔が枝分かれしている。
賢明な判断は多分まだできない、頼れる仲間もいない、誰に負けない強さはない。
それでも、『勇気を出して前に進む』ことぐらいはできる。
なら進むんだ。
すぐに変われるとしたら、勇気を出すことぐらいなんだから。
「見つけた」
シトラスの香りを辿り、やっと視界に奴らを収めることができた。
曲がり角を曲がって追跡を逃れるわけでもなく、隠し通路を移動するわけでもなかった。
王都の中心――貴族どもの棲家を目指し、ほぼ真っ直ぐに進んでくれたからこそ、匂いをたどって見つけることができたのかもしれない。
「ヒョヒョ! いい女が手に入ったぁ、今日は楽しめそうだぁ」
浮かれた声を上げる貴族の足元に俺は銀貨を指で弾き飛ばす。
「どうせ金だろ? 取引しよう、この金でその少女を渡してくれないか?」
少し驚いた表情で貴族はこちらを振り返り、一瞬睨んできたが転がってきた硬貨見て口角を釣り上げる。
「ヒョヒョ、こんな端金で誰がぁ――」
一応銀貨なんだけどな。
これでも『端金』か……つくづく貴族は貧民が汗水垂らして稼いだ貨幣の価値を理解できてないみたいだ。
まぁそんな事だろうとは思ってた……。
金がダメなら、残る手段は一つ。
「その少女を渡せ」
「あぁこんな事したら後悔するぞ、俺」と内心叫びつつ道端で選び抜いた棒切れを構える。
中位傭兵が怪訝そうに俺を睨め付けた。
「おいおい、頭のネジ吹っ飛んだか? その武器で? 貧民風情が俺に勝てるとでも?」
「じゃなかったら、何で俺はここにいるんだろうな」
「めんどくせ……貴族様、残業代は弾んでくれよ」
「ヒョヒョ……そんな事はどうでもいい! 早くアイツを殺せ!」
中位傭兵は舌打ちをしながら正真正銘の人を切るためのロングソードを構え、俺に向き合った。
互いの目線が交錯する。
滴る汗が喉を伝い滑り落ちる。
そして……。
「何をやってる! 早く殺せ!」
貴族の声を合図だと見立て、両者は地を蹴った――。
相手のとの距離が近い、その筈なのに遅い。
アイツも、コイツも、奴ですら人の概念を簡単に捻じ曲げてくる相手と出会ってきたからだ。
でもその陰で、俺は――勝てそうだ。
「おら死ねぇッ!」
中段から放たれた斬撃が迫り来る。
ここは受け止めるか、回避するか。
いや、俺はここで成長する。
「なにッ!?」
顔横を通り過ぎた剣の側面を棒切れで叩く。
このスピードで回避しようとしたら串刺しになる。
かと言って、武器が頼りなく受け止められやれやしない――なら、チャンスを掴むには軌道をずらす……その一点が勝ち目になる。
相手の足元に潜り込んだ俺は棒切れ一直線に腹部へ滑り込ませる。
「その武器で何ができるッ!」
中位傭兵は武器を両手に持ち、杭を打つ動作で振り下ろす。
しかし、俺の方が先に届く。
「ウグァぁぁぁ――! お、俺の目を、よくも!」
その一撃は腹筋に阻まれ……爆散した、目的通りに。
砕け散った木片は相手の目を潰した。
よろめく相手に俺は躊躇いなく拳の一閃で顎を打ち抜く。
相手の体が宙に浮き、地に叩く。
ぐったりと体から力を抜き、白目が剥き出した。
「いっ……!」
使えない武器だからって侮ったな。
って格好付けたいけど、正直ミスったな……。
腹部に浅い傷をできてしまった。
中位傭兵の手放した剣が落ちてくることも想定に入れておくべきだった……。
痛い、痛いけど、ここは我慢すべきだ。
俺が怪我したってバレれば、追い打ちをかけてくるかもしれない。
「傭兵さん、もうへばちゃったのか? 残念だなぁ、じゃぁ次は――」
俺は貴族へ睨みを利かせた。
すると、貴族は脂汗をかきながら俺と橙髪の少女で諦めるか、諦めないかを決め損なっているかのように交互に見比べた。
ついには、決心がついたのか貴族は不満げな表情で中位傭兵を叩き起こした。
「ま、まぁ、いいさ。その娘を置いてけぇ」
「クソッ! 覚えてやがれ!」
最後に中位傭兵は橙髪の少女の背に強めの蹴りを一発入れて去っていった。
俺は完全に離れたことを確認し、すぐさま彼女に駆け寄った。
引きづられてできたであろう擦り傷が数箇所、殴られてできた内出血は何ヶ所かしてるけど、息してる。
大事には至っていない……ひとまず、一安心か。
「どうして戻ってきたの?」
橙髪の少女はボロボロな上半身を起こし上げて、聞いてきた。
その少女の目元に流れていたはずの涙は薄赤い跡を残して消えていた。
「助けて欲しかったのか、助けて欲しくなかったのかどっちだよ……」
「助けて欲しかった……けど! 命を賭けてまで助けてくれたのはどうして?」
「未来に借りを勝手に返したかった」って言ってしまえば楽なんだろうな。
ただそれを言っても信じてはくれないだろうし、「何言ってるの」って不気味がられそう……。
よしこうなったら、今パッと思いついたことを言ってしまえ!
「あー、そうだな……顔が好みだった」
「えっ……」と予想外の回答だったのか少しの間口を開けてポカーンと佇んだ。
「ふっ、ふふふ……」
次には、フレニアは吹っ切れたかのように泣き笑いし始めた。
「ふふっ! …………アリガト」
「最後だけ聞こえなかったんだけど、今なんて言った?」
「何でもない!」
橙髪の少女は頬を赤く染め、プイっとそっぽ向いてしまった。
「ところで……名前を教えてくれないか?」
「あっ、忘れてた! フレニア・セシア、受けた恩は絶対に返すから!」
「それじゃ、フレニアの協力が必要になったら恩を返してくれ」
「……」
って、平然と名前を言ってたけど、やっぱりお前だったのか。
三年前に偶然会ってたなんてな、フレニア。
それにしても、平民とか良い身分してたんだな。
「こんな俺で申し訳ないけど、貧民街を抜けるまで見送るよ」
「ううん……大丈夫」
フレニアは遠慮がちに首を振った。
「いや、でも――」
「大丈夫だよ、だって私も貧民になっちゃったし……」
……は?
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