第四十九話「渡る世間は鬼ばかり」
「なあ、ブルートゥース。お前、渡る世間は鬼ばかりってことわざ、知ってるか?」
「ファッー?」
アレスは、地上で馬用のリードを引っ張りつつ、自身の横を歩くブルートゥースにそう問いかけていた。さすがのブルートゥースも、アレスが突拍子もないことを言い出し、さぞかし困惑したことだろう。実際にアレスの方を一点に見つめ、口をあんぐりと開けていた。
「世の中には無情な人ばかりがいるのではなく、困ったときには助けてくれる情け深い人もいるって意味らしいぞ。なあ、このことわざ通りなら、俺、誰かから救いの手を差し伸べてもらってもいいとは思わないか? 違わないか?」
「ファッー?」
いななくと同時に、きょとんとした表情を浮かべるブルートゥース。続けてアレスは、街中の人目が多い場所にも関わらず、恥ずかしげもなく、堂々と持論を振りかざしてきた。
「だってさあ、アスピリッサのみんながみんな、俺がSランク冒険者から落第した途端、一気に関係性がドライになったんだよ。確かに世の中の大半は、無情な人ばっかりなのは分かる。だけどよお、俺の場合、それまで繋がりのあった人達のほぼほぼ全員が、無情な人と化してる始末だ。
このことわざを発明した人、いったいどこのどいつなんだろうね?」
そう言うと、アレスは目尻を吊り上げる。“渡る世間は鬼ばかり”といったことわざを世間に浸透させた張本人に対し、苛立ちが湧いたのだろう。アレスはこうやって、何事にも難癖をつけたがる節があるのだ。
「……ファッー?」
ブルートゥースは、目をパチクリさせながら、首をかしげる。馬に人語が理解できるとは到底思えないが、心なしか『そんなこと言われましても』っと、きっと心の中で呟いていそうだ。
当のブルートゥースからは、眉を八の字に曲げて、困り顔を浮かべているかのような哀愁さを、感じ取れた。
「ファッー、ファッーばっか言って、相変わらず締まりがないやつだな。お前に質問した俺がバカだった。許せ。よしよし」
馬相手に愚痴をこぼしても仕方ないと、ブルートゥースの様子を見て、そう悟ったのだろう。アレスは一言謝ってから、頭をなでようとした。
「ファーッ! ファーッ!」
しかしここに来て、ブルートゥースは珍しく感情を露わにした。直に触れられることを極度に嫌ったのだろう。アレスからのけぞるように、顔をそらした。
「バカな! お前まで俺のスキンシップを忌み嫌うのか。確かに女性に対して、俺から頭を撫で撫でしようものなら、まるで逆上した猫みたいになるのは、百歩譲って理解できる。
……だがブルートゥースよ、馬のお前まで、それをされるとなると、俺は悲しくなってしまうだろうが。俗に言う、ぴえん通り越してぱおんってやつだぞ!」
アレスはそう言ってから、途端にすすり泣き出した。その様は、悪さをして親におもちゃを取りあげられた、反抗期の息子に通じるものがあった。
当のブルートゥースからしたら、「お前なんかにスキンシップを求められるくらいなら、まだ両生類であるカエルに顔を舌なめずりされる方が、数億倍マシだ」といったところなのかもしれない。
まあ少なくとも、世の女性から見たアレス・ゴットバルトの評価はざっと両生類のカエル以下であるのは、疑いようもない事実だと思われる。
さてそのような茶番はさておき、アレスがギルド長に勘当を言い渡されてから、ちょうど1週間の月日が経っていた。彼はつい先ほどまで、アスピリッサ郊外のとある武器職人の家を訪ねていた。久しぶりの再会も兼ねての訪問だった。
だがしかし、アレスの期待とは裏腹に、その訪問の結果は散々たるもので、旧交を温めるどころの話ではなかったのである。実際、アレスは当該の武器職人に『今更、何しに来た。二度と来るな』と強い口調で、厄介払いされてしまっていたのだ。
この武器職人の訪問以外にも、アレスは冒険者ギルドのパトロンであった貴族や大司教、大規模商人らに挨拶回りをしていたが、悲しいことに例外なく冷たく突き返される始末であった。
「あんな言い方はないよな……。確かに専属の武器職人を別の人にシフトチェンジしてから、しばらく会ってなかったこともあるけど、そりゃあんまりだぜ」
アレスがブツブツとそう呟いているように、例の職人さんは、彼の姿を目にした瞬間、まるで親の仇でも見るような目つきで、鋭くにらみつけていた。話に取りあろうとする態度は全くと言って良いほど見られず、問答無用で即刻、面会謝絶となったのである。
「やっぱり一方的に専属契約を打ち切られたことを、ずっと根に持ってるんだろうな。こればっかりは仕方ないか。冒険者ギルド側が決めたことだもんな」
元々、その武器職人は、アレスがまだ駆け出しのSランク冒険者だった頃に、お世話になっていた恩人だった。俗に言うスポンサー契約の形で、冒険者ギルド側が契約を取り付け、以降しばらくの間、アレスに武器供与や装備品等々のメンテナンスを請け負ってもらっていたのだ。
しかしアレスが順当に魔獣の討伐依頼を達成し、キャリアを積んでいくに従って、状況が変わった。急遽、アスピリッサ冒険者ギルド側の方針で、辺境の武器職人から都内の名門の武器職人にクラスチェンジを行なう旨の通達があった。要するに、その辺境の武器職人とのスポンサー契約を解消する形となったのだ。
スポンサーの選定の権利も、アレスは持ち合わせておらず、ただただ冒険者ギルドの意向に従うしかなかった。いくらSランク冒険者だからといっても、討伐依頼の仕事を斡旋してくれるのは、何を隠そう冒険者ギルド側だ。人類史がこの先、何千年、何万年進もうとも、「上の言うことは絶対」の真理が揺らぐことは、決してないのである。
ちなみにその都内の名門の武器職人というのが、アスピリッサ冒険者ギルドの受付嬢、金髪のソフィーの親元の家だった。都内でも最高クラスの腕を持っているともっぱらの評判の名家だった。
「おい、ブルートゥース。見てくれよ、この日刊紙の記事を。7日付の」
アレスは移動の最中、そう言いつつ、リュックから日刊紙を取り出し、ページをめくった。
「ほらこのページのこの箇所に、俺様にまつわる特集記事が組まれていてな。見出しが、『アレス・ゴットバルトの怖すぎる裏側。今まで葬り去られていた、冒険者業界の闇に迫る』だってよ。
とんだ悪人に仕立て上げられたもんだな。これが報道各社の言う、勧善懲悪ってやつか」
ふとアレスは、そう言いつつ、表情にかげりを見せた。確かに日刊紙に書かれていることは、紛れもなく事実だ。裏取りがデタラメの偏向報道なんてことは全くない。そりゃまあ、記事を書いている報道担当者だって、血の通った一人間だ。人間の考えなんて十人十色であり、同じ事実であっても解釈の仕方は人の数だけ、組織の数だけ違っていて然るべきだと思われる。
それを少しばかり意に沿わないからと言って、偏向報道だと断罪するのも少し考え物だと個人的には思われる。
「……っておい、こら。ブルートゥース。これは食べ物やない。日刊紙や」
「ファーッ?」
ブルートゥースは、空腹に苛まれていたのだろう。アレスが手に持っていた日刊紙を、彼の背後から、まるでサバンナのシマウマのように首を伸ばして、食べようとしていた。ブルートゥースの目には、その日刊紙が、青々とした栄養価満点の牧草のように映っていたのだろう。
「よせ、消化不良を起こすぞ。日刊紙を食べる馬が、どこにあるか。やめろぉ!」
アレスは意地でも食べさせまいといった気概で、身体をねじったり、よじったりしつつ、日刊紙の捕食の阻止を試みた。しかしその頑張りの甲斐もむなしく、無残にも日刊紙はブルートゥースの口元に吸い込まれてしまったのだった。
「バカ野郎! いくら紙にインクが含まれているからって、かき氷のシロップみたいに味なんてしねえぞ。今すぐ吐き出せ! 死んじまうぞ!」
アレスは、ブルートゥースの首元を手の平で叩いた。吐き出さなければ、たちまち栄養失調を引き起こし、凄惨な目に遭うのが目に見えていたからである。
「ファーッ」
そんなアレスの気も知らず、ブルートゥースは呑気にいなないた。久方ぶりの食事に、幸福感が身体の隅々まで、行き渡ったのだろう。
「あーあ、どうなっても知らねえぞ……」
日刊紙がブルートゥースの胃の中に完全におさまってしまったことを理解し、アレスは目頭を押さえた。これから想定されるであろう馬の下の世話のことが頭によぎり、心身に不調をきたし始めたのだと思われる。
「うわーお母さん、見てあれ。落第冒険者のアレス・ゴットバルトじゃん。つい1ヵ月前に、銀行で窃盗しようとした……。極悪人だー」
アレスがそうして馬のブルートゥースと他愛のないやり取りを交わしていたところ、買い物帰りと思われる親子連れの少年が彼の方を指差し、甲高い声でそう言った。その少年の一言がきっかけで、たちまちに周囲の注目はアレス達の方に注がれる。
通りの隅で立ち話をしていた紳士淑女を始め、店先で果物や雑貨の店頭呼び込みをしていた人達までもが、一斉にアレスを見た。
「まあ、なんて汚らしいロバなこと。きっと飼い主のあれに、大事にされてないんだわ。ペット虐待ってやつね。
……しかも聞いてちょうだいな、ウィリアム通りの花屋の奥様。さっき、日刊紙をあのロバに食べさせていたのを見たわ。いくらなんでもひどすぎるって思わない?」
その少年の母親は、店先の花屋の奥様にそう話しかけていた。
「なんですって、パシフィック通りの裁縫屋の奥様。それって虐待行為に該当しますわよ。信じられない。全女性の敵ね」
その話を聞き、ウィリアム通りの花屋の奥様は、驚愕の目をアレスに向けた。それまで正午で賑やかだったここらの通り一帯が、途端に静寂に包まれる。
それからはひそひそと “金の亡者”だったり、決してアレス本人にとっては聞こえの良くない否定的な言葉が、通り中にあふれ返った。
おそらくこの一帯のあちこちで、全女性共通の敵であるアレスは、ご近所の婦人間で井戸端会議にかけられ、何度も死刑判決を言い渡されていることだろう。
そうやって一旦女性の敵に回ってしまった男は、容赦なく晒し上げに遭い、女子会における格好のサンドバックとなってしまうのだ。表面的には愛想良く振舞ってもらっていたとしても、裏の女子会ではとことん魔女裁判にかけられ、気の済むまで火であぶられ続けるのである。
「おいブルートゥース。俺、決めたぞ。……今夜をもって、アスピリッサから蒸発する」
罵詈雑言の声を右から左に聞き流し、まるで気にも留めていないかのような飄々とした態度でそう言った。
「ファーッ?」
馬のブルートゥースは、何故にといったニュアンスでそういななく。
「このままこの都市に居続ければ、俺のアイデンティティーが崩壊する。要は、アイデンティティークライシスってことだ。わかるか、ブルートゥース」
「ファーッ?」
ブルートゥースは首をかしげる。当然、アレスの言わんとすることが馬の彼が理解できるはずもなかった。
「今まで俺はこの街のため、冒険者ギルドのために時間を犠牲にしてまで尽くしてきた。しかしステータスオール1になった途端、この仕打ちだ。都合の良い時は散々、俺のことを利用してきたくせに、いざ俺に利用価値がなくなってからは、波が引いたようにサアーッと人が離れていった。
……もうこの街のために、俺がしてあげられることはない。ジョエル・カロリントンから一方的に押し付けられた借金も踏み倒してしまえ。嫌なことは我慢しなくていい。責任感を極端にまで抱えて、物事に取り組む必要もない。
アスピリッサは俺の人生を変えてくれた思い入れのある場所だったけど、新天地で人生を仕切り直そう。きっとどこかの街が、俺達のことを受け入れてくれるさ」
アレスの決心は固かった。相変わらず街中の人達はアレスに対して、心無い無責任な言葉を浴びせ続けている。アレスに対するバッシングは収まる気配がなかった。
そして今夜の日の沈む頃、アレスと馬のブルートゥースは港湾都市アスピリッサを離れ、新たな門出の一歩を踏み出すことにしたのであった。
……それは決して、容易な決断ではなかったのである。