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女主人達の異世界グルメ

森の恵みと愛しき料理

作者: 百鬼清風

 焼けた石壁からはじけるような音がした。炉にくべた薪の火が勢いを増し、鉄鍋の中で湯気がもうもうと立ち昇る。


「よし、あとは塩をひとつまみ…」


 わたしは小さな匙で岩塩をすくい、鍋に落とした。灰色がかった粗塩が湯に沈むと、柔らかい獣肉の香りがぐっと際立った気がした。


 干し肉と根菜のスープ。保存のきく鹿肉に、地元で採れるニンジのような甘みのある根菜、山の香草を少し。調味料は塩と、ほんの少しの酢だけ。地味だけれど、今この村で作れる精一杯の滋養料理だ。


 名前はアイラ。村はずれの竈小屋で食事を作って暮らしている。母が亡くなったあと、村人たちの口に合うような料理を試行錯誤する日々だった。


 今日のこれは、村の狩人が持ってきてくれた干し肉を使って煮た、簡素ながら心あたたまるスープだ。


「…ふぅ。いい香り」


 鼻先をくすぐる湯気に目を細めていたその時


「ここで火を使ってるのはお前か?」


 鋭い声が背後からした。驚いて振り返ると、竈小屋の入り口に一人の男が立っていた。


 灰色の毛皮をまとい、背には大きな弓。肩まで伸びる黒髪が風に揺れていて、切れ長の目がまっすぐわたしを見ている。


「…あなた、村の人じゃないですね?」


「ああ。通りすがりの狩人だ。匂いに釣られて来た」


 その言葉に、ついくすりと笑ってしまった。なるほど、この辺りじゃめったにない、肉の煮込みの香りがしたら、腹を空かせた旅人には抗えないだろう。


「どうぞ中へ。スープならあります。…あ、でもお代はいただきますよ?」


 思わずそう言ったのは、いくらお人好しでも、食材が豊富とは言いがたいこの時期だからだ。


 ところがその狩人は、口元にかすかに笑みを浮かべて、腰に下げた革袋から金貨を一枚取り出した。


「これで足りるか?」


「えっ…!? ええ、じゅうぶんすぎます」


 思わず手が震えそうになった。村の誰もが銅貨で精一杯の中、金貨なんて久しぶりに見た。


 わたしは慌てて木の椅子を引き、スープ皿をよそった。熱々のそれを目の前に置くと、狩人は何も言わず、黙って匙を取り、ひとくち。


 そして、ほんの少し、目を見開いた。


「…うまいな」


「…そうですか?」


 正直、思っていたより感想が素直すぎて、少し拍子抜けした。でもその顔は、ほんのわずかだけど、緊張が解けたようにも見えた。


「おれの名はレオン。北の山を越えてきた。しばらくこの村に滞在する」


「そうですか。わたしはアイラ。この竈小屋で食事を作ってるの。もしよければ、また来てくださいね」


 そのときのレオンの瞳に、ふっと光が差したように見えたのは、きっと気のせいじゃなかった。




 あれから三日。レオンは、毎日のように竈小屋へやってくるようになった。


 最初はスープだけだった。でも、昨日は自分で仕留めたというウサギを持ってきて、「料理してくれ」と言ってきた。わたしはその肉を香草と一緒に焼き、パンを添えて出した。


 そして今日は、大きな籠いっぱいのきのこを担いで現れた。


「…こんなにたくさん?」


「この辺りの森は豊かだ。毒のないやつは全部選んである。食えるか?」


「ええ、大丈夫。わたし、きのこは得意です」


 香り高い黒きのこ、厚みのある白いもの、笠の裏に銀粉のような模様をもつ珍しい種類まである。おそらく、相当奥まで入って採ったのだろう。


「…これ全部、あなた一人で?」


「問題ない」


 レオンは簡単に言ったが、こんな重さのある籠を一人で森から運んでくるのは、相当な体力がいる。狩人とはいえ、なかなかのものだ。


「じゃあ今日は、焼ききのこと根菜の和え物にしましょうか。ちょうど干し葡萄酢があるので」


 わたしは鉄板を熱し、油を引いた。油といっても、これは木の実を絞った簡素なもの。ごま油やオリーブのような風味はないけれど、じゅうぶんに香ばしい。


 鉄板が熱せられる音とともに、笠を下にしたきのこを並べていく。じり…じり…と水気が飛び、笠の内側に肉汁が浮いてくる。


 その香りに、思わずレオンが眉を動かす。


「…ずいぶん手際がいいな」


「小さい頃から、母に教わってきたので」


「そうか」


 静かに応えるレオン。でもその瞳は、じっと焼ききのこを見つめていた。


 少し冷ましたきのこを、煮た根菜とともに混ぜ、酢と塩で和える。ほんの少しだけ、乾燥させた月草の粉をふりかけると、ほんのりとした森の香りが立ちのぼった。


「お待たせしました」


 レオンの前に皿を置くと、彼は無言で匙を取り、一口。


 その途端


 彼の手が、ふっと止まった。


「…これは、懐かしい味だ」


「懐かしい?」


「ああ。昔、母が作ってくれた味に、どこか似てる」


 わたしは思わず、手を止めた。彼が「母」という言葉を口にしたのは、初めてだったから。


「レオンさん、もしかして…あなたのご家族は…?」


 彼は、少し目を伏せてから、答えた。


「もういない。父も母も、弟も。…皆、北の冬を越せなかった」


 その一言に、空気が変わった気がした。彼の孤独が、その背にまとっている獣皮のように、重く、冷たく感じられた。


「そう…だったんですね」


 わたしも、母を病で亡くしている。だから、わかる。誰かを想って作った料理が、その誰かにもう届かないという、あの空虚さ。


 だから、わたしは静かに言った。


「…だったら、今日のこれは、わたしの味じゃなくて、あなたのお母さんの味。そう思ってもらえたら、嬉しいです」


 レオンは目を伏せたまま、小さくうなずいた。


 その背中が、少しだけほぐれて見えたのは、きっとわたしの思い込みじゃない。


 きのこと根菜の香りに包まれた竈小屋で、わたしたちはしばし、無言のまま、あたたかい皿を分け合った。




 風が冷たくなってきた。


 この村に来てから、初めての秋。竈小屋の屋根を打つ葉の音に、季節の移ろいを感じる。朝の空気は澄んでいて、火を起こす指先がかじかむほどだ。


 そんな中、今朝もレオンはやってきた。肩に猟具を背負い、口には咥えた干し肉。


 「…朝ごはん、それだけなんですか?」


 思わず声をかけると、彼は少し口元をゆがめた。笑った、というよりは照れたような顔。


 「面倒でな。狩りが早くて…まあ、慣れてる」


「慣れてるじゃなくて、体に悪いですよ。今日はちゃんとした食事、作りますから」


「またか。まるで母親みたいだな」


「うっ…ち、違いますけど! ただの料理好きです!」


 レオンはくす、と笑った。こんな風に笑うようになったのも、ここ数日のこと。最初の頃は、まるで人との距離を測るような目をしていたのに。


「じゃあ、これ。今朝仕留めたヤマシカの干し肉。少し塩が強いが、煮込めばいけると思う」


 わたしはその干し肉を受け取り、香りを確かめる。硬いけれど、上質な脂がのっている。煮込めば、いい出汁が出そうだ。


「赤根芋と一緒に煮込みましょう。干し葡萄の果汁も少し加えれば、甘味も出ます」


「赤根芋?」


「この村の地下で採れるんです。見た目は土塊みたいだけど、火を通すと中が真っ赤で、ほくほくして甘いんですよ」


「…そんな芋があるとはな。食べるのが楽しみだ」


 竈に火を入れ、鍋を温める。干し肉は水にくぐらせ、余分な塩気を落とす。それから、刻んだ赤根芋とともに鍋へ。木の実の果汁と香草を加えて、弱火でじっくり。


 煮立つ鍋のふちから、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。鼻先をくすぐるこの匂いが、わたしは好きだ。料理が、誰かの心をゆっくり解かしていくようで。


 レオンは、無言で鍋を見つめていた。


「…いい匂いだな」


「ね? お腹、鳴ってません?」


「…鳴ってない」


「ふふ。顔に出てますよ?」


 彼はまた、照れたように視線を逸らした。その横顔が、なんだかちょっと嬉しそうで、わたしの心もほんのり温まった。


 やがて煮込みが完成し、二人で小屋の奥、木製の机に向かい合って座る。熱々の煮込みを一匙すくって、レオンに差し出した。


「ほら、あーん、なんてしませんから。ちゃんと食べてくださいね」


「…あーんって言われたら、食べづらい」


「だから言わないってば!」


 そんなやり取りの後、彼は静かに匙を口に運ぶ。


 コトン。


 手に持っていた匙が、静かに机の上に置かれる。


「…なんですか? 味、合わなかった?」


「…いや、うますぎて、言葉が出ない」


 レオンはそう言って、わたしをまっすぐに見つめた。その眼差しに、わたしの胸がきゅっと締め付けられる。


「…おまえが作るものは、どれも、なんだか心が満たされる。腹が膨れるだけじゃなくて…なんというか、懐かしくて、安心するんだ」


「それって、たぶん…あなたの中に、ちゃんと“帰りたい”って思える場所があったからですよ」


「…帰りたい場所、か」


「ええ。わたしは…ここがそんな場所になれたら、いいなって思ってます」


 言ってから、顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。何を言ってるの、わたし。まるで、まるで


「…じゃあ、しばらくは通うか。おまえの料理が、俺の“帰る場所”になるまで」


 その声は静かで、でもどこか甘かった。


 今日の煮込みは、少し焦げてしまった。でも、それでもいいと思えた。焦げた風味も、わたしたちの距離を縮める“味”なのだとしたら。


 夜の静寂に包まれながら、心の奥で、何かがそっとほどけていった。




 空が、深い藍色に染まった夜。


 小屋の前に広がる草原の向こう、山々の稜線がぼんやりと浮かび上がる。月明かりに照らされたその風景は、どこか幻想的で、そしてどこか寂しげだった。


 火の灯りが揺れる中、わたしとレオンは並んで座っていた。夕食を終えたばかりで、満足そうに腰を下ろしている彼の横顔を見つめながら、私は何度も言葉を選び直していた。


「…レオン、今日はありがとう」


「何だ、急に?」


「だって、もうすぐここを出るんですもの。わたし、ひとりで町に戻らなきゃいけないから」


 レオンは驚いたように顔を向け、わたしを見つめた。その瞳に、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「おまえ、どこへ行くつもりなんだ?」


「実家に…戻らないと。そろそろ母が心配してるかもしれないし、料理の仕事も本格的に始めないと。わたし、まだまだ勉強が足りないから」


「そうか…でも、もう少しここにいればいいだろう?」


 その言葉に、わたしは胸の奥がきゅっとなった。どうしてこんなに、レオンの言葉が温かく響くのだろうか。


「でも…お互い、目的が違うんです。わたしは、自分の道を探しに行かないと。あなたも、きっとここに留まってはいけない。大事なものが、待っているんでしょう?」


 レオンは少し黙って、遠くの山々を見つめていた。しばらくして、ふっとため息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「…そうだな。俺も、この村ではいつか手に入れられないものがあるような気がする。だから、いつか旅立たないといけない」


「やっぱり…」


「でも、今すぐにってわけじゃない。おまえが行く時には、俺も…何かしら、覚悟を決めてるつもりだ」


「覚悟?」


「うん」


 その言葉が胸に響いた。何も言えずに、私はただ彼の横顔を見つめることしかできなかった。


 しばらく沈黙が流れた後、レオンはゆっくりと立ち上がり、私に手を差し出してきた。


「一緒に、見てみないか? 星を」


「え?」


「夜空だ。空を見上げれば、きっと何かがわかるかもしれない」


 その言葉に少し戸惑いながらも、私は彼の手を取った。柔らかいその手のひらが、温かく感じられる。彼が引っ張るまま、私たちは小屋の外に出て、広がる草原に足を踏み入れた。


 月明かりと星々だけが照らすその場所に立ち、ふと視線を上げると、無数の星がきらめいている。冷たい風が肌に触れ、ほんの少しだけ、懐かしい気持ちが胸をよぎる。


「この星空、昔から変わらないんだな」


「そうね。村の人々も、この星空の下で生きてきたんだろうね」


「その通りだな。でも、俺たちには、これからの空が待ってる」


「え?」


 レオンは静かに、私の顔を見つめていた。その瞳は、言葉では表せないほど深く、優しさが詰まっていた。


「おまえと一緒に、次の空を見上げたい」


 その言葉に、わたしは驚き、そして心がふわりと温かくなった。


「レオン…」


「おまえ、まだ答えてないだろう?」


「え?」


「俺、おまえに、もう一度言いたいんだ」


 彼は深く息を吸い込むと、その手をわたしの肩に置いた。


「お前がいるから、ここにいる意味がある。お前と食べる食事は、俺にとっては一番大切なんだ。だから、いずれ、どこに行くことになっても、また一緒に料理を作って、食べて、笑いたい」


 その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。


「わたしも…そのつもりよ」


 そして、彼の目をじっと見つめながら、わたしもそっと言った。


「いつか、きっと一緒に、いろんな料理を作って、いろんな場所で食べて。そんな未来を、信じてる」


 その瞬間、彼の表情がふっと柔らかくなり、満面の笑みが広がった。


「俺も信じてる。お前と一緒に、歩いていきたいと思ってる」


 星が降り注ぐ夜空の下、私たちはただ静かに、その瞬間を共有した。


 そして、これからの未来もまた、二人の手のひらの中に広がっているのだと、心から確信できたのだった。



おしまい



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