第五十四話「恐れ知らずのヒツジ達」
「ひえー、果てしない道のりだな。人一人もすれ違わねえわ」
アレスは、荷台を引きながら前方を走るヒツジ2匹に導かれるまま、ただ時間が過ぎゆくのを待っていた。今現在、彼はヒツジらと共に、傾斜の急な崖道を登っているところだ。
ここ数カ月、深刻な所持金不足に陥っていたアレスは、床屋に行ける余裕すらなく、彼の頭髪はまさに無法地帯と化していた。
それに加え、彼の前髪も見事なまでの覆われ具合で、目から鼻までガッツリ伸び切っている。そうして崖道を登っている最中、伸ばされっぱなしの彼の後ろ髪は、強風に煽られた時のように、ひどく後方になびいていた。
そのような傾斜の急な崖道でもなお、お供のヒツジ達は一切足を緩めることなく、引き続きこの崖道を駆け上がっていく。周囲を見渡すと標高の高い山々が連なり、彼らの目下には奈落が果てしなく広がっていた。
少しでも車輪が踏み外されようものなら、ヒツジ達はおろかアレスもろとも、ただでは済まされないだろう。
「おーい、ヒツジさんや。お前ら、どんだけ働くんだよ。少しは休んだら、どうだ。
……いや、頼むからさっさと休んでくれよ。でないと、俺の身体が持たねえんだよ」
相変わらず手綱を握りしめ続けているアレスは、涙ながらに、ヒツジ達にそう訴えかけていた。
……というのも、トウモロコシ畑の老人から託されたこのヒツジ2匹は、あの畑を出発して以降、何と丸2日間も永延と走り続けていたのであった。その間、ヒツジ達は、飯はおろか水すら一滴も口にしていなかった。
当然、ヒツジ達がそのようにノンストップで走り続けている都合上、アレスは手綱を一時も手放すことができない。言わば彼は、ヒツジ達がタフすぎるあまり、巻き添えを喰らってしまっているのである。
「あのおじいさん、こうしてヒツジと一緒に畑と町を往復してた時は、ずっとこんな飲まず食わずの試練に耐え続けていたのかよ。……転移魔法を使って、俺を大鎌でメッタ刺しにしてた時といい、どんだけタフネスなおじいさんなんだよ。世の中って広いな」
老人がこのヒツジ2匹と共に、まさしく拷問ともいえるこれらの長距離の移動を、休みなしで耐え続けていただろうことに、改めてアレスとしては驚きを隠せない様子であった。
またここまで来る道中、肝心のヒツジ2匹らは、例え道がどれだけ凹凸で、進めば進むだけ荷台が高く飛び跳ねるような悪路であっても、何ら臆することなく、全速力で駆け続けていた。それだけおじいさんに飼われているヒツジ2匹は、恐れ知らずだったのである。
「お天道様、お天道様。おじいさんの言う通りなら、全て見てたでしょ。
この子達が2日間も丸々張り切りすぎちゃってるせいで、俺もう死にそうです。
どうかこの子達の進撃を止めてやってください。常に100%以上の力で走り続けていますし、いつか体壊しますってば。
物事にはメリハリってものが必要だってことを、どうか教えてやって下せえ。あなた様のその偉大なお力で」
逆にここまで来ると、お天道様に対するお願いというよりかは、むしろ懇願であった。
やがてアレスのお天道様への思いが通じたのか。それまで快晴だった空の様子が、段々と雲が太陽を覆い始め、ほどなくして曇り空となった。それから少しもしないうちにポツポツと地面に黒いシミをつくりだしたのである。
アレスにとっては、まさに願ったり叶ったりのにわか雨であった。雨量は、まさに滝のようだった。滝のような大雨は地面を激しく叩きつけ、雨避けのシートが備え付けられていない荷台に、もろに直撃していた。
「こりゃありがたい。これだけ雨が降ってくれたんなら、さすがにこのヒツジ達と言えども足を止めてくれるだろ。ありがたや、ありがたや」
目を開けるのが困難なほどに、豪雨に打ち付けれられていたアレス。そんな彼の表情からは嬉しさがにじみ出ていた。地面も水っ気が多くなり、一瞬にして地面がぬかるみだす。
当然アレスとしては、いくらタフなヒツジ達であろうと、このような悪路の前では、走り続けるのも思いとどまってくれるだろうと、考えていたに違いなかった。
それからアレスの予想通り、ヒツジ達はこの豪雨に耐えかねてか、徐々に走る速度を緩め、移動をピタリとやめた。ヒツジ達はその後、共に空を見上げた。天候の様子を伺っているようであった。
そのヒツジ達の立ち姿は、満月のオオカミのように凛々しく、また雨雲を見据えるその目つきは、風向きを見定める崇高なプロの漁師のようであった。
「はあっ……。これでようやく一息つける。さすがの俺も、これには堪えたぜ」
しばらくヒツジ達の様子を眺めたところで、アレスはそっと手綱から手を放し、荷台の後方にある一つの包みに手を伸ばした。出発前、老人から譲り受けたライ麦パンである。
そうしてアレスが実に2日ぶりの食料に、今まさにありつけそうだったその束の間のことだった。
『メー!』
あろうことか、未だに豪雨がひっきりなしに降り続いているにも関わらず、どういう訳か、ヤギ達は何かにせっつかれたかのように、再びぬかるみだらけの悪路を猛スピードで駆け出したのである。
「おい、コラ! 何の予告もなしに、いきなり突っ走るな!」
慌ててアレスは、先ほど手放した手綱を引き寄せようとする。幸い、アレスが荷台の上で身を投げ出すように飛び込んだことで、かろうじて手綱自体は掴むことができた。しかしそこから体勢を立て直すことはできず、アレス自身まるで手足をロープで縛られ、馬に引きずり回されているかのような哀れな格好となっていた。
傍から見れば、市中引き回しの刑に処されている罪人のようでもあった。
「おい、コラ。そこのヒツジども! 今すぐ緊急停止しやがれ! もしくは、せめて徐行しろ。俺を殺す気か。雨降ってんだぞ。道が滑りやすくなってんだぞ。万が一崖から落っこちたら、どーすんだよ!
……あくまでこれ、おじいさんからお使いを頼まれただけの案件なんだからな。損害保険なんて絶対に入っちゃいねえし、ケガなんてしようものなら全額自己負担だぞ! 少しは先のことを見据えて行動したらどうだ! この恐れ知らずのヒツジどもめが!」
これにはたまらず、アレスはヒツジ達に向かって、怒号を飛ばしていた。大雨を前に、アレスの声がかき消されてしまっていることもあったのだろう。彼の切実な願いはさっぱりヒツジ達の耳に届くことなく、その後も一向に走るのを止めようとしなかった。
ヒツジ達にとっては、ケガを負った際の補償内容とか保険料のことなど、まるで頭にない様子である。
雨脚が強くなるにつれて、行く先々の道には大きな水たまりができていた。荷台の車輪がそれらの水たまりを踏んでいくたびに、まるで防波堤に打ち寄せる高波のように、荷台にまで泥水が高く跳ね上がった。
当のアレスとしても、それを避ける術はなく、頭上から目一杯泥水を浴びる始末であった。
「ひゃー! いい加減にしろ、このアホヒツジめが! 水上アトラクション感覚で、荷台を引いてんじゃねえ! さっきから言ってんだろ! 一歩でも間違ったら俺達、崖から転落だぞ。そうなりゃ俺達、仲良くお陀仏だぞ! わかってねえだろ!」
これらの自然現象に、アレスは依然として上体も起こせぬまま、ただただ前方の手綱を掴み続けている他なかった。
当のアレスの心境としては、炭坑内で松明の明かりもない漆黒の闇の中を、無理矢理トロッコに乗車させられた時のようなものだったに違いない。
「全身ずぶ濡れだ。早く雨風を凌げる場所に行きたい……」
長時間、雨に打たれ続けたせいもあって、彼の全身は震えに襲われていた。服は濡れ、ぴったりと肌に張り付いている。泥も上着やズボンにたっぷり付着しており、そのため一刻も早く、暖を取れる場所に避難し、衣服についた泥を諸々拭い去っておく必要があった。
そうしてアレスが天候にも無鉄砲なヒツジ達にも、悪戦苦闘していたその時だった。
「ぎゃー、俺の身体が宙に浮いてらあ!」
突如、全速力で駆け続けていたヒツジ達が、急ブレーキをかけ、再び緊急停止したのである。
ヒツジ達が引っ張っていた後方の荷台は、その緊急停止した反動で後輪が激しく浮き上がった。アレスも勢いそのままに、荷台から身体ごと宙に放り投げだされ、前方のまた一段と大きな水たまりを目掛けて、着水していったのである。
「ゲホッ、ゲホッ! 止まるなら、止まるって言えよ! ……受け身取れたからよかったものの、危うく首がへし折れるところだったぞ!」
肺に多量の泥水が流れ込んでしまったのだろう。むせるように咳をしながら、アレスは深い水たまりの中から這い上がってきた。アレスは明らかに怒りに満ちていた。目やお口回りにたんまりとついた泥を、手で乱暴に拭い去ると、ゆっくりと目をこじ開けるようにして、その後辺りの様子を伺った。
「おおお! 洞窟だ。しかも荷台ごと、入れられそうだ。ありがたい」
幸いなことに、水たまりのすぐ側面の崖には洞窟があった。高さ的にも、横幅的にも、奥行き的にも、十分に荷台が通れるだけの開けた洞窟だった。雨やら空腹やらで、くしゃくしゃに歪んでいたアレスの顔にも、途端に安堵が込み上げていた。
長きに渡って、探し求めていた宝物をやっと見つけられた時のような安心感を含んだ笑みであった。
「よおし。そうとなれば、おいヒツジども。ここでしばらく雨風をしのぐぞ。……もう勝手な判断で、いきなり走りだそうとしないでくれよ。頼むよ」
祈るような気持ちで、アレスはヒツジ達にそう声をかける。
『メー?』
一瞬、ヒツジ達は首をかしげ、それから意味ありげにお互いを見合わせていた。彼としては、思わずヒヤリとする一幕だったが、最終的にはヒツジ達も思い直してくれたようで、おとなしく荷台を引いて洞窟内に入って行ってくれたのだった。
「ひとまずここの洞窟には、魔獣の気配もなさそうだし……。これで安心して、休めるな。長い道のりだった。早く服、乾かそ」
この洞窟が安全と踏んだアレスは、荷台のお尻が洞窟内に入り切ったのを見届けたところで、彼自身もヒツジ達の後に続き、洞窟の中に入って行ったのであった。