第五十五話「洞窟の奥から聞こえてくる、不穏な物音」
「ふう、やっとあったまってきた」
アレスは洞窟に入ってすぐ手前の場所で、下着姿のまま焚火に手をかざし、暖を取っていた。
雨で濡れてしまった彼の衣服は、あらかじめ付着していた泥を叩き落とした上で、焚火の傍に置いておき、乾燥させていた。
洞窟に入った当初、土砂降りに見舞われ、全身がびしょ濡れだったアレスにとっては、内部の温度が思いの外、低いように感じたようだった。まるで凍った湖の冷水に浸かった直後であるかのように、身体をガタガタ震わせていたのである。
だが今は幸い、温度も安定し、むしろ洞窟内に暖気が広がって当の本人の身体が汗ばむくらいにまでになっていた。
アレスが道中まで着ていた服は、オーソドックスな布の服だった。職業冒険者ではない、一般の人でも日常的に身に着けているような、質素なものである。冒険者の装備といった尺度で考えると、初期装備の中の初期装備だ。強靭な魔獣の爪で身体を切り裂かれようものなら、まず高確率で服ごと貫通してしまう。戦闘用途では、まるで心許ない貧弱装備であった。
アレスが現役の冒険者だった時に、取り立て屋のジョエル・カロリントンに彼の別荘にあった諸々の家財を押収されて以降は、残念なことにこうした貧弱装備しか身に着けられなくなるまでに貧乏となってしまったのである。
「それにしても、よくあんだけ荒っぽい荷台の引き方をして、ミルク缶とトウモロコシが無事だったよな。中身もさっき見た感じ、問題なさそうだったし、雨が落ち着いたらぼちぼち支度するとしますか」
洞窟の出入口に視線を向けつつ、アレスはポツリとそう呟いていた。
荷台に積まれていた荷物はアレスが言うように、奇跡的に無事だった。ミルク缶3つは外の鉄製の缶に多少の凹みや傷があるものの、肝心の中身が外に漏れ出ていることも、泥水が混ざっている様子もなかった。一方のトウモロコシ1箱の方も、ミルク缶同様で中身は無事だった。レイクタウンにつけば、問題なく商品を引き渡せそうであった。
「それにしても雨、まだまだ止みそうにないな」
アレスが言うように雨は依然として、ひっきりなしに降り続いている。洞窟内部にまで、外のじゃじゃ降りの音は、はっきりと聞こえていた。
ある程度、暖も取れて身体も温まってきたところで、先ほどからアレスは干し肉とライ麦パンを交互に手に取り、口に運んでいた。干し肉もパンも、焚火の上で少々炙ってから、味わっている。丸二日間、空腹にあえでいたアレスの顔の血色も、これらの食事を摂ってからはすっかり良くなっていた。
「ああ、なんかどっと疲れた。しばらく横になるか。どーせ、この様子だと当分、雨やみそうにないしな」
食べ物を口にできたことで、心身の緊張も解けてきたのだろう。洞窟の地面に横たわると、二日分の疲れを一気に押し流すかのように、アレスは深くため息をついた。それからは死んだように、その場に倒れ込んだ。
「スタミナが回復してきたら、洞窟の奥の方も探索してみるか。もしかしたら、何か役に立ちそうなアイテムや物資が眠ってるかもしれないしな」
この洞窟は、アレスが横たわっているその場所から、さらに奥へと道が続いていた。現在、下着姿の彼は、奥に進んでいくだけの気力も完全に削がれている状態である。アレスは時折、あくびをしながら、焚火の火加減にも目をやりつつ、周囲に落ちていた枯葉や木の枝などを気だるそうに、そこに目掛けて放り投げていた。
その様は週末の真夏の真昼間に、ビールを片手にあぐらをかいているおっさんと近しい物を感じる。
そうしてぼんやりと焚火の火を眺めながら、干し肉なりライ麦パンをつまみ、ぐうたら過ごしていたアレス。傍から見れば、誰にも邪魔されない週末のささやかなひと時を過ごしているようにも見えた。だがしかし当のアレスの顔には、時たま物憂げな表情も垣間見えていた。おそらく、レイクタウンに到着して以降の生活の不安が、頭によぎっているのだと思われる。
「はあっー、これからどうすっかな」
アレスはため息交じりに、そう呟いていた。
今のアレスには、輝かしきSランク冒険者時代のような圧倒的な戦闘力はない。女神の加護の影響によって、ステータスがオール1の無能力者となってしまったからである。これまでのアレスは、唯一無二の戦闘スキルがあったため、仕事に困ることはなかった。だが今やアレスは、周囲より秀でた能力を失ってしまっている身だ。そうである以上、この先は身銭を稼ぐために、大きな組織体に入り、より社会性や協調性を持った人間へと自身をカスタマイズしていく必要性があった。
アレスがこの先求められる行動は、周りの組織の人達の意思を、限りなく察していくことだ。一人の人間が他の人達100人分の働きができるのであれば、話は違ってくるかもしれないが、今のステータスオール1のアレスと同様、大抵の人間は決してそうではない。慎ましく、社会的観念に即して生きていかなければ、どの組織体からもつまはじきにされるのが落ちなのである。
女神の加護の影響で、もはや何者でもなくなったアレスにとっては、故郷のいけ好かない田舎の領主の元で農業をしていた時と同じく、この先は再びつらく苦しい日々が待ち受けていると言えるだろう。
その後も満身創痍であるはずのアレスは、一切寝息を立てることがなかった。先行きの見えない不安で、心を苛まれていたことが影響していたのかもしれない。
それからも相変わらず雨の音は、途切れることがなかった。アレスは特別何をするわけでもなく、時々寝返りを打っては、洞窟の天井の岩肌を意味もなく見つめていたりするだけだった。その後も洞窟の中の時間はゆったりと過ぎ去っていった。
「んっ、なんだ? なんか聞こえるな。……洞窟の奥の方から」
そのゆったりとした時間の流れを突然ぶった切るかのように、洞窟の奥の方から物音が聞こえてきたようだった。アレスは耳を澄ませ、物音の正体を探る。
「んんん? こりゃいびきか? ……獣のものなのか、はたまたミイラかゾンビなのかは区別はつかねえが。
まあ気は乗らねえけど、ちと確かめにいくとしますか。何かあってからじゃあ、遅いからな」
いびきは低く唸るように、嫌と言うほど洞窟内に響き渡っていた。アレスは早速、そう心に決めると、ダガーナイフを手に持ち、身体を起こした。
「おい、ヒツジども。こっちへ来い。一緒に洞窟の奥へ探索しに行くぞ」
先ほどまで、焚火の傍で身体を寄せ合い、スヤスヤと深い眠りに落ちていたヒツジ達に、アレスはそう呼びかけた。
「……何してやがる、お前ら」
だがしかし、ついさっきまで焚火の傍に居たはずのヒツジは、その場から姿を消していた。そして、いつの間に移動していたのやら。アレスの投げた視線の先には、洞窟内の岩陰に身を潜め、可愛らしく首だけをひょっこりと突き出すヒツジ2匹の姿があった。完全に身の毛がよだってしまっているのか。ヒツジ達はただこちらの様子を伺っているだけで、決して岩陰から出ようとする素振りがなかった。
「この小心者めが。……あんだけ崖道でも何でも、お構いなく突っ走ってた癖に。いざという時は何の役にも立たねえな!」
アレスは声を張り上げると同時に、ヒツジ達が潜む岩をにらみつける。しかしアレスの怒号がとどめとなってしまったのか。ヒツジ達はすっかり怖気づいてしまったようで、その後も岩陰に引きこもり続けたっきり、一切出てこなくなってしまった。
あっけなくもこの瞬間をもって、アレスは泣く泣く一人で、洞窟の奥の様子を見に行く羽目となってしまったのである。
「ちくしょう! どうかタチの悪いゴーストにだけは呪われませんように」
アレスは祈るような思いで、ダガーナイフを強く握りしめた。それから勇気を振り絞り、少々へっぴり腰になりながらも、一人寂しく洞窟の奥に進んでいったのであった。