第九話 歓迎のハヤシライス
猫は飼い主の足音すら聞き分け、扉の向こうの音さえ判別できるらしい。そのためか飼い主の帰宅がわかると扉の前で待ってくれることもあるんだとか。
それは人間も同じなのかもしれない。
それはよく晴れた日の午後。昼飯もとうに食べ終え陽気な空気が眠気を誘う。こんな日は何もせず家でゴロゴロしても罰は当たらない。でなくとも外に出る用事もないので惰眠をむさぼっていた。なのに、嵐というものはいつも前触れもなくやってくる。
二人とも用事はなく外出する必要もない。夕飯の材料もある。あとはその時間まで好きに過ごすだけだった。アオはキナコを傍らに読書、俺は現実と夢の間をふらふら漂っていた。そのとき、突然玄関の扉を誰かが開けようとする音がした。扉には鍵がかかっていて当然開くはずもない。そもそも客ならいきなり扉を開けようとなどするはずもない。まずは酔っ払いが間違えたのか、さらに疑うなら泥棒だろう。だがこの真っ昼間にうろついている酔っ払いも泥棒も歓迎されるものではない。せっかくの眠気は覚め、何事かと玄関の方を見やれば今度は鍵が開錠される音がした。今この家の住人二人は家の中にいる。外から開ける人間などいるはずもない。しかし鍵は何の抵抗もなく開いてしまう。
するとそれまで読書を中断したまま玄関を見つめていたアオが突然立ち上がり、本も投げるように玄関へと走った。本来なら危険だから止めるべきだ。だがもうここまで来たら誰が来たのか予想できる。アオが玄関にたどり着くと同時に重い扉が開いた。アオはまるで飼い主を待つ猫のように玄関に立ちゆっくりと開く扉、その向こうにいる人間を待ち受けた。
玄関で二人が何か話している声が聞こえるが、俺は聞こえないふりをして再び夢の世界へのダイブを試みるが、それはあっさりと邪魔される。
「よう」
俺の機嫌を底辺まで落とした原因、その張本人は当たり前のようにリビングへズカズカと上がり込んだ。一九〇はあるだろう巨体、どう見てもカタギではない雰囲気と獲物を射殺すような目と顔。あとは顔に傷の一つや二つあれば完璧。きっとやくざに面接に行ったら一発OKされること間違いなし。職質されたら逆に怯えて逃げられそうだ。
だが怯える必要なんてない。この容姿で、この態度で、この男はれっきとしたサラリーマン、ただの一公僕に過ぎない。
「・・・おう」
一応返事はしてやる。正直それも嫌なくらい、俺はこいつが嫌いだ。何で、とか細かい理由は忘れた。要するに生理的に受け付けないのだ。さすがにこいつがくつろいでいる横で居眠りする気にはなれず、仕方がなく起き上がる。せっかくの昼寝日和が台無しになってしまった。
さてアオはというと、キッチンからお盆に乗せた麦茶と何か器に盛られたものを持ってきた。お盆ごとちゃぶ台に置かれたそれはさくらんぼだった。この家にさくらんぼはなかったはずだ。ではなぜあるのか。答えはあっさりと与えられた。
「セイジがくれた。土産だって」
ああ、わかってたよ。わかってたからこっちから聞かなかったんだよ。
さくらんぼはアオの好物の一つだ。普段他の子供に比べてもあまり表情が動かないしわかりにくいアオだが、好きなものを前にテンションが上がることくらいある。よく知っている者でなけりゃ気づかないかもしれんが、確かに喜んでいた。
ちょっとそれがおもしろくなかったのだが、それが顔に出てしまっていたらしい。「はっ」とこちらを笑い飛ばすそいつの顔がさらにむかついた。
「何だよ?」
「別に?」
こいつ、ホントにいい年した大人か。人のことはあまり言えないが、こいつだけは比べられたくない。
こいつは普段無関心みたいな顔をしているくせに、なんだかんだアオの好きなものはよく知っている。そしてこいつのことを一番わかっているのがおそらくアオだ。アオは当たり前のようにセイジの隣に座った。一度セイジの顔を伺うと軽くうなずいたので「いただきます」と丁寧に手を合わせ、さくらんぼを一粒口に放り込む。次の瞬間、無表情・クール・愛想なしと言われてきたアオの顔が破顔する。いや、傍目にはそんなに変わってない。いつもより表情が緩み、口角が上がり頬を赤く染める。うれしいことを隠しきれないほどさくらんぼが好きというのもあるが、セイジがくれたということが大きいだろう。
「うまいか?」
「うん」
大きくうなずくアオの頭を大きな手が乱暴に、でも優しくなでる。
「そんじゃあ好きなだけ食え」
「うん、ありがとう」
さくらんぼを食べるペースを上げる。一つ、また一つと口の中に消えていく。さくらんぼが減っていく代わりに茎と種が別で用意された皿に積み上げられていく。セイジはアオの様子を見守りながらたまに一つとつまんでいた。これだけ見たら普通の子供と変わらないと言われるだろう。実際セイジのそばにいる間、明らかにいつもよりテンションが上がっている。それがおもしろくない。やけ食いみたいにさくらんぼを食った。もちろん、アオが食べる分はちゃんと残す。全部食べてしまうほどガキじゃないぞ、俺は。
そういえばアオをとられたキナコの方はどうしているかというと、珍しくアオから、というよりセイジからだろう、距離をとっている。耳をピンと立てて様子を窺っている。かなり警戒してるな。まあ最初の出会いからよくはなかったから当たり前か。
そもそもキナコを連れてきたのはセイジで、誕生日も過ぎてずいぶん経つ頃に珍しく大きな鞄を持ってふらりと現れ、
「おまえ、動物好きだろ」
と言って突然鞄の中からキナコを取り出しアオに差し出したのだから驚かずにはいられなかった。まあまずアオが言ったことは、
「耳をそんな風に持つな」
だった。たぶん、その長い耳はそうやって持つためではない。まるで大根でも引き抜いたかのような持ち方に苦情を言って取り上げた。キナコの方はまるで諦めたかのように無抵抗だった。おまえ、ここに来るまでに何があったんだよ。
結局「気に入ったらならやる」と言って渡されたキナコは今もこの家にいる。誕生日プレゼントだと一言も言わないまま。
まあそんなことがあったからか、キナコはこいつが来ると警戒して近寄らない。アオがそばにいてもだ。
アオも祝われなかった誕生日について何も文句は言わなかったが、内心寂しくはあったんだろう。誕生日当日チラチラと玄関の方を見ていたことに気づかないふりをしてやった。
けっこう薄情なやつだと思うが、それでもアオはこいつに会えるのがうれしいらしい。ただ血がつながっているだけが理由なのなら不公平だ。キナコの方もアオをとられて不満なのか、こいつが来ているときだけは俺がそばにいても離れない。敵の敵は味方ということか。いなくなれば消えてしまう薄情な同盟だが。
そんな一人と一匹をよそに、仲よさげに話す二人。
「そういえばいつまでいられるんだ?」
そう尋ねるアオ。こいつは来る時期が定まっていないどころか、留まる時間さえあやふやだ。二日以上いるときもあれば、わずか一時間程度で出て行く時すらある。だからアオの質問は期待と不安が入り交じっている。それに対しセイジの答えは、
「今日の夜だな」
といったものだった。
「夕飯は食べていくのか?」
「ああ、うれしいか?」
そう言われて自分が抑えきれないくらいはしゃいでいるのに気づいたアオは慌てて気持ちを落ち着かせようとする。
「べ、別に」
それでも隠しきれていない感情があふれているのをセイジはどこかうれしそうにしてまだ乱暴にアオの頭をなでた。
「そうかそうか」
「ぐしゃぐしゃになるからやめろ!」
そう言って抵抗しながら照れているのをごまかそうとしている。
いつもよりも饒舌になったアオと聞き手役に徹しているセイジ。時々アオから何かを聞かれてそれに答えている。ただそれだけの光景が、なんかおもしろくねえ。たまに話題を振られてもぶっきらぼうに返す俺にアオは不思議そうな顔をし、セイジはおもしろそうににやついている。
そんな状況は夕方まで続いた。
一人人間が増えたからといって夕飯の時間が変わるわけでもなく、アオはいそいそと夕飯の支度に向かう。確か今日はカレーを作ろうと思って材料を用意してあるはずだ。アオがいなくなりゴロゴロとくつろぎながらテレビを見始めたセイジを無視して俺もキッチンへと向かう。アオが材料を並べている横で白飯の準備を始める。ただ気になるのはカレーにしては野菜の種類が少ないこと、そして箱に書かれているルーの名前が違うことだが、あえてそこは突っ込まないことにした。なんとなく予想はできていたからだ。
大量のタマネギを刻むアオの隣で米を研いでいると、
「ハルキ」
とアオがタマネギから視線を話さないまま声をかけてきた。
「何だよ」
「セイジのこと嫌いか?」
何を今更。気づかないはずもないだろうに。
「ああ、大嫌いだな」
すぐ隣にいるであろう本人に聞こえるかもしれないとわかりつつはっきりと答える。
「じゃあ、やっぱりカレーにするか?」
切り終わったタマネギを横にずらし取り出したニンジン。俺のことを気遣っているのがわかる。ただその気遣い方が食い物ってところがおかしい。
「いや、このままでいい。おまえもこっちの方が好きだろ」
ニンジンを元の袋に戻す。こんなことでいけずをするほどガキじゃない。確かに嫌いだが、アオが好きならしょうがない。たまには譲ってやるさ。ちょっと時季外れの父の日ということにしといてやる。
使われるはずだったニンジンとジャガイモが少し恨めしそうにこちらを見ている気がした。
ちょい足し設定
ハルキ・・・セイジが来るとアオがつきっきりになるのがつまらない。それが嫉妬であることに本人は気づいていない。
アオ・・・カレーよりハヤシ派。タマネギはクタクタにしたい。セイジが帰ってくるのがホントはうれしいけど素直に認められない。周りからは丸わかり。ハルキがなぜセイジを嫌っているのかよくわかっていない。
ちょい足しのちょい足し設定
セイジ・・・カレーよりハヤシ派。絶対おまえカタギじゃないだろと言われ続けたので公務員になって周りを驚かせた。仕事であんまり息子と過ごせない。ハルキがなぜ不機嫌になるのかわかっているがおもしろがってる。