第六十三話「宿舎の壁が薄すぎる」
しっかりと政子にお灸を据えたところで、アレスは宿舎の中へと入っていった。入って左手には管理人部屋があり、彼は早速、宿直の人間に声をかけ、ここまでの一連の経緯を説明した。
「そーですの。うちのオーナーと話がついてるんでしたら、それで結構ですわ。どうぞごゆっくり」
応対してくれた宿直の男は、口数少なめにしゃきっとしない態度でそう言い、宿舎の中を手の平で指し示す。手短に済ませたいのか、案内の仕方にやや投げやりな様子が見受けられた。
「……あっはい。どうも」
終始のらりくらりと、人の話をまともに聞いていなさそうな男の対応に、彼は調子を狂わされる。
「ちなみに、お風呂の場所は?」
若干、この手の振る舞いに戸惑いつつも、気を取り直して、彼は宿直の男にそう尋ねる。
「風呂はここにはないね。近くに浴場施設が何軒かあったと思うけど、はっきりした場所までは覚えてませんな。堪忍、堪忍」
「そうか。ならお手洗いは?」
「故障中で、ここにある物全て、使えませんな。しばらくは、よそで用を足してくだせえ。堪忍、堪忍」
「なんてこった。さすがにトイレが使えないのは死活問題だな。トイレの修理まで、あとどれくらいかかりそうだ?」
「わかりませんな。オーナーがどうするつもりなのか、知りませんし、はっきりとした返答もありまへん。堪忍、堪忍」
「とんだガバガバガバナンス野郎だな、おい」
彼は宿直の男の言葉に唖然してか、すっかり表情が固まってしまった。まさかお風呂もなければ、トイレもない生活を強いられることになろうとは、全く予想もしていなかったのだろう。
だがいくら環境の悪さに不満を持ったところで、今のアレス達はその場所に甘んじるほかない。仮にも宿舎の看板を掲げ営業しているところが、この体たらくなのは、彼も内心憤りを感じているだろう。だが、だからと言って安易に選択肢があると考えて、闇雲に他をあたろうとするのは、あまり得策とは言えない。希望的観測に変に頼るのは、今あるリスクより、さらなるリスクを招く元である。
これ以上、この宿直の男と話しても得られる物は何もないと悟ったのか。アレスは301号室のルームキーだけを握って、中央にある階段を登っていった。
◇◇◇
宿舎の階段を一歩一歩踏みしめる度、ミシミシッと木材が軋むような音が鳴る。まるで秘境の山の中に架けられている吊り橋のように、崩落寸前の不安定さが、そこにはあった。
「早く階段あがってよ。なに、じっと突っ立ってるのさ。バカバカバカ」
政子は上りの階段の途中で立ち尽くしているアレスに、苛立ちを見せていた。そんな彼女は抗議の意味も込めてか、前方の彼の背中をポカポカと叩き始める。
「ちょっといい加減、背中叩くのやめろって、ボルケーノ。それでバランス崩して、足場が崩れでもしたらどうすんだよ。俺達、仲良く地上に真っ逆さまだぞ。頼むから、早まらせるな」
彼は2階と3階の間の踊り場で、仁王立ちしたまま、次の階段の足場に意識を集中させていた。しかし彼女があまりにもしつこく、背後からポカポカ殴ってくるのを見かねて、厄介そうに身体だけを反転させる。その姿勢のまま、彼は肩で風を切るように、前腕をハンマーの形状みたく殴ってくる彼女の攻撃を、避け続けていた。
そんな傍から見れば、痴話喧嘩に見えなくもない若い男女2人の光景。やがて老夫婦と思しき住民が、階段の足場の悪さなど意にも介さず、上の階から降りてきて、アレス達とすれ違う。老夫婦は、アレス達の姿を一瞥するなり、やけにニヤついていた。朝っぱらから、若い衆2人が階段の踊り場で、何やら言い争っている様は、ご年配の人達からすれば、さぞかし微笑ましく映るのだろう。
アレス達の姿に老夫婦は、若い時の自分達の姿を重ねてか、それから2階の廊下に降り立つと、お互いクスクスと控えめに笑いつつ、宿舎の中を移動していった。
「さてと、301号室に向かうとしますか。何か、あほらしくなってきたわ」
彼はその老夫婦の後ろ姿を、上の階から見下ろすように目で追っていると、途端に気恥ずかしさが込み上げてきたのか。その気持ちを押し殺すかのごとく、何食わぬ顔で目の前の階段をのぼり始めたのだった。
「だから最初から、普通に登ってればいいのに。変な人」
一転した気の変わりように、彼女は首をかしげる。だが、それ以上彼に対して不満を口にすることはなく、彼女もその足で階段を登った。
◇◇◇
階をあがり、角の301号室を目指して、廊下を歩いていたところ。その道中、3階の各部屋から住民らのうがいで喉を震わせる音や、ゴホゴホと咳払いをする音、景気づけとばかりにどでかいオナラの音などが、モロに聞こえていた。ここの住民らの朝は大変早いようで、まさに日中のような騒がしさであった。
「あ~、こりゃあ思ってた以上に壁、薄いわ。生活音、駄々洩れってレベルじゃねえぞ」
辟易とした表情で、各部屋に視線を向けるアレス。対する政子は、これだけ防音性もへったくれもない住環境に関わらず、一貫として平然な表情を浮かべている。どんな場面であっても、その彼女の人間性は良くも悪くも一切のブレがない。
さて、ここの住環境を目の当たりにしてからというものの、実に対照的な姿を見せていた2人。相変わらずアレスは3階に降り立っていてもなお、まるで巨大な美術館に忍び込む怪盗のような静かな足取りで移動していた。
「とっとと歩いてよ。おじいちゃんなの? もう! こんな調子だったら、日が暮れるってば」
彼のあまりの小心者っぷりに、またもやしびれを切らした彼女は、前方に居る彼の前へと躍り出る。そして彼に変わって先に進むと、3階にある部屋の扉番号を一つ一つを、自らがしらみつぶしに探していった。
「よせ、飛んで火に入る夏の虫だ。足場が崩れるぞ」
彼は、無鉄砲にも単騎で敵陣への突入を試みる兵士を、思い留まらせるかのような勢いで、そう叫んだ。彼の目からすれば、その彼女の行動は、敵から集中砲火を受けている市街地の中を、強引に突っ切っていくレベルで、危険な物のように映っているのだろう。
だが彼の恐怖をよそに、彼女は足場の不安定さなど、全くもろともせず、部屋番号をチェックし続けていた。やがてある部屋の扉の前でピタッと立ち止まると、彼女はそれを指差すなり、彼の居る方角に顔を向ける。
「あったよ、301号室。いつまでもそんなところに居てないで、早くカギを持ってきてよ」
崩落することを恐れるあまり、未だに一歩も動けずにいる彼に対して、彼女はまるで喝を入れるかのように、声高にそう叫んだ。
「へ、へ~い」
それからも遠くの方から、しつこく叫ばれ続けているうちに、彼はとうとう観念してか、弱弱しく返事した後で、彼女が立つ301号室の前まで向かった。
先ほどの階段の踊り場の時のように、また宿舎の住民に恥ずかしい姿を見られるのを、彼としては回避したい気持ちもあったのかもしれない。
「ほらほら、早く早く」
部屋の前までたどり着くや否や、彼は彼女に促されるままに、鍵穴にルームキーを差した。
「よし、開いた。入るぞ」
彼は開錠を確認すると、彼女に一言声をかけてから、ドアノブを捻り、先に部屋の中へ入っていった。
「ゲホッゲホッ! うわっ、なんだこの部屋は! 人が住めるってレベルじゃねえぞ」
しかし彼が部屋に足を踏み入れた途端、まるで2人を歓迎するかのように、長らく部屋中に溜まっていたであろう無数のホコリが一斉に舞い上がった。扉を開け、室内に外気が入り込んだせいもあって、その勢いは余計に増している。
「敵襲、敵襲! ここは任せて! あっしが、まとめて蹴散らしてあげる!」
長年の眠りからようやく目覚めたかのように荒れ狂っていた、これらの無数のホコリが、政子本人の目には、魔獣による攻撃に映ったらしい。突然のハウスダストに見舞われ、身をかがめ咳き込んでいた彼を押しのけると、意気揚々と自ら室内に乗り込んだ。そして剣を抜き出し、舞い上がるホコリを目掛けて、ひたすらに己の剣を振り回し始めたのである。
「バカ野郎! 被害が余計、拡大するだけだろ。じっとしとけや」
彼女があろうことかホコリと格闘し始めたせいで、室内はまさに泥沼の様相を呈し始めた。剣を振れば振るほど、まるで彼女の剣技を嘲笑うかのように、無数のホコリは空気抵抗を受け、フワフワと浮遊していく。ホコリの重量が軽すぎるせいもあってか、ただ剣にかすめるだけで一向に致命傷にはならなかった。
「う~ん、なんて手ごわいのこの子達。切っても切っても切れない!」
彼女にとっては、思わぬ苦戦を強いられているといった感じなのだろう。
やはりわかり切っていたことだが、冷静に戦況を見極める目は、彼女には養われていないようだ。しかも彼女の剣は、赤錆がひどく目立つぼんくらだった。本気でそんなお粗末な物でホコリを退治できると思っているありがた思考といい、戦況を客観的に見る能力の無さといい、まさしくやる気だけがある無能な働き者の特徴ぴったりだった。
そんなやる気だけのある無能な働き者のせいで、室内は相変わらず花吹雪が吹き荒れるかのように、ますます粉塵が広がっていく始末だった。
「それにしても、これが角部屋なのかよ。マジで信じられねえ!」
用意された部屋のひどい有様に、彼は怒りを吐き出すように、声を荒げた。
するとこの宿舎の壁の薄さが災いしたのだろう。彼の声に反応するかのように、3階の住民らが一斉に部屋の扉を開け、覗き見るように301号室の前に居るアレス達の様子を伺いだしたのだ。
恥ずかしいことに、アレスの声を含め政子の奇抜な行動の全てが、このフロア全体に筒抜けだった。




