第十二話 風船ガム成長記録
今よりも小さい頃、セイジと二人でくつろいでいたときのことだ。気づけばセイジの口がくちゃくちゃと動いていた。ガムだった。自分が見ていることに気づいたセイジはちょっとにやりと笑って、
「おまえも食べるか?」
と聞いてきた。今なら悪巧みをしている顔だということに気づけるだろうが、当時の自分はセイジにもらうものは何でも食べた。なのでそのときも遠慮なく
「食べる」
と答えた。セイジが差し出してきたガムは銀色の紙に包まれた細長いシート状のものだった。自分がよく食べるブロック型や球体のガムとは違ったが、こういう形のガムがあることは知っていたので疑いもしなかった。包み紙から出したとき、何か甘さとは違う、スーとする香りがした。
「これ、何味?」
なじみのない香りを不思議に思いセイジに聞くと、
「大人の味」
と抽象的な答えを返した。
「別に無理に食べなくてもいいぞ。まだおまえには早いしな」
やっぱり小馬鹿にしたような言い方をされると余計反発する。
「早くない、食べられる」
自分にとって大人が食べる味というのは牛乳も入ってない真っ黒なコーヒーや寿司に付けるわさびのような香辛料などだった。だからこれもそういうものなのだと思った。
意を決してガムを口に入れ、噛み砕く。甘みはなかった。コーヒーのような苦みでもわさびのような辛さでもない。ただ噛むたびに広がる歯磨き粉のような清涼感、辛いわけでもないのに痛みのような苦みが走る。鼻から息を吸うたびに寒い空気が入り込んでくるような、もはや食べ物とは思えない味と感覚にただただ戸惑い、最後まで噛み続けることができなかった。
眉間にしわを寄せだらしなく口を開けたまま食べられなくなった自分をセイジは大笑いして「ほらな」と馬鹿にした。悔しさがこみ上げてくるがそれ以上に口の中の気持ち悪い清涼感を捨てたくて仕方がなく、熱いお茶を流し込んだ。
なんで大人はこんなまずい物を食べるんだと子供心に理解できなかったが、これはうまいから食べるわけではないとセイジは言った。こんなものを食べたくなる時が大人にはあるんだと、なぜか偉そうに語った。ただの眠気覚ましだっただけだと後で知ったが。
それが大人のガムを知った日だった。
自分にとってガムとは甘いお菓子であり、噛むだけで腹の足しになるものではない。空腹を満たすためではなくなんとなく甘いものを食べたい時に食べるものだ。
世の中にはいろんな形のガムがあるが、自分にとってなじみのあるガムはブロック型のものや球体の形をした一個十円から買えるお手軽なものだ。そしてその大概は風船ガムと呼ばれるものだった。ガムは永遠と甘い味が続くわけではない。噛み続ければ次第に味がなくなってしまう。そうなるともう楽しめないのだが、風船ガムは味がなくなっても楽しむ要素がある。ただ自分はその要素を楽しむことができない。
今ハルキがプーとガムを膨らませている。この間はどこまででかくできるか挑戦して、割れたガムで顔面をべたべたにしていた
「なあ、アオ君や。そろそろ終わりにしないか?」
お兄さん顎が疲れたよ、といつもらしからない様子。
「まだ、もう一回やって」
ハルキは渋々ガムを膨らませる。一見簡単そうに見えるのだが自分の舌はずいぶんと不器用にできているらしく未だにできない。まったくできない様子の自分に偉そうに教えてやろうかと言ってきたハルキに、ならば教えてくれと請うたのは三十分ほど前。口の中のガムは甘みなどとうになくなっていて味のないゴム物体になり果てている。
「だから、こうやって舌を包んでそこに空気を送り込んで」
「もっとわかりやすく」
「いや、俺の表現力じゃこれが限界だよ」
偉そうに言ってた自信はどこへ行った。
たまに小さな泡ができるくらいにはなったが、きちんとした風船の形にはほど遠い。
「もう一回」
今日はなんとしてもできるようになると決めた。それまで食事も後回しだ。本日何度目かわからないため息をついたハルキが風船を膨らませる。元の形から想像もできない大きさと形になるガム。
今はまだ子供のガムしか食べられない。だがいつかは大人のガムも食べられるようになる。そして顔一杯の大きさまで風船を膨らませるのだ。
ちょい足し設定
ハルキ・・・しばらく顎と舌が疲れて固いものを食べるのが辛かった。キシリトール系のガムは食べられるがわざわざ食べたいとは思わない。
アオ・・・まだしばらくは駄菓子コーナーのガムで練習。風船のように膨らむのは風船ガムだけだということを知らない。