第五十話「背中を押してくれるのは、水平線に昇る朝日」
「ブルートゥース。良い眺めだとは思わないか? まるで俺達の背中を押してくれているかのようだ」
アレスの目線の先には、水平線から顔をのぞかせる朝日があった。彼が蒸発を決意してから迎える初めての朝である。
彼らは今、山の頂に居た。標高の高い山の山道を登って、山頂から港湾都市アスピリッサの街並みを、じっと眺めているのである。人知れずアレスの口ぶりからは、あのアスピリッサがどこか遠い昔の出来事のように感じさせた。
「ファーッ」
馬のブルートゥースは、いつになく気持ち良さそうにいなないた。
山頂から見える薄明の港町は、まだ眠りから目覚めた様子はない。人や船の動きも、まばらだ。運河の上に立つ大小様々な家屋の間を抜ける河川の波も、至極落ち着きがあった。
山頂の周辺は、若葉が多く芽吹いていて、アレス達を鮮やかな緑色で囲んでいた。
これらは新春の訪れを強く感じさせる光景だった。都会の中心で溜まりに溜まって淀んだ息苦しい外の空気も、この大自然の前では全く無力であるように思える。
ここには都会のような喧騒さも、理不尽さも一切ない。早朝の爽やかな空気に包みこまれているおかげか、アレスの心に巣食っている膿も自然と解き放たれているようにも見えた。
「おーい、そこの若い衆。どうだね、山頂から見下ろすこの絶景は。朝昼晩の三度の飯より、こっちの方が断然に素晴らしいと思わないかい?」
おそらく山中でのランニングを日課にしていそうな軽装姿の男性から、アレスは屈託のない笑顔でそう話しかけられた。
男は全身から滝のように流れる汗を、肩にかけている中々に黒ずんでいたタオルで拭っていた。
「はい、そうかもしれませんね」
「そうだろ~そうだろ~。わかってくれるか、若い衆。そう言ってくれて、おっさん涙が出そうだよ」
健康的な白い歯をみせながら、山男はアレスに近寄って行く。それを見たアレスは、やや後ずさった。
「ここはいいぞー。この雄大な景色を眺めていたら、直面している悩みなんてものは全て、吹っ飛んじまうぜ。
……例え街中にあるおいしい店と、おいしい料理をたくさん知っていたとしても、この景色に勝るものなんて何もないさ。若い衆も、そう思うだろ」
おそらくランナーズハイならぬマウンテンハイを感じ、言い知れぬ高揚感を覚えているであろうその山男は、肩で息をしつつ、唐突にアレスと肩を組んできた。
背丈はアレスと大して変わらぬ標準的な体格だったが、不思議と彼と比べて、一回りも二回りもたくましく見えた。
都会のアスピリッサで、世紀の大バッシングを受け、絶賛、憔悴状態に陥っているアレスと違って、山男の彼は見るからに生気がみなぎっていた。言うなれば、季節外れの真夏の太陽が似合うようなギラギラさがあるといったところだった。
「はい。若い衆の俺も、そう思います。……あとすいません、こうもくっつかれると、あなたの汗で服が水浸しになってしまうんで、少し離れてもらってもいいですか?」
アレスの言うように山男の衣服は、まるでにわか雨にさらされた後のようにズブズブに濡れていた。山男の彼も悪気はなく、良かれと思って肩を組んできたと思われるが、これでは流石のアレスも我慢ならないだろう。
当然、無神経にもほどがあると、声を大にして言いたくなってしまうのも無理はない。
「悪いな、若い衆。人間はみな兄弟だって、昔から山がそう教えてくれてたもんで、ついな。無礼を許してくれ。
……そういえば、あんたはあのアスピリッサで有名な冒険者の人だろ? あの町で、いったい何があったかは詳しくは知らないが、強く生きろよ。人類はみな兄弟だ。都会の世界にどっぷり染まっちまうと、つい忘れがちになるがな。そんじゃあな」
山男の彼は再び、健康的な白い歯をみせながらそれだけを言い残すと、颯爽とその場を去って行った。
「はあ……。いったい何が言いたかったんだろうか、あの人は。ドッと疲れたぜ。お前もそう思うだろ、ブルートゥース」
「ファーッ……」
馬のブルートゥースはいつになく、しょんぼりした様子でそういなないた。普段から何も物事を考えておらず、のびのびと自由人そのものと言っても過言ではないブルートゥースにしては、珍しい反応の仕方だった。
「人類はみな兄弟だなんて、実際、そんなことがあるわけないよな。……でもさっきのあの人は、俺を冒険者のアレスだと知っていても、偏見なく受け入れてくれたな。
ちょっと癖は強かったけど、普段の生活に満足いってなくて、不満を他人にぶつけるような典型的な人とは、まるで違っていたな」
先ほどの山男の彼に対し、アレスはそう評価した。
アレスが都会のアスピリッサに居た時は、多方面から心無い毒を浴びせられ、心身共にすっかり参ってしまっていた。それは、生身の人間を完全に機能不全にさせる猛毒だった。
一度そのような種類の毒を浴びてしまった耐性の低い人間は、体内に抱えきれず蓄積されていった毒を、立場の弱い人間に発散させていくことになる。そうして長い間、無情な毒に晒され続けた哀れな人間は、段々と攻撃的かつ感情的な性格に変貌していってしまうのだ。
「少しはああやって心に余裕があって、嫌味もなくて、裏表のない真っすぐな人間が増えてくれたらいいのになあ。……まあ無理な話か」
アレスはそう言うと、諦めがこもったため息をついた。
現実ではそれが不可能なことを、痛いほど知っていてのことだろう。今後も社会を生き抜いていくためには四六時中、心無い毒を浴び続けることになる。その対処法はその致死性の毒に適応することを覚え抗っていくか、それとも立場の弱い人間に遠慮なしに発散し、毒を吐き出していくかのどちらかしかない。
「よし、そろそろ出発するか。アスピリッサともこれで見納めだ。人生最大の裏切りにも遭った場所だったけど、同時に人生最高の景色を見せてくれた場所でもあったな。良くも悪くもここでの日々は、生涯忘れることはない。……じゃあ、行こうかブルートゥース」
「ファーッ」
山頂から下山していくアレス達の足取りは、とても軽やかだった。これまで積み上げてきた実績は、音を立てるように全てが崩れていった。だが同時に、それまでアレス自身が背負っていたであろう諸々の重圧からは、解放されたことだろう。
一度、失ったものは決して戻ることはない。ゼロからのスタートは、新たな地獄を見ることになるだろう。だがそれでもアレスは、次なる光を追い求めて、前へ進みだしたのである。