第六十二話「もう過去は振り返らない」
結局、政子はあれからもヤギ2匹の帰りを待ち焦がれたまま、その場から離れなかった。そんな彼女を見捨て、アレスは一人、すでに宿舎の玄関前にたどり着いている。
店のおっさんのご厚意により、しばらく無償で寝泊まりさせてもらえることになっていた例のこの宿舎は、白を基調とした土壁造りの建物で、密集した住宅街の中にひしめき合うように建っていた。
少なくとも都心部にあるような、豪華絢爛な宿泊施設とは程遠い。いかにも個人で経営している雰囲気の漂う質素な作りの宿舎で、おそらくは元々一戸建てだった住宅をそのまま宿泊用に改築したものと思われる。
「ここまで宿舎と家が隣り合ってたら、生活音はダダ洩れだな。たぶん、壁もめっちゃ薄いぞ、こりゃ」
アレスは宿舎の門扉の前に立って辺りを見渡すなり、呟くようにそう言った。実際に、目の前の宿舎と両隣の建物の隙間は、ほぼゼロ距離に等しく、かろうじてネズミなどの小動物が通り抜けられるほどの間隔しかなかった。この一帯の家々の様子からしても、町の中心部と比べ、一世代前の時代の面影が強く残っており、そのためか防音性能はあまり考慮されていないに違いなかった。
また宿舎に面する一本道も、人が誰かしら通るたびに、必ずどちらか一方の人間が道を譲るなり、通りの隅にはける必要があった。
周囲のそれぞれの家の2階部分には、洗濯物が日干しされており、日頃の住民らの生活感が伺える。早朝のこの時間帯に、それらの洗濯物をちょうど取り込んでいる最中だったお隣さん同士が、ばったり顔を合わせても、軽く世間話に興じることができるくらいには、隣接する家々の距離は近めである。
「贅沢なんて言ってられる立場じゃねえし、多少のことは目を瞑るしかねえわな。まあ住んでるうちに、じきに慣れていくだろ」
アレスは腰に手を当てつつ、大きく溜息をついた。おそらく今後、1日24時間、近所の住民達には己のプライバシーが晒され続けることになる。そのためアレスは、四六時中、他の誰かに見張られているかのような居心地の悪さを、常に感じていくことになるだろう。まるで、大勢の野次馬から好奇の目を向けられる、見世物小屋の中に居る哀れな珍獣そのもののように。
「ひとまず近所迷惑にだけはならないよう、気をつけなきゃな。……唯一、心配だったのは、あのオオカミっ娘だったけど、今となっちゃあその心配も無用だな」
唯一、彼が懸念していたのは、赤髪の獣耳娘こと政子に関することだった。本能赴くままに行動しがちな彼女が、宿舎の部屋の中で、そういつまでもじっとしていられるはずがないと、おそらくそう考えているのだ。
そんでもってゆくゆくは、彼女の良からぬ行動が発端となり、宿舎の大家さんをカンカンに怒らせる。そして挙句の果てに、即日、退去命令が言い渡される。後先のことなど、何ら考えていなさそうな彼女なら、最短最速でそういった展開に持っていけてしまうと、彼は本気でそう思っているのである。
「どうせあのオオカミっ娘は、あの場所にずっと留まり続けているはずだ。俺さえしっかりしてれば、ここでの生活で恐れることは何もない。ひとまずチェックインだけ、とっとと済ませておこう」
宿舎の壁が薄いことなど、彼の中で色々と腑に落ちないことは、多々あったと思われる。彼は改めて、己に言い聞かせるようにそう呟いた後で、宿舎の扉の取っ手口を掴んだ。
「……けど第二の人生、この町で何とか切り開いていけるんだろうか。スキルも何も無しの人間が、飯を食っていけるほど、世の中ってそう都合良くできてないもんな。ダメだ、段々不安になってきた」
ふと、彼のそんな一抹の不安の声が漏れ出てしまったか。取っ手を掴むなり、ため息交じりに自身をそう卑下し出した。
大都市アスピリッサから逃げるように出て行ってから、早2週間。まだ仮の状態ではあるものの、ようやく安心して腰を下ろせる住まいを、彼は確保できた。今後はここを拠点に、彼はセカンドキャリアを築いていく必要があるのだが、生活費および転職のことなど諸々、頭を悩ませる問題は山積みだった。
一旦、住まいを確保できたことの安堵感で、緊張の糸が多少緩んだ影響もあったのだろう。だがそうしてほっとしたのも束の間、心の隙を突いてくるかのように、現実的な問題が彼に押し寄せてくる。将来への漠然とした不安が頭によぎり、苛まれたせいか、彼はしばらく扉の取っ手を握ったまま、その場から動けなくなってしまった。
きっと今頃、彼の脳内は、現実という名のマルチタスクに揉みくちゃにされてしまっているに違いない。もがけばもがくほど、それは蜘蛛の糸に囚われた気の毒な昆虫のように、ますます事態を悪化させる厄介な物なのであった。
そうして無情にも、時間だけが過ぎ去っていった、まさにその時だった。
「やあ、待った?」
いつの間に追いついたのやら。彼の背後にはあのボルケーノ政子が居た。彼は扉の方角に顔を向け、背後を振り返らないまま、反射的にこう答える。
「待っちゃいねーよ」
ふと彼はその際、深い暗闇から引き戻されたかのように、我に返ることができたようだった。それから途端にバツの悪さを感じ始めたのだろう。まるで深夜の盗み食いの現場を、ばっちり目撃されてしまった人のごとく、彼はおそるおそる後方に居る彼女の方角へ、振り向いたのだった。
「ところで政子さんや、ヤギ達はどうしたんだ。いつまでも待ってるんじゃなかったのか? ずっと、こうやって祈りを捧げてたじゃないか」
彼はあえてわざとらしく、胸の前で手を合わせ、天を見上げるポーズを取っていた。
「もう過去は振り返らないって決めたの。これからは前を向いて生きていくの」
もっともらしいことを言いやがってと、アレスはこの時内心、強くそう思っていたに違いない。いったいどういった風の吹き回しで、彼女が改心したのかは定かではない。だが、何はともあれ、彼女なりにヤギ達のことに関しては、一区切りついたようだった。
「ふ~ん。じゃああのヤギ達のことは、本当にもういいんだな。……いいんだな?」
念押しの意味も込めてか、アレスは再度そう尋ねる。彼女はその問いに、無言で親指を立てた。そのジェスチャーを肯定と受け取るや否や、納得したように彼は大きく頷いた。
「よし、ならついてこい。この先、道のりは険しいと思うけども、元Sランク冒険者である俺についてくれば、大丈夫だ。よろしく頼むぞ」
彼は、まるで先輩風を吹かせるかのように、自身の首を宿舎側にクイッと向けるなり、そう述べた。
「……けど、くれぐれも騒ぎは起こしてくれるなよ。ここの大家さんの機嫌を損ねたら、それこそ一貫の終わりだかんな。わかったな」
さらにアレスは言い足すように、キョロキョロと辺りに目を配った後、声を押し殺しつつそう告げた。今が早朝の時間帯であることも頭にあってか、声量はやや低めに、まるで悪さを働いたわんぱく小僧を、ささやきながら諭すかのようだった。
当の彼女も、彼が言わんとしていることを理解したのか。妙に目を輝かせると、腕を斜め前に掲げ、元気よくこう答える。
「わかった! あっしに任せて!」
思いのほか、彼女は腹から大きな声を出した。日が昇ってまだ間もない時間帯かつ、通りの狭い場所での彼女の声は、嫌と言うほど響き渡る。おそらく彼女としては、明確な意思をアピールしたかったのだと思われるが、そんな彼女の想いは抜きにしても、やはり時と場所をわきまえる必要があった。
案の定、この通り一帯に広がったつんざくような彼女の声は、スヤスヤと朝の眠りについていた近隣住民を驚かせるのには、十分だった。
通り沿いに住む住民らは、まるでモグラ叩きのモグラがひょっこりと顔を出すかのように、一斉に寝間着姿のまま、玄関の扉を開け、外の様子を伺い出したのであった。
「言った傍から大騒動じゃねえか、この野郎!!」
当然のごとく、アレスは血相を変え、彼女に詰め寄ったのであった。




