第五十一話「トウモロコシ泥棒を捕まえて」
野を越え、山を越え、アレス達は広大なトウモロコシ畑に出た。大の大人であるアレスの背丈をすっぽりと覆い隠してしまうほどの立派なトウモロコシの茎が、真上から照り付ける太陽に向かって、しなやかに伸びている。
その様はまさに迷える森のようであった。鬱蒼と生い茂った、太く分厚いトウモロコシの葉が、アレス達の頭上に覆いかぶさるように高く垂れていた。一体全体、どこに行けば再び開けた場所に出られるのか。今の彼ら達にとっては皆目、見当もつかなかった。
「ヤバいよヤバすぎるよ。俺達、このままだと行き倒れだぞ。トウモロコシ畑で遭難死する元Sランク冒険者アレス・ゴットバルト……。
こんなことが世の中に知れ渡ってみろ。死してなお恥さらしだ」
「ファーッ!」
馬のブルートゥースは「誰もお前の生き死になんて気にしちゃいねえよ」とでも言いたげなトーンで、ぶしつけにそういなないた。
今のアレスが、そうして行き倒れて死すことを意識し出したのも、ある明確な理由があった。悲惨なことに直近のここ三日三晩、アレス達は飲まず食わずのまま、今日まで至っていたのだ。
極度の空腹と喉の渇きから、頭が真っ白となっていたであろうアレスは、すっかり誇大妄想に囚われているようであった。まさに自意識過剰そのものであった。
「俺の中の小さいアレス・ゴットバルトに問う。お前はどこで道を見誤った? ……トウモロコシ畑に入ること以外に、他にも選択肢があったろうに」
先行きの見えない焦りに駆られてか、アレスはポツリと不安を吐露し出した。こういうのも既に後の祭りなのだが、アレス自身、実に未練がましい男なのである。
そうそれは、“あの時、もっと別の選択肢を取っていれば、こうはなっていなかった”とか、“いざジョブチェンジしたものの、前の勤め先の方が健全だった”とか後ろばかり見ている人のように。
「俺、たかがこのトウモロコシ畑を前に、完全に無力じゃん。以前までの俺だったら、華麗な剣術でここらに生い茂っているトウモロコシの茎という茎を、根こそぎぶった斬って、道を切り開いていたものを。
……さっさと全盛期の時の俺の元のステータスを返しやがれ、あのクソ女神め」
ひたすらないものねだりをするアレス。自身が現在置かれている状況に、とことん納得がいっていないに違いない。
何かにつけて人のせい、環境のせいにしたがる気持ちで、さぞかし一杯なのだと思われる。
「そもそもの話、旅に出ようなんて思わなければよかった。意地でもあの町に居座り続けるべきだった。今の俺に人生の選択肢があるなんて、どうして思っちまったんだ。
……俺なんて、Sランク冒険者クラスの戦闘力がなければ、何の価値もない人間でしかないのに」
ここに来て、アレスは怒涛の自己否定モードに入り出した。元Sランク冒険者とはまるで思えないほどの肯定感の低さだった。これも女神の加護の影響でステータスをオール1にされたことで、人間不信に陥ったが故の心境の変化だと思われる。
「ファーッ、ファーッ」
ナイーブな気持ちに陥っていたアレスをよそに、馬のブルートゥースの注意は辺りに生えている無数のトウモロコシの方に向いていた。そんなブルートゥースの目は、ガンギマリそのものだった。あまりの空腹に耐えかねて、無性にトウモロコシを食べたくなってきたのだろう。
「こらこらブルートゥース。いくら生えているからといっても、これは人の物なんだからな。農家さんが毎日、雨の日も風の日も手間暇かけて育てている売り物なんだからな。
みっともないからよしなさいな」
アレスは、まるで田舎のおかんを感じさせるような上品な叱り方をした。このような口調になったのも、アレス自身がSランク冒険者時代によく通い詰めていた、高級な大人のおばあさんバーの女将さんの口調が板についたからだろう。
「ファーッ、ファーッ」
しかしアレスからそのような忠告を受けていたにも関わらず、当のブルートゥースは依然としてトウモロコシから目を離すことはなかった。
それからも物色するかのように匂いを嗅いだり、執拗に背後を振り返るなどをしていたブルートゥース。いくら馬だからといっても、していいことといけないことの判別は、思いのほかついているようであった。
「人の物を取ったら泥棒だぞ。気持ちは分かるけどよお」
そう言うと、憐れむような目つきでアレスは、ブルートゥースを見つめた。それからアレス自身も気持ちの変化があったのだろう。自然とそんなブルートゥースにつられてか、ふと緑色の皮に包まれたトウモロコシを、興味深そうに眺めだした。
「……まあそれにしたって、立派に熟したトウモロコシなこと。どっからどう見ても食べ頃だよな。お前がそうしているのを見ると、俺まで食い意地が張ってきたじゃねえか。お主も悪よのう」
アレスはそう言って、悪い政官のように口元を歪ませた。悪は伝染するとよく言われるが、当のアレスも馬のブルートゥースの物色ぶりにまんまと感化されてしまったようだ。
ちょうどこの辺りのトウモロコシの一粒一粒は、日中の日の光に照らされていて、まさに黄金のようであった。彼ら達にとっては犯罪を犯してでも、手に入れたいと思わせる魔性の輝きを放っていたのだ。
「さてさてさて。じゃあまずは、こちらから召し上がりますかな」
アレスもブルートゥースにならって、近くにあったなるべく大きな物を選別し、そっと房ごと抜き取った。
「前方良し、背後良し」
抜き取ったトウモロコシをそっと地面に置くと、アレスは続けて目を瞑り、周囲に人や魔獣の気配がないかを探った。長らく、魔獣討伐の最前線で戦ってきた中で研ぎ澄まされてきた探索スキルを、彼は発動させていた。
本来であるならこのスキルは、人類の敵である魔獣といったモンスター相手に正しく使われるべき物である。だが今や悪に身を堕とした彼らにとっては、もはや正しいうんぬんなど考慮できるほどの心の余裕がない。要は今の彼ら達にとっては、正義より目先の快楽なのである。
「背に腹は代えらねえ。これは仕方のないことだ。神の恵みに感謝せねば」
せめてもの罪滅ぼしのつもりなのか。アレスは自身の行いを、神だの恵みだの言って、やけに正当化しだした。これも現実から目をそらしたいがために、ただ適当に頭の中で思いつくままに感謝の言葉を、羅列しているだけに過ぎない。
「ありがたやありがたや。ほな、いただきます」
そう言い終えると、アレスは残りの房の部分を乱雑に剥いた。黄金色の実が全て露わになると、口をあんぐりと開け、それからまるで草食動物の肉に食らいつく肉食獣のような猛烈な勢いで、トウモロコシを貪りだした。そこには最早、恥も外聞もなかった。
「ほれブルートゥース。何グズグズしてる。食えったら食え。くんかくんか匂いばっかり嗅いでても、腹は満たされねえぞ」
吟味ばかりして、一向にトウモロコシに手を付けようとしないブルートゥース。アレスはたまらず、トウモロコシをもう一つ房ごと取り出し、ブルートゥースの口元に持って行った。
「何してる。お前も食え。ここの農場のオーナーに見つからないうちに、さっさと胃の中におさめるものおさめとけ。……次、いつ食事にありつけるか、わかったもんじゃないんだから」
アレスは小声でささやきかけるように、物音を立てないように細心の注意を払いつつそう言った。
ブルートゥースはまるで、服選びに時間をかけすぎる年頃の女子みたく、これぞといっったトウモロコシがまだ決まっていないようであった。何とも優柔不断な老馬である。
「ファーッ! ファーッ!」
ブルートゥースは、なぜかアレスに差し出されたトウモロコシから顔をそらした。先ほどまで食い意地が張っていて仕方のなかったブルートゥースだったが、ここに来て、思いのほか渋る様子を見せてきたのである。
「なぜだ。お前の思考回路は、理解に苦しむぞ。久々のご馳走が、すぐ目の前にあるっていうのに。食わない選択肢がどこにあるってんだよ」
アレスは、ほとほと困り顔を浮かべていた。あれだけあらゆるトウモロコシを物色していた癖に、未だに一つも手に付けていないという行動の一貫性のなさを、さぞかし不思議に思ったに違いない。
「あー、そうか。房か。この房が邪魔しているのか。これを丁寧に剥いてやればよかったんだな。全く気が付かなかったよ。今、やってやるからな。どこまでも手間がかかるやつめ」
一転してアレスは、ブルートゥースが食べやすくなるように、房ごと剥いてあげることにした。魚の骨を取り除くのと同じように、トウモロコシの房の繊維が一つも残らないように丁寧に、丁寧に……。
おそらくアレスは、トウモロコシの緑色の房が、ブルートゥースの喉を詰まらせる原因になり得ると思ったのだろう。
そういう訳で、トウモロコシの房を全て剥き切ったところで、剥き出しの綺麗なトウモロコシを、またブルートゥースの口の前に差し出した。
「ファーッ、ファーッ」
だがそうしたのも束の間、ブルートゥースは依然としてその剥き出しのトウモロコシからは距離を取った。何やらそれが、決して食べてはいけない禁断の毒キノコであるかのように拒否反応を見せたのである。
それからまた遥か遠く、アレスの手が届かない場所の方からブルートゥースは不自然なまでに左右に首を振り出した。あたかも水の中に誤って落ちてしまった犬が、身体に付着した水分を飛ばそうと、水しぶきをあげるかのように。
「はてはて、それまたどうして? 目の前にチャンスが転がっていたら掴まなきゃ。それを掴める人間が、成功者になれるんだぞ。もったいないねー、ブルートゥースってやつは。成功者になれる機会を喪失してるぞ」
ここに来て、アレスは成功者の論理を語り出した。それとこれとは話が別だとは思うが、アレスは鼻高々に、他人を下に見ているかのような口調で毒を吐いた。
おそらく心の中で、“目の前のトウモロコシを食わない奴は、無能”とでも思っていそうである。
それからも依然としてブルートゥースは、アレスと大きく距離を取って辺りをキョロキョロと見渡していた。まるで、見えない何かにおびえているかのように。
アレスはそんなブルートゥースの様子を見て、滑稽に感じたのか思わず吹き出してしまっていた。
「こんなにだだっ広いトウモロコシ畑で、少し盗み食いしたくらいで、誰にもバレやしないって。さすがに、監視の目も行き届いてないって。
ちょうどこの丈の長い茎が隠れ蓑になってるんだ。心置きなく盗み食いし放題だぜ。もうこれでしばらくは、食料難に悩まされることはないな。
……これぞ天が俺達に味方してくれたってことだ。成功者になるためには、時には実力はさることながら運も必要だからな。ついてるついてる」
アレスは先ほどにも増して、えらく上機嫌になっていた。悪びれる様子は一切見られない。続けて上機嫌なまま、トウモロコシに前歯を突っ立てていた。
これぞ犯罪者の思考っていうやつなのだろう。犯罪を平気で犯す人間は、罪の意識がひどく曖昧になるとよく言われているが、このアレスはまさしく成功者の思考ではなく犯罪者の思考に陥っていた。
「ではでは、もう一つ」
ブルートゥースの分のトウモロコシを完食すると、アレスは次に3つ目のトウモロコシに手を伸ばし、房ごと抜き取った。心のタガはすっかり外れてしまっているようだ。大して周囲を警戒することもなく、引き続きアレスは、トウモロコシを貪り続けていた。
「ここは楽園だな。今後の食料にも困らないし、下手すればここで雨風もしのげる。一層のこと、潜伏先としてここに秘密基地をつくるのもありだな。……ついてるついてる」
そうしてアレスが誠に勝手ながら、今後の潜伏先の生活に思いを馳せていたその時。
突然トウモロコシ畑の地中から、青い一筋の光が上空に向かって高く飛んでいった。それは宮殿にある円形の大型の柱のように、遠くから見てもはっきりと目に映るほどの大きさを誇っていた。
「な、なんだ今の?」
その光をアレスが認識した瞬間、それまで彼が口にしていたトウモロコシ一房が、ポトッと地面に落ちた。
「気配なんて、まるで感じなかったぞ。……こいつは、ただ者じゃねえな。凄まじい魔力だ。クソ、すっかり油断してた」
青い光を認識してから、アレスは何者かの気配を感じたようで、即座に警戒態勢を取りだした。
やがて青い円柱の光が現れた方角から、アレスの方に向かって、トウモロコシの茂みがわさわさと揺れ出した。同時に茂みの方角からは、クシャっと茎を踏みしめているかのような乾いた音も聞こえていた。その様子にすっかり身体がすくんでしまったのか、アレスは特別、逃げることも隠れることもしなかった。
「まずい。トウモロコシ泥棒をしていた事実が、明るみになることは避けないと……」
突如として身の危険を感じ出したアレスは、先ほど地面に落っことした食いかけのトウモロコシ一房を拾い上げると、ばつが悪そうに背中にそっと隠したのだった。散乱した茎もかき集めるだけかき集めだし、そっと上から土を被せた。
身の潔白を証明すべく取った、彼なりの証拠隠滅を図り出したのである。
「おい、お前か! 連日連夜、わしの畑を荒らしとる不届き者は!?」
茂みの中からは、つばの長い麦わら帽子をかぶった、日に焼けた半裸のやや瘦せ型の老人が姿を現した。老人の手には大きな鎌が握られ、取っ手の底の部分を力強く地面に突き立てている。目の前に居る不届き者に対して、強く敵意を向けているようであった。
老人の目線は、アレス本人を鋭く捉えていた。装備している大鎌のリーチの長さに加えて、目元の窪の深さに、陰が宿っているように見えるのも相まって、その立ち姿はまさに死神を彷彿とさせた。
「いえ違います。人違いです、はい」
アレスは咄嗟の一言で、このように言い逃れを図ろうとした。
「お天道様はなあ、全てお見通しなんだぞ。しらばっくれよって。正直に言え! このトウモロコシ泥棒めが!」
頑なにアレスがトウモロコシ泥棒と信じて疑わない老人は、口を尖らせる。
「お前の足元にある物はなんだ。この食べかけのトウモロコシの残骸は。どう見ても、これはお前の仕業じゃ! 違うか!」
老人は、食い散らされたトウモロコシの残骸に目をやった。老人には全てお見通しだったようだ。アレスの努力の甲斐も空しく、まるで隠し通せてなかったようであった。
「えっと、これはそのですね……」
決定的な証拠を突き付けられ、言葉を取り繕うべく、考えあぐねているアレス。結局しばらく経っても、何も言い返すことができず、ついに老人はしびれを切らし、次のようにな行動に出たのであった……。
「それ見たことか。やっと見つけ出したぞ。連日連夜、わしの畑を荒らしよって。状況証拠は全部そろっておる。制裁じゃ!」
確信を持った老人は手持ちの鎌を大きく振りかぶると、アレスの頭上を目掛けて素早く振り下ろした。老人は殺意の塊だった。情状酌量の余地など、端からなさそうであった。
「まずい!」
身の危険どころか命の危険を感じ始めたアレスは、背中に隠していたトウモロコシ一房をなぜかその場に捨てることなく、わざわざ手に持ち直して、その場から逃げだした。トウモロコシ泥棒の現行犯であることを自ら証明しに行ったようなものである。
見られてしまったからには、仕方ないとそう判断してのことだと思われる。
「こんなところでやられてたまるか! 俺の人生、これからだと言うのに!」
「待つんじゃ、トウモロコシ泥棒!」
老人は鬼気迫る表情で、鎌を振り上げながら、アレスを追いかけ始めた。その様はまさに狂気に満ちた村人そのものだった。ただ老人の頭にあることは、草木を刈り取るように泥棒の首をちょん切り、金輪際、畑に立ち入れないよう処置を施すことにあると思われる。……二度とこの畑で悪さができなくするための最終手段に、打って出たということである。
当のアレスも老人に捕まってしまえば、命がないことがわかっているからか、何振り構わず広大なトウモロコシ畑の中を、闇雲に逃げ続けていた。
……まあ厳密に言えば、今のアレスは“無限サンドバック”といった固有スキルがあるため、例え老人に首をもっていかれたとしても、すぐさま蘇生に至るため、最悪命まで取られることはない。だが首をもっていかれたことの代償に、悶絶するほどの痛みが発生はするため、アレス自身にとっても気が気ではないのは確かなことであった。
「くそう、なんて逃げ足の速いやつじゃ。卑怯じゃぞ」
老人の声はアレスの遥か遠くの方で、悲しく響き渡っていた。老人とアレスとの物理的な距離は、ますます開いていく一方であった。
いくら今のアレスが、クソ女神の加護でステータスオール1に陥っていたとしても、20代後半の青年に追いつくのは、さすがに老人の身には厳しかったようだ。
アレスは時折、背後を振り返って老人の位置を確かめていた。だが、老人が米粒サイズに見えるところまで差が開いているのが分かり、それからは徐々に走るペースを緩めていった。
「よし今のうちに、ブルートゥースと畑を脱出だ。カモン、ブルートゥース!」
アレスは合図の口笛を鳴らし、先ほどのごたごたで姿を見失ってしまったブルートゥースを自身の元に呼び寄せようとした。
「結局、トウモロコシは2つしか平らげられなかったけど、いい腹の足しにはさせてもらったぜ。ごちそうさまでした」
一旦は盗み食いがバレてしまったアレスだったが、上手く老人を振り切ることができた安心感からなのか、トウモロコシを口にできた回数を思い出す心の余裕すら出てきていた。
だがそう安心していたのも束の間、次の瞬間、アレスにとってその時の余裕が、全て吹き飛んでしまうぐらいの出来事が起きてしまったのであった。
「こら! 逃げ切れると思ったか!? 絶対に許さんからな! 地の果てまで追いかけて、殺処分してやるからのぉー!」
ついさっきまで遥か後方に居たはずの老人が、再び青い円柱の光と共に、アレスの目の前に忽然と姿を現し、彼の行く手を阻んだのである。そして再び手元の鎌を、アレスの頭上目掛けて、素早く振り下ろし始めたのである。
「へっ? て、転移魔法? 嘘だろ……。こんな片田舎に高度な魔法を使える人間が居るなんて! だってこれ、あのアスピリッサでもジュリー姉妹を除いて、他の冒険者連中の誰も使えなかった技だぞ? こりゃ難儀だな!」
これにはアレスも思わず、驚愕の声をあげながら、老人の大鎌の連撃を身体のスレスレのところで避け続けていた。どうやらこの老人は、青い円柱の光を駆使しながら、テレポーテーションが使えるらしい。空間魔法を使えるトウモロコシ畑の老人なぞ、少なくともアレス自身の辞書になかったことだったのか、汗がいつにも増して過剰に分泌されていた。
想定外の事態に、アレスも相当動揺している様子だった。
「どの道、逃げるっきゃない。言い方は悪いかもしれないけど、相手は所詮老人だ。転移魔法の連発なんて、まずできやしない。あのジュリー姉妹ですら、転移魔法を使った時はマジックポイントを大幅に消費したし、術後の副作用も患ったんだ。
……持久戦に持ち込めば、俺の方が圧倒的に有利だ。この勝負、逃げるが勝ちだ」
アレスはそうした見立ての元、次に側面にある茂みに分け入り、開けた草道に出た。この広大なトウモロコシ畑は、等間隔上に脇道が並んでいて、少しばかり茂みを分け入っていけば、すぐに開けた草道に出ることができた。単純な走りでは、まずアレスは老人の敵ではなかった。そのためこのままいけば、アレスは普通に逃げ切れると踏んでいたのであった。
またしばらくして、先ほどと同じようにアレスは背後を振り返り、老人との距離の開きを確認した。
「よし、今度こそもう大丈夫だろ」
アレスはそうした判断の元、また走るペースを緩めた。
「……それにしてもブルートゥース遅いな。俺からの合図、聞こえてたはずなのに、何グズグズしてんだ。ちんたらしてると、畑に置いてくぞ」
逃亡中の最中、ブルートゥースとの合流の出来なさに、アレスは苛立ちを募らせていた。再び自分ではなく他人の心配ができるぐらいまで、心の余裕がでてきたのも束の間、またもやアレスの目の前には、転移してきた老人の姿があった。
「殺処分してやるって言ったじゃろ! 観念するんじゃ!」
「おいおい、話が違うぞ。転移魔法を連発できるなんて、聞いちゃいねえぞ。術後の副作用はどうした? ピンピンしてるじゃねえか。
……こいつは案外、長い戦いになりそうだな」
それからもアレスと老人との熾烈な逃走劇は続いた。しかし何度、アレスが逃げ続けてもその都度、老人が転移魔法で先回りし、次第にアレスは走る体力を失っていった。
転移魔法は連発できないといったアレスの予想は、全くもって外れてしまっていた。
「なんてこった。すっかり袋のネズミじゃねえか。あろうことか多重分身のスキルも使えるとは。……何者なんだ、この老人」
アレスの発言の通り、今度、彼は転移魔法で先回りされているだけに留まらず、四方を7名の老人に囲まれてしまい、とうとう逃げ場がなくなってしまった。
分身は徐々にアレスの方に近づいていき、着々と大鎌を振り下ろす準備を整えていった。
「老人の魔力、あのジュリー姉妹以上だ。世界は広いというか、まだまだ知らないことがいっぱいあるんだな。嫌なこと学ばされたぜ、ちくしょう」
「観念しろ、このトウモロコシ泥棒め。作物の恨みは怖いぞ。……お前は、おとなしく土に帰れ!」
退路を断たれたアレスは抵抗する間もなく、頭に大鎌を振り下ろされ、もろにクリティカルヒットしてしまった。彼の頭部はまるで、切株の断面のように真っ二つに割けた。
白目を剝きながら、膝から崩れ落ちるようにアレスは、地面にうつ伏せに倒れる。
「成敗、成敗、成敗……」
分身後の7名の老人は、か細い声で呪いの呪文のように同じ言葉を繰り返した。意識を失い身動きが取れなくなったアレスの背中を目掛けて、次々と追撃を加えていった。
転移魔法に分身魔法をも使いこなせるその老人の異様さもあって、不気味さがなおさら際立つ。
「今晩のおかずにしよう、そうしよう……。今晩のおかずにしよう、そうしよう……。ふふふふーん♪」
老人の分身達は若干、鼻歌を口ずさみながら、一定のリズムで鎌の先端をアレスの背中に突き刺していった。
それは農具を使って土を耕す時のような要領で、実に慣れた手つきであった。突き刺しては引いて、突き刺しては引いて……。そして今晩のおかずはミートボール。老人の顔には傍から見ると、はっきりとそう出ているように思えた。
そうしてアレスは残酷なことに、何度も意識が途切れては回復してを繰り返し、老人達の気が済むまで、その報いを受け続けることになったのであった。