春妃 十四歳
わたしにはお母さんの記憶がない。わたしが生まれてすぐに死んじゃったから。病気だったお母さん。わたしを産まなければ、治療して、もっと長く生きられるはずだった。
「子供がいなくたっていい。美佐子と一緒に年をとりたい」
泣きながらお父さんは頼んだけれど、お母さんはどうしてもわたしを産むと言ってきかなかった。
春妃ちゃんは幸せだねえ。
美佐ちゃんが命とひきかえに産んだんだもの。
こんなに大きくなって、美佐ちゃんも天国で喜んでるだろうね。
そう言えば慶一さん、再婚話を断ったって。
春妃ちゃんのためだそうだよ。
気の毒にねぇ。
いいお父さんだよ。春妃ちゃん、大事にしなきゃいけないよ。
親戚の人は好き勝手なことを言う。まわりはみんなお父さんの味方で、わたしがどんなに恵まれた幸せな子供なのか心酔しながら語る。はっきり言って困る。
産んでくれなんて頼んでいない。
お父さんにとって、所詮わたしはお荷物で、お母さんを奪った憎らしい子供でしかない。わたしが何か失敗をおかすたびに、眉間にしわをよせ、唇をかみしめているお父さんをいやというほど見てきた。たとえば、ごはんがうまく炊けなかったとき、アイロンがけがうまくできなかったとき、熱を出して学校を休まなければならなくなったとき、お父さんはあからさまに嫌な顔をした。
面倒なことをひきうけてしまった。
お父さんがそう思っていることがわからないほどわたしは馬鹿じゃない。
この間、わたしと同じ境遇の子の話がドラマになっていた。お父さんと二人三脚で、ふたり仲良く生きていますっていうストーリー。同じ運命ならあの子と入れ替わりたかったな。
うちで家事をするのは専らわたしだ。お父さんは、家のことはしない。そりゃあ、わたしが小学校の低学年まではお父さんもやっていたけれど、わたしが五年生になって、家庭科の教科書が配られると、お父さんは家のことをしなくなった。
「春妃のためだ」
文句を言えば、そう言われる。そんなこと言って、本当はお父さんのためなんじゃないの? そう言ってやりたい。
学校へ行く前に洗濯し、弁当を作り、帰ってからは買い物に夕飯の支度。お父さんが帰ってきたらすぐ夕食にし、食べ終わるまでにお風呂を沸かす。お父さんの入浴中に食器洗いをすませ、お父さんが書斎にひっこんだのを見計らって、シャワーを浴び、浴槽の掃除をする。わたしの放課後は忙しすぎて、一日の家事を終え、宿題にとりかかれるのはいつだって午前零時をすぎていた。
中学に入って、優花と同じバドミントン部に入りたかったけれどあきらめた。仲良しの女子グループから遊びに誘われても断った。そんなふうにしているうちに、気づくとわたしのまわりには誰もいなくなっていた。
お父さんに再婚話がきたとき、わたしはバンザイするほどうれしかった。やった。これで家事から解放されて、普通の子供になれる。雪乃さんはいい人だった。わたしのお母さんになろうと一生懸命ふるまっているのが可愛かった。雪乃さんとは一か月くらい一緒に暮らした。その時は、お小遣いをもらって優花と原宿に遊びに行った。
楽しかった。目が回るくらいはしゃいだ。ふたりして大きな虹色の綿菓子を片手に竹下通りを歩き、流行りの服を買った。色違いで。一日はあっという間で、帰りたくなかった。小学生みたいに優花と手をつないで、「また行こうね」と何度も言い合った。それなのに。
家に帰ったら、雪乃さんはいなくなっていた。お父さんが追い出したのだ。
「春妃のためだ」
わたしのため? うそばっかり。本当は、男手ひとつで娘を育ててますって、親戚じゅうに自慢したいだけなんじゃないの?
雪乃さん。
出て行くなら、わたしも連れて行ってほしかった。
ひとりぼっちだ。お母さんのせいで、お父さんのせいで、雪乃さんのせいで。悲しいのに、涙は出なかった。そのかわり乱暴な衝動がふつふつとおなかの底から湧いてきた。
抱えていた時限爆弾をわたしはとうとうおさえきれなかった。
痛いっ。
気づくと、思い切り本棚を蹴り飛ばしていた。整然と並んでいた本がばらばらと音をたてて床にこぼれ、運よく落下を免れた本も崖っぷちに立たされたみたいに棚からはみ出していた。
ぺたんと床にすわりこんだまま散らばった本をしばらく見ていた。蹴った時にはなんともなかった足が、今になってじんじんと痛みだした。棚からはみ出した本が落ちてくるかもしれないのに、立ち上がって押し込むことすら面倒だった。もういい。どうにでもなれ。
床に散らばった本の隙間に白い封筒がはさんであるのが目に入った。思わず手にとる。
大人になった春妃へ
どくん。
心臓が鳴った。
ていねいに書かれた手書きの文字。裏返すと「お母さん」と書いてあった。きちんと封がしてある。
どうしてこんなところにこんなものが仕舞われていたのだろう。お母さんか、それとも手紙を託されたお父さんの仕業か。こんなところに挟んでおいて、いつかわたしが気づくとでも思っていたのだろうか。
開けるかどうか迷ったのは、「春妃へ」でなく「大人になった」と書いてあったから。二十歳なった時に読んでほしいということなのだろうか。それなら今読むのは反則のような気がする。
でも、と思う。
わたしはもう子供じゃない。
それに
わたしあての手紙をわたしが読んで、何が悪い。
こういうことは勢いが大事だ。わたしは思い切り封を開けた。乾いた紙の間に指を通すとビリビリとにぶい音がした。
春妃へ
この手紙を読んでくれているということは、春妃はもう十分大人になったのですね。春妃にはずいぶん苦労をかけてしまってごめんなさい。きっとお父さんは家のことは全部春妃に任せっきりなのでしょうね。寿之さんとは学生時代から一緒に棲んでいたもの。見なくたってわかります。
春妃、ありがとう。
春妃には信じられないかもしれないけれど、お父さんは、「俺に任せろ」って言ったのよ。春妃のことは俺が立派に育てるからって。育て方なんてわからないくせに。不器用な人なの。理想に現実がついていかないところがあるのよ。昔から面倒くさがりのくせに、かっこいいことばかり言ったりするの。
それでも、お皿一枚洗ったことのない寿之さんが、ミルクを作り、おむつを替え、奮闘しながら春妃を育てたのなら、寿之さんなりに頑張ったのよ、きっと。
お父さんを許してあげてなんて言わない。許されなければいけないのは、春妃の方だから。
春妃、がんばったね。
普通の子供が当たり前にできることを我慢したり、犠牲にしてきたことだってたくさんあったでしょう。
春妃。あなたはもう大人で、自分の足で歩いていける。
あなたは自由よ。もう我慢や遠慮はいらない。家を出て、ひとり暮らしをしたっていい。見たことのないもの、聞いたことのないものに触れて、春妃だけの人生を生きて。
春妃の幸せを祈っています。 お母さんより
何、このドラマみたいな手紙。嫌気がさした。勝手にわたしを産んで死んじゃったくせに、何もしてくれないなら最後まで放っておいてくれればよかったのに。
お母さんなんて、大きらい。
それなのに、
生まれてはじめてお母さんに会いたくなった。
封筒には、わたし名義の通帳が入っていた。十四歳のわたしにはびっくりするような金額だった。
大人になった春妃へ
お母さんの文字を見つめ、唇をかみしめた。わたしは十四歳で、もう子供ではないけれど、大人でもない中途半端な年だ。だから、今はこの手紙を読まなかったことにする。
折りたたんだ手紙を通帳と一緒に封筒にもどした。ビリビリになったつなぎ目を合わせ、できるだけきれいに見えるよう糊づけした。散らばった本を一冊ずつ棚に戻し、最後に手紙を端に挟んだ。本当に大人になった時、もう一度読もうと思う。
「ねえ、お母さんって、どんな人だった?」
夕食の時、お父さんに聞いてみた。
「そうだなあ」
そう言ったきり、お父さんはしばらく考え込んでいた。
「最近、似てきたな」
もそもそとおかずを口に運びながら、お父さんが小声で言うのを聞き逃さなかった。お父さんが急にたよりなく見えて、わたしはなんだかおかしくなった。