第六十一話「ヤギその1、その2との別れ」
「やっぱりお前達、旨そうだったな。ここでお別れになっちゃうのがとても惜しい。……あ~あ、食べてみたかったな、ヤギの生肉。今も想像するだけで、よだれが止まらなくなるよ」
政子は最後まで隙あらば、ヤギ達を生け捕りにして、ひき肉にでもしたかったようだ。当のヤギ達もこのタイミングで開放されて、さぞかし、ほっと胸を撫で下ろしているに違いない。
「よせよせ政子。ヤギ達が怖がってるじゃねえか。委縮させるな、そう熱心に見つめるな」
「メー……」
ヤギ達は彼女の居る方角から視線を外し、意図的に目を合わさないようにしている。まるで一度見たら最後、必ず呪われてしまういわくつきの物がそこにあるかのような、ただならない雰囲気を漂わせていた。
現在アレス達は、レイクタウンの町はずれに居て、車輪付きの荷台を引くヤギ達を見送ろうとしていたところだった。すでにエスタディオ・ベジタロットの店員から受け取った代金と領収証は、ヤギ達の首にぶら下げられたポーチにしまってある。ヤギ達に残された役割は、あのトウモロコシ畑のおじいさんの元へ帰ることだけだった。
そんな出発前のヤギ達のメンタルを疲弊させまいと、アレスは再三に渡って、政子に物騒なことは言わぬようにと忠告はしていた。しかしどうしても食欲には抗えなかったようで、一旦は素直に聞き入れ、ヤギ達を見ないようにしてくれるものの、それも一時的な効果しかなく、またすぐさま彼女の目線はヤギ達の方に向けられてしまう。いくら彼女自身が「いけない。いけない」と自制の心を持ってくれたとしても、やはりヤギの肉を喰らいたいという野性的な本能には抗えないようだった。
「ううう、肉だ。肉、肉~」
突然、血に飢えた屍人のように、うめき声をあげだす政子。この瞬間、おそらく彼女の知能指数は、未知のウイルスに感染してしまった人間のごとく、著しく低下してしまっていることだろう。このまま放置すれば、見境なしに、ヤギ達を襲ってしまいかねなかった。
「おい、こいつの理性がなくなる前に、早く出発しろ! 一度でも、噛みつかれたら、もう手遅れだぞ! 走れ、走れ!」
アレスは、まるで牧場にて家畜を執拗に追いかけ回す牧羊犬のように、ヤギ達を急かした。すると恐怖に駆られてか、ヤギ達は逃げるように荷台を引き、そそくさとその場をあとにしていったのだった。
「ああ、もう行っちゃうの? ……待てー、せめて足の一切れだけでも譲ってちょうだい」
政子は鋭く眼光を光らせるや否や、口元を拭い、後を追おうとする。
「やめろ! さらっと、おぞましいこと言い放ってるんじゃねえ。それに、さっきたんまりと、店のおっちゃんに飯食わせてもらってただろ。少しは我慢ちゅうものを知ったらどうだ!?」
アレスは彼女の蛮行をいち早く阻止しようと、腰あたりに飛びついた。予想だにしない後方からのタックルに見舞われた彼女は、膝下から崩れ落ち、前のめりに倒れる。
「うわーん、行っちゃいやーん」
地面に押し倒され、上から押さえつけられる格好となった彼女は、彼の腕の中でじたばたと暴れている。さしずめその様は、これまで女手一つで育ててきた愛娘が、親元を離れ都会行きの馬車に乗り込もうとしているところを、直前になって引き留めようとする未練がましい実の親のようであった。
そうしてアレスが、彼女を足止めしておいた甲斐があったのか。すでにヤギ達との物理的な距離は果てしなく開いていて、もはや追跡不可能なところまでになっていた。
「ううう……さようなら。ヤギその1、その2~」
政子はとうとう諦めがついたのか、地面に突っ伏したまま、声をあげて泣き出した。まるで親と実の子供との今生の別れを彷彿させる、名作の演劇のラストシーンのように。
だが喪失感に苛まれている割には、彼女自身はヤギ達の固有名詞をさっぱり覚えちゃいなかった。あくまで食肉以外の愛着は湧いていなかったのだ。
「あのさ、感傷に浸っているとこ悪いんだが、さっさと宿に行って、チェックインを済ませたいんだけども。そう、いつまでもガッカリしてメソメソしてもらってちゃあ、困るんだよ。俺も、早く寝室で横になりたいもんでな。聞こえてる~?」
彼女はまるで冬眠しているハリネズミのように、身体を縮こませ、すすり泣いていた。依然として、その場から起き上がる様子がない。
そうして未だに地面に顔をうずめ、泣きじゃくる政子を見下ろしつつ、次にアレスは呆れたように、こう言ってのけた。
「いつまでもそうしたいのなら結構だ。もう一切、構ってやらねえからな。ではでは、達者で!」
アレスはしびれを切らせ、その場を離れようとする。するとほどなくして、彼女に何かしらの心境の変化があったのか。さっと立ち上がると、アレスの方ではなく、ぼんやりとヤギ達の去って行った、地平線の遥か彼方を見つめ出したのだった。
「ん? 今度はなになに?」
黙ってこっちについてくるもんだとばかり思っていたアレスは、顔をしかめつつ、彼女の後ろ姿を見守った。
「あっし、待つわ。あの子達が戻ってくるまで、こうしていつまでも」
唐突に彼女は、胸の前に手の平を合わせる。その様はまるで、去り行く想い人を見送る一途な女性のようだった。
「もう、嫌だあこの子。今に始まったことじゃないけど。この子と冒険者パーティーを組んでいた連中は、さぞかし大変だったろうな!」
行動原理がいちいち謎だった彼女に、うんざりし尽くしていたアレスは、苦い顔を浮かべつつ、一人宿に向かったのだった。




