無人駅
家に帰るまでの通学路。
私は電車の中でスマートフォンを触っている。
「ちょっとお腹すいたんだよね」
「なんで?まだ夕方だけど」
「今週末、マドカの家に集まろうよ」
「いいね。ピザ頼もう」
「ドリンク買ってくね」
いつものようにスマートフォンでメッセージを送り合う。それから私は少しため息を漏らす。ガタン、ガタンという電車が線路のつなぎ目を踏む振動が体中にここちよく伝わってくる。なんだか今日は眠い。昨日友達と一緒にゲームをやりすぎたせいかもしれない。薄らぐ意識の中で電車が途中の駅に止まるために速度を落としていく。駅名を示す看板が見える。そこには大きく「無人駅」と書いてある。
無人駅?
そんな駅あったっけ?
扉が開く。誰も降りない。車掌さんのアナウンスもない。私は今何を見ているのだろうか。しばらくすると扉は閉まった。遠くの方で誰かが乗り込んでいる様子がみえた。かばんにうさぎのキーホルダーがついている女子であることだけは分かった。それから何事もなかったように電車が走り始める。私は夢でも見ていたのかもしれない。だが妙に現実的な感覚がつり革を持つ手に感じられた。
気が付くと近くの席で誰かが鼻をすすっていた。どうやら目の前の席に座っている女性だった。泣いているのだろうか。でも誰も気遣う様子もない。
――どうしよう。
私は1,2分迷った挙句、そっとハンカチを差し出した。彼女は少し驚いたような顔をして、それから小さく頭を下げた。
ガタンガタン、電車が定期的に揺れる振動を数えているとすぐに私が降りる駅がやってきた。私はほとんど無意識のうちに駅から降りて歩き出した。改札を出たあたりで、ハンカチを渡したままであることに気が付いて立ち止まる。
まぁいいか。
家に帰ると母がすでに夕食を作って待っていた。先に帰っていたらしいアカリが食事をしていた。私の双子の姉だ。
姉が私に気が付いて言った。「おかえり」
「うん」といって私は席に座る。今日は豚の生姜焼きにお新香、豆腐の味噌汁に卵焼きだった。私はご飯を食べ終わると洗面台に行った。歯を磨くために歯ブラシを取ろうとしたが私のものが置かれていなかった。
「あれ?私のがない。お姉ちゃん。また私の間違えて使った?」
時々あるのだ、自分の歯ブラシがどこかにいってなくなる現象が。
姉のアカリが答えた。「使ってないよ」
「おかしいなぁ」
ちゃんと自分のものを自分のところに置かないからなくなるのよ、と母がキッチンから追い打ちをかけてくる。うるさなぁ。
部屋につくとスマートフォンをポケットから取り出して友達から送られてきたメッセージを確認する。今週末のことでまた話が盛り上がっている。私は適当に会話を続けた。
部屋の反対側で姉が机に向かっているのがみえた。姉は友達とスマートフォンで連絡をとりあっていない。誰にも合わそうとしていないようにみえた。それが私にはとても不可解な事に思えた。
ちらっと机を見ると、キャンバスによくわからない絵をかいている。そういうのあまり意味がないと思う。生まれ持った才能が必要なのだから、と私は思う。でもどうやら彼女にはそのような考えはないようだった。ただひたすらキャンバスに無心で何かを書き込んでいた。
私が通っているセント・マリアーナ女子高等では週に一度にミサがある。髪の毛を志知さん分けにした小柄な神父さんが「あなたの隣人を愛しなさい」と言っている。こういうのって外国人の背の高い人がやらないと雰囲気がでない。ところで隣人って誰にあたるんだろう?
それからクラスでリサと話した。私はリサのことがとても大好きで、ひそかに憧れの存在だった。スタイルはいいし、ボブでサラサラヘアがとても似合っていて私の心をとてもくすぐるのだ。同じ制服を着ているはずなのに、まるで別の制服を着ているようにみえた。私はあの子のようになりたかった。
放課後、帰り道で彼女と一緒になった。「ねぇマドカさん、悩んでいるでしょ?」
私は虚を突かれた思いだった。「どうして?」
彼女の目をみた。まるで吸い込まれそうなくらい深い瞳だった。
私は正直にこたえた。
「どうしたらもっと自由にいきられるのかなと思って。あ、ごめんね。急に重たいよね」
「そんなことないよ。どうしたら自由にいきられるかってことについて悩んでるんだよね」
「そうなの!」
「大丈夫。私は解決できるよ。まずは環境を変えてみることにね。いままでの交友関係もいいけど、新しい関係をつくってみてはどう?」
リサはそう言いながら、カバンから手帳を取り出した。
「ほら、私は資格も持ってるんだ。ライフコーディネーターっていう資格」
「すごい。そんなのあるんだ」
家に帰ると私は姉に言われた。
「あの子、リサはやめておいたほうがいいよ」
「え?」
姉は私に忠告した。おそらく学校で私がリサと話しているところをみかけたのだろう。私は困惑した。なぜそのようなことをいうのか分からなかった。それにあまりにぶしつけに言うものだから少し腹が立って言った。
「余計なお世話だよ。私は彼女みたいなかわいい子と友達になりたいの」
「でも…」
姉のアカリはまだ何か言っていたけれど私は聞き流すことにした。姉は固すぎる。だから私とは話や考え方が合わないのだ。だがアカリはまるでそんな私の言動を見越しているかのように落ち着いていた。
「じゃあ、これだけはもっておいて。きっと役に立つから」
そういって彼女はわたしにキーホルダーをくれた。それには犬の小さな人形がついていた。私にはよく理解ができなかったけれど面倒なのでもらっておくことにした。
「お守りか何か?ありがとう」
私はリサと土曜日に遊びに行く約束をした。
とても魅力的な場所につれていってくれるらしかった。姉はそのことに感づいたのか、しつこくきいてきた。
「どこに遊びに行くの?」
「いいの、別にいつもの友達と遊びにいくだけだよ」
そういって彼女にはごまかした。本当のことを言うと長々と説教されそうだからだ。それに彼女はリサのことをよく思っていないからだ。彼女のことをよく知りもしないのに。それでも家を出るとき少し胸にとげが刺さったような気分だった。
私は彼女と駅で待ち合わせ、電車に乗った。
電車は最寄り駅をでて、それから次の駅に止まろうとしていた。あの駅だ。駅の標識には「無人駅」となっている。
「さぁ、ついたよ。降りよう」
周りの乗客は誰も降りたりはしない。それどころか誰も身動き一つしていないようだった。私は周囲を見回しながら、おそるおそる駅のホームに降りた。ホームに足を踏み込んだ瞬間私の視界は一面真っ青な世界になった。でもそれはほんの一瞬のことだった。
駅の出口でもう一人の女の子が私たちを待っていた。彼女は別の高校の子のようだったが、リサの友達だと名乗った。瞳がとてもきれいなかわいらしい女の子だった。リサとはまた異なるタイプだった。
「私、カナタというの。よろしくね」
「よろしくね。私はマドカ」
私は歩きながらリサに言った。「リサちゃん、アドレス交換しない?」
だが彼女は首を振って言った。
「そんな必要ある?そのようなもので繋がる必要なんてないんだよ。自分は自分という考えを持たなきゃ」
「たしかに、そうだね」
「それに、そのような新しい生き方を望んでいるのではないの?」
話を聞いていたカナタと名乗った友達が言った。
「自分のことをちゃんと考えてくれるのは自分だけだよ。他人は当てにならないから」
私は彼女の言うことがもっともだと思った。そのような考え方を思いつかなかったことに私自身とても以外だった。しかし、リサの顔色がいつもと違っておかしいことに気が付いた。どうやら体調があまりよくないようだった。
「どうしたの?熱でもあるの?」
私が言うと彼女は大丈夫だよと言った。
「さぁ、いきましょう」といったリサの首元に何かがちらりとみえた。それは四角い形をした刻印のようだった。刻印の中央に『分』と書いてあるようにみえる。シールなのだろうか、入れ墨なのだろうか。
いつのまにか空はどんよりと薄暗くなっていた。
リサはみるみる体調が悪くなってるようだった。すでに顔が真っ青だった。
私は言った。「大丈夫?」
そうするとリサはしゃがみこんで言った。
「わたし悩んでいて。こんなことをやっていていいのかどうか」
「え。どういうこと?」
「私言わなくちゃいけないのに…」
私はリサの事が心配になった。一体彼女はどうしたのだろう。
「ねぇ、マドカ。あの子がこの世界の支配者なの。もう帰れないんだよ。ここにきちゃったらもう帰れないの」
え?
次の瞬間。
車が猛烈な勢いでつっこんできた。私のすぐ目の前をものすごい勢いで通りすぎた。次の瞬間、大きな鈍い音とおもに彼女が遠くまで飛ばされた。
「リサ!」
そんな。
リサは十メートルほど離れたところで横たわっていた。車は近くのコンクリートでできた高架に激突し、大きく形をゆがめていた。
私はよろよろと駆け寄る。どうしよう。血が出てるよ。
リサの鞄に何かがついていることに気が付いた。それはうさぎのキーホルダーであることがわかる。ようやく私は思い出したのだ。ああそうだ、この前に無人駅から乗ってきたのはリサだったんだ、と。
その様子をみていた友達のカナタは私に言った。
「気にしなくていいよ」
「なにをいってるの!」
「ほら。みて。救急車がすぐに来た。プロの人たちがやってくれるから私たちにやれることなんてないよ。それに他人だし、そんなニュースだっていくらでもあるしそれは同じでしょ?」
救急車から人がでてきて彼女を車に担ぎこんだ。あまりに手際がよくてそれはまるでそうなることがわかっていたかのように思えた。そしてしばらくすると、サイレンを鳴らしながら、救急車は私たちのいる場所から遠ざかっていった。
「他人?私にはわからないよ」
私はそう言って、その場にいるのが耐えきれなくなって駆け出した。どうして私自身がそのようなことをしているのか分からなかった。
公園があった。私は息を切らしながら歩き、ベンチに座り込んだ。胸が大きく鼓動していた。酸素が足りずに喘いでいた。しばらくしてようやく落ち着いた。そして次第にとても悲しい気持ちになった。
――一体何が起こっているの?
それはとても非日常なことのように思えた。彼女は私にカナタのことについて話していた。――世界の支配者?一体なに?
訳が分からなかった。
それから、となりに座っていたお婆さんが私の顔を見て、ハンカチを差し出してくれた。
「ほら、そんな若いのにどうしたの?泣いていちゃかわいい顔も台無しだよ」
「ありがとう」
私はハンカチで涙を拭いた。
「何か悲しいことがあったのかい。まぁ、言い方おかしいかもしれないけれど、思い切りなくことすら私には羨ましいけれど」
私は向き直って確認した。「…どうして?」
「もうこんな歳だからね。だいたい自分の寿命だってわかってくるものさ。ここらへんが頃合いだってね。ただ、やり残したことはあるのだけどね」
「どういうこと…ですか?」
「おじいさんと喧嘩してしまったことだね」
「そうですか…」
「もう亡くなってしまったからね」
私はおばあさんにかける言葉を持っていなかった。
気まずくなった私は立ち上がり、頭を少し下げて立ち去った。
元来た道を帰ろうとすると、そこにカナタはいた。
カナタの首にもリサと同じような刻印があることに気が付いた。でもリサのものとは少し模様が複雑だった。『沙』という漢字に見えた。
「なぜ私のところにくるの?」
「リサがね、あなたがこの世界の支配者だって言っていた。それってどういうことなの?それに・・、あなたはどうして友達を助けないの?見て見ぬふりをしたの?」
「人っておもしろいよね。興味があるといっておきながら一方で興味がない行動をする。どうして?あなたも結局リサを助けなかった。
「そんなことない。心も痛んでる」
「他人のことで心を痛める必要はないんだよ。あなたはニュースで他人が亡くなったことをいちいち悲しむの?」
私は彼女とは話が合わないと思った。
「わたしを元の場所に返してほしい」
カナタは言った。「もう帰れないよ。もとの関係は捨てたでしょ?」
「どうして?」
「マドカ、私と一緒にいようよ」
カナタは静かに言った。
「嫌だよ。一緒にいたくない。あなたの事がよく分からない!」
私はそう言って駆け出した。
どうしよう。
帰れなくなったら私はどうなってしまうのだろうか。それに今が何時でどこなのかもよくわからない。気が付けばあたりはとても薄暗かった。街のネオンが色とりどりに輝いていた。それはとても無機質なものにみえた。
周囲に目を配らせる。そこには標識のようなものが見当たらず、交差点名や地名といったものが一切ない。私は不思議な街につれてこられ、迷子になってしまったのだ。
――このお守りが守ってくれる
アカリが妙に深刻な顔をして渡してくれたものがあった。私は鞄をさぐるがそこにお守りはついていなかった。もしかしたらどこかで落としたのかもしれない。周囲に目を配るとすぐ先にそれが落ちていた。
――よかった
私は立ち止まりそれを掴もうと手を伸ばした。そのとき。
私の数歩先をトラックが猛スピードで横切っていった。トラックがつくった気流に私の服や髪の毛が大きくなびいた。
私の足はわずかに震えていた。ここに居続けてはならないという直感があった。それを体全身で感じ取っていた。
アカリがくれたお守りを握り締めた。姉のことを思い出した。いつも私のことを気遣いみてくれていたのは姉だった。私が抱いていた安心感みたいなもの、あるいは甘えのような感情はいつも姉から受けとっていたように思える。私はこのことをずっと前から知っていたはずだったのに。
雨が降り始めた。
でも、どうやって帰ればいいか分からない。あの駅はどこにも表れない。
「マドカ!」
私を呼ぶ声が聞こえる。アカリの声だ。アカリは私を守ってくれる。
「ありがとう、きてくれたんだね!」
わたしはアカリを抱きしめる。
「どうやってきたの?」
「それによりはやくしないと、もう時間がないの」
アカリが私の手を取って走り出す。しばらくすると駅がみえてきた。
駅の前にはカナタがいた。まるで私たちがこちらに来るのを分かっていたかのように。そして、雨の中、カナタは一人立ち尽くしていた。傘もささずに。
私は彼女の前で立ち止まった。カナタも私の方をまっすぐに見ていた。
「本当に悩んでいるのはあなただったよね、気づいてあげられなくてごめんね」
自分のことを考えてくれるのは自分だけと言ったよね。でも、それは正しいけど間違っている」
カナタは何も言わなかった。
私を見る目は私のことを拒絶しているようだった。
「さぁ、はやく。もう時間が無いよ。この時間を逃したら次がいつかは分からないの。人生の長い間で一度くるかどうかわからないこの列車、そしてあなたの未来と過去をつなぐ列車。乗り遅れるわけにはいかない」
「え?どういうこと?」
駅のホーム。もう電車がでるところだった。これが最終列車なの?わたしとアカリは走った。改札を入って、階段をかけあしで登って駅のホームに出る。そして私はぎりぎりのところで列車に滑り込んだ。私が振り返ると電車の扉は閉まった。駅のホームにアカリがいた。
「え?ちょっとアカリ!」
アカリは黙って頷いた。そして私は気が付いた。アカリの首元にも青色の刻印がついていることに。そこには「十」と記されていた。
私は家にかえった。母はちょうど晩御飯を作っているようだった。
「さぁ、先に食べちゃってね」
ダイニングテーブルの上には私一人分しか用意していないようだった。そうだった。私は一人娘だったはずだ。双子ではない。でも本当にそうだっただろうか?もう一人、誰かがいたような気がしたんだ。
「あれ?私って一人っ子?」
さりげなく母に尋ねてみた。
「なにいってるの、当たり前でしょ」
わたしの部屋もやはり一人分の机とベッドだけが配置されていた。ずっと昔からこうだった。私はいろいろと部屋中を探して回ったがなにか手がかりになるものは特に残されていなかった。だが押し入れの奥で私は古いキャンバスをみつけた。それは3年前にわたしが買って忘れていたもの、途中でやめた絵描き用のキャンバスだ。
私は手にえんぴつを握ってみた。とても久しぶりに感じるさわり心地だった。
―――
私はいつものように電車に揺られている。電車が線路のつなぎ目を踏むたびにガタンと揺れる。
「あの」
振り向くと一人の女性が立っていた。手には私のハンカチをもっていた。
「この間はありがとうね」
そういって彼女はにこりと笑った。
私はその時、その女性の首元に青色の刻印がついていることに気が付いた。