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第五十六話「新鮮な肉の匂いだ」

 まるで戦闘経験のない新米の雑兵のように、後方にお尻を突き出しながら、洞窟を探索し続けるアレス。

 そんな彼は、ひたすら洞窟の奥へと続く一本道を歩いていた。歩けば歩いていくほど、道幅は細く狭くなっていき、しまいには中腰で腰をかがめなければならないほど窮屈になっていった。グレートソードを装備する重騎士が、このような洞窟に来ようものなら、まず道半ばで引き返す他なくなってしまうだろう。

 肝心のいびきの声はアレスが前へ進んでいく度に、段々と大きくなっていった。確実にいびきの主との距離は近づきつつあった。


「こりゃあれだな。きっと中年の肥満男性のいびきだな。野太くて地鳴りのように響いていやがる。まるで獣のようだ。いったい何デシベル(dB)まで出ていることやら」


 アレスの見立てでは、このいびきは人外の生物のものではないらしい。未だにこの目で、いびきの主の姿形を見ていないにも関わらず、いつの間にかアレスの中では中年の一肥満の男性であると、勝手に自己変換していた。


「仮にこのいびきの主が、俺の同居人だったとしたら、廊下に即ほっぽりだしたくなるだろうな。……でもそれにしても、よくこんな窮屈な道を通り抜けられたもんだ。中年肥満男性のだらしない身体じゃあ、まず途中で挟まって抜け出せなくなるだろうに」


 洞窟の奥へと進んでいくごとに、ついには這って進まざるを得なくなるまでになった。この状況に直面して尚のこと、アレスとしては肥満体型と思われるいびきの主がこの窮屈な道を通り抜けられたことを、実に不思議がっていたのであった。


 やがてアレスは、ミミズやモグラの通り道のような閉所を抜け、ようやく開けた場所に出られた。アレスは狭い通り穴から這い出るようにして、広々とした空間に降り立つと、周囲の様子を伺った。

 すると開けた空間のちょうど中間辺りに、ポツンと一人、スヤスヤと仰向けに寝そべっている人らしき姿があった。獣のように低く唸るようないびきも、どうやらそれが発生源のようだった。実際にそのことを裏付けるように、一定の周期で息を吸い込んでは、決まって直後に獣のようないびきがその方角から発せられていた。

 洞窟内はやや薄暗く、暗視のスキルを持っているアレスと言えども、鮮明にそのいびきの主の姿が見えているわけではなかった。アレスは、遠目から見て朧げなシルエットとなっているその正体を一目見ようと、慎重に足音を忍ばせつつ、近づいていった。程なくして、アレスがその人物のすぐ傍まで来ると、息を押し殺しつつ、そっと上から顔を覗き込んだ。


「おいおい、マジかよ。全然中年の肥満男性じゃねえよ。健康的な若い女だ」


 思ってもみなかったいびきの主の正体に、アレスは目を丸くする。


「……まさか、いびきの正体が獣の耳の生えた成人女性だったとはな。あれ、明らかに女のいびきじゃねえよ。ちくしょう、予想が外れた!」


 アレスはまるで競馬の予想が外れ、紙屑になった手元の馬券を、感情赴くままに地面に投げ捨てるギャンブル狂いのおっさんのように、悔しさを滲ませていた。彼の中で、いびきの主の正体が肥満の中年男性だということに、よっぽどの自信を持っていたのだろう。このように自称“完璧主義者”のアレスは、思い通りにならないことがあると、たちまち不機嫌になるところがあった。


「……旨い。満腹虫垂が刺激される~」


 そんな勝手に悔しがっているアレスのことはさておいて、赤髪の獣耳女性は寝言を吐いていた。おそらく夢でも見ているのだろう。たくさんのご馳走に囲まれている幸せな夢を。

 依然として、彼女のまぶたは固く閉じられたままだが、顔の風格的には幼気で元気溢れる活発系な女性を感じさせた。また赤色のセミロングの髪型をした彼女は、頭皮の先端に細長いアホ毛が数本ほど束となって、おっ立っている。後先のことは何も考えず、思い立ったことはすぐ行動に移すといった単純明快な思考を持ち合わせている雰囲気も併せて感じさせた。


 そして彼女の衣服は上着からブーツに至るまで、ところどころ縫い付けられた跡が目立っていた。服を買い直すだけの金銭的な余裕がないのだろう。全体的につぎはぎだらけの質素な革の服であった。お金のない駆け出しの冒険者によく見られる特徴だった。


「それにしても貧相な見た目というべきか、やけに痩せこけてるなこの子。しかも皮膚や唇も、尋常じゃないくらい乾燥してる。一刻も早く、この子に水と食料を分け与えた方がいいな」


 彼女の身なりを見てそう判断したアレスは、あらかじめ腰元にぶらさげていた袋から水筒と干し肉を取り出した。これらの水と食料は、アレス自身が洞窟の奥へ探索する前に、あらかじめ携帯していた物であった。


「どうやら、この娘は駆け出しの剣士らしい。経緯は詳しくは知らんけど、洞窟の奥に迷い込んだっぽいな」


 アレスの目は、彼女の脇に雑然と置かれている革の胸当てに向いている。続いてアレスは寝ている彼女の傍らにあった剣に目をやりつつ、次のように吐き捨てた。


「それにしたって、どの装備品もとてつもなくボロボロだ。特に剣の錆がひどすぎるぜ。こんなぼんくら装備じゃ、魔獣相手にとても太刀打ちできねえぞ」


 剣の刀身は三日月型に沿った細長い物で、色合いは彼女の髪と同じく紅色だった。先ほど彼が言及した通り、その剣は普段から手入れがほとんど施されていないためか、錆が目立っている。剣を収納する鞘も彼女のすぐ傍にあった。だがその鞘も、まるで今日1日着古した服を洗濯カゴに入れず、周辺の床に散乱させているかのように雑に置かれている始末だった。

 元Sランク冒険者のアレスとしては、身に着けている装飾品のレベルの低さといい、商売道具の管理能力の低さといい、大変目に余るといった形であった。


「いずれにせよ、どうしよう。今すぐこの子を起こしてあげるべきか。それともそっとしてあげるべきか。……最近の世の中は何かとコンプライアンスにコンプライアンスだもんな。むやみやたらに近づくわけにもいかないわな。だって相手は女性だもの。

 良かれと思って不用意に近づいた時に目を覚まされようものなら、寝込みを襲おうとした襲撃犯認定だ。そうなりゃ俺のキャリアに、また多大な傷がつく。最悪な事態だけは避けなければ」


 目の前に居る獣耳の彼女に対して、極端なまでに社会性が気になりだしたアレス。……普通に軽く女性の肩を叩き、こちらから呼びかけてあげればいいだけの話だと思われるが。相当、彼の中で女性に対する恐怖心が芽生えてしまっているのだろう。過去に何があったのかは知らないが。


 さて、そんな臆病者のアレスだったが、やがて彼の中で結論が出たようで、次のように呟いた。


「やっぱり触らぬ神に祟りなしだ。変に叩き起こそうなんて、この際絶対考えない方がいい。……水と食料だけ、この女の傍に置いておこう。これが俺のできる最大限の配慮だ」


 最終的に目の前の女性に、変質者もしくは寝込みの襲い魔として認定されてしまうリスクを恐れたのだろう。無理に声掛けはせず、アレスは腰元にぶらさげていた水と干し肉一切れを、彼女の首元にそっと置いたのだった。


「さてと、気づかれないうちにとっとと退散しますか。収穫は何もなかったな。雨があがったら、この洞窟からおさらばしよう」


 忍び足で背を向け、アレスは来た道を戻ろうとした。しかし、その次の瞬間のことだった。彼にとって恐れていた最悪の事態が起こってしまったのである。


「ひっくしゅん!!」


 何と獣耳の女性がここに来て、鼻をむずむずさせ、その後盛大にクシャミをしてしまったのだ。洞窟内の密閉空間においては、クシャミの音一つだけでも、まるで街中にあるオペラハウスのように大音量で鳴り響く。

 案の定、彼女は洞窟内で反響した自身の声に反応し、飛び起きるように目を覚ましてしまったのである。


「はっ、何事!? こんなところにまで、魔獣の魔の手が!?」


 目を覚まして早々、彼女自身敵襲に遭ったと感じたのか、すぐに錆だらけの剣の柄を握り、構えの姿勢を取った。滑稽なことに、その彼女の反応っぷりは、鏡に映った自身の姿に驚く動物さながらであった。


「げっ、まずいな」


 アレスは想定外の事態を前にして、顔をしかめる。


「ん? ……ぬぬぬぬぬ!?」


 獣耳女性も、アレスの姿をこの洞窟内で認識したようで、声にもならない声を出していた。

 途端にアレスの額からは、ほとばしるほどの汗が流れる。彼女とバッタリ目が合ってしまった焦りからきているのは、疑いようもない。その後の彼はまさに、蛇に睨まれたカエルのように、ピタリとその場から動けなくなってしまった。

 目を覚ましたと思ったら、偶然同じ洞窟内に見知らぬ成人男性が目の前に居る。当然、このカオスな状況を不審に思わない女性は、誰一人として存在しないと思われる。


「あの、その……これは違うんです。冷静に話だけでも聞いてもらえませんかね?」


 いったいこの状況の何が違うというのだろうか。獣耳女性に叫ばれるより先に、アレスはまず対話を試みようと、そうした切り口で話しかけていた。女性側が一度、恐怖に囚われ、ヒステリックになられようものなら、その後いくらこちらが身の潔白を訴えたところで、一向に聞く耳をもたれないケースが多々ある。年頃の女性であるなら尚更、その傾向が強いと思っていい。故にアレスもその最悪の事態が脳裏によぎっているのか、なるべく彼女の気に触れさせないよう触れさせないよう、下手に振舞っていたのである。


 ところが、そんなアレスの予想とは打って変わり、ここで獣耳女性は思ってもみなかった反応を示した。彼女はアレスと視線が重なると、即刻目を輝かせ、改めて興味津々に見つめ返してきたのである。それは無邪気で、熱っぽい視線だった。


「んっ? な、なんだその情熱的な目つきは。面食らったというか、ちょっと気恥ずかしいぞ」


 アレスは明らかに狼狽していた。女性にまじまじと見つめられることにあまり耐性のないアレスにとっては、心の動揺を隠しきれないのも無理はない。彼女から見つめられる時間が長くなっていく度に、アレスの頬はますます緩んでいった。純情すぎるまでに純情度が過ぎる彼は、このように長時間女性と目と目が合っただけで、ひとりでに舞い上がってしまうという困った性格をしていた。こんなアレスのように恋愛の酸いも甘いもロクに経験ができぬまま、いい年した大人になってしまうと、全く始まってすらもいない恋の物語を、勝手に始まったと間違った方向で解釈してしまうのは、実に困ったことである。


 そんなこんなで、若い女性を前にして、やや自意識過剰気味となっているアレス。だが当然、アレス程度の取るに足らない男相手に、そのような都合の良いストーリーなど待ってくれているはずもない。実際にその説を立証するがの如く、獣耳女性は次なる行動に出ていた。


「やった! 肉だ! 新鮮な肉の匂いだ!」


 獣耳女性は縁起でもないセリフを吐いた後で、口角を上げてニッと笑った。それから笑った際にのぞかせた彼女の八重歯が、驚くことにトラの犬歯の大きさまでニョキニョキと伸びていく。どうやら彼女は、自身の八重歯を、まるで自由自在に伸び縮みする棒である“如意棒”のように、サイズを自分好みに調整できるらしい。

 続いて彼女はそれまで握っていた剣を手放すと、何とオオカミさながらに四つん這いになりだした。


「はっ? 肉? 新鮮? ……何を言ってんだ、この子は。おかしな子だな」


 彼女の変貌ぶりを目の当たりにしてか、アレスの声は震えていた。誰に言われるでもなく、それまで獣耳女性が向けていたアレスへの熱烈な視線は、恋の始まりを予感させる類の物ではなかった。おどろおどろしい言い方をすれば、捕食対象として向けられた関心の眼差しだったのである。

 四つん這いとなったことで、彼女の顔の重心はまたさらに低くなっていた。依然として彼女の視線は、アレスただ一点のみに向けられている。


「くー、こんなことならリスクを冒してまで洞窟を探索するんじゃなかったな。とんだ大ピンチだぜ」


 ここに来て、ようやく脳内に危険信号が灯り出したとみられるアレス。即座にその場からずらかろうと、アレスは彼女の目を真っ直ぐ見据えたまま、背後へゆっくりと後退していった。しかし当の彼女は、アレスのその動きに呼応するように、一定の距離感を保ったままついてくる始末だった。途中、アレスが彼女の気を逸らそうと、足元に転がっている石ころを拾って、遥か遠くに投げ込んでみる。しかし彼女は自身の注意を、そちらに向けることすらなかった。やはり獲物対象である彼にしか興味がないようだ。石ころ程度では、彼女の集中力を削ぐことは至難な業のようであった。

 そんな彼女の顔つきも、久しぶりの獲物対象者に巡り合えてか、やけに上機嫌だった。恐ろしいことにその瞳には一点の曇りも見受けられない。とても透き通った綺麗な目をしている。


「久しぶりのご馳走だ! ついてるついてる! いっただきまーす!」


「ちょっま……」


 アレスが声をあげる間もなく、獣耳女性はまるでサバンナに生息する捕食動物のように、一気に間合いを詰めてきた。四本脚を使って、軽やかに疾走する彼女は、彼の首元を目掛けて瞬く間に飛び掛かった。その彼女の跳躍力は、彼女の後ろ脚にバネでも入っているかのような、まさに驚異的な物だった。


「むむむむ! この歯ごたえが何とも! 中枢が刺激されるぅぅぅ!」


「やめやがれ! 俺は新鮮な肉でも何でもねえ!」


 アレスは間一髪、首元を噛みつかれる寸前に腕を振り上げたことで、自身の頸動脈を守ることができた。しかし彼女の鋭く伸び切った左右の八重歯は、彼の前腕に突き刺さり、腕ごと貫通してしまっている。

 そんな状態の中、アレスは何としてでも彼女を振りほどこうと、腕を上下に左右に揺らしたり、彼女を無慈悲なまでに地面に叩きつけたりなど、考えられる限り様々な方法を試していた。しかし当の獣耳女性は、執拗に彼の腕から離れようとせず、宙ぶらりんな状態のまま、超人的な粘りをみせ続けた。


「おい、この小娘! 代わりの肉を分けてやるから、一刻も早く俺の腕から離れろ! 骨の髄までしゃぶりつこうとすんじゃねえ!」


 アレスの必死の呼びかけもむなしく、すっかり狩猟本能に囚われている様子だった彼女は、何度も何度も彼の前腕の肉に食らい続けた。そうしてしばらく彼女との攻防が続いた後に、ようやく平静を取り戻した彼女は、おとなしくアレスが差し出した干し肉を満足そうに食べてくれた。

 そうして、この獣耳女性による噛みつき騒動は無事、終息を迎えることができた。


 ……くしくも、これが彼女ことボルケーノ政子との出会いだったのである。


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