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第四十二話「歩けブルートゥス。止まるんじゃねえぞ」

「歩けブルートゥス、止まるんじゃねえぞ」


 アスピリッサに向かうべく、アレスは愛馬のブルートゥスと共に、歩を進めていた。

 しかしながら道中、やはりブルートゥスは老いぼれなためか、10分間隔で一時停止し、また歩き始めるサイクルを幾度も繰り返していた。

 元競走馬にしては、あまりの馬力の低さだ。アレスが再三に渡って、骨と皮だらけのブルートゥスの身体に馬上から鞭をお見舞いしているのだが、一切と言っていいほど反応を示さなかった。これにはアレスも開いた口が塞がらないといった様子であった。 


 だがこの田舎寄りの郊外の地から、再び都心に向かうためには、老いぼれブルートゥスの力を頼りにする他ない。アレス1人が移動できる距離では到底なかった。要するにいくら馬力が低く、オンボロであっても、決してブルートゥースを無下にすることはできないのだ。

 普通、こうした場面になったら騎乗者が上から鞭をぶん回し、馬に発破をかけるものなのだが、いかんせんブルートゥスは老いぼれである。言い方はあれだが、老いぼれであるためか、外界からの痛みもひどく鈍感となっているのだろう。

  

「ファーッ」


 最早、当の本人からすれば、鞭で叩かれていることすら気づいていないと思われる。

 結局、老いぼれブルートゥスは気の抜けた声で鳴くだけで、鞭に打たれようが常にマイペースなのであった。


「何がファーッ? だよ。相変わらず、締まりがねえ奴だなーったく。ヨシヨシ」


 観念したのかアレスはその様子を見て、鞭を振るうのを辞めた。それからアレスは愛馬の首元を優しく撫で始め、ここに来ていたわりの姿勢を見せてきた。

 先ほどまではまるで悪魔が乗り移ったかのように、ビシバシと手元の鞭でブルートゥスをしばきあげていたアレス。しかし散々鞭で傷みつけても、一貫して涼しい顔で過ごしているブルートゥスを見て、彼の中で急に申し訳なさが募ってしまったに違いない。

 そんな訳でアレスはそれまでの酷い仕打ちを急遽止め、一転して飴のように甘く寄り添うことにしたのであった。


「ファーッ」


 するとまもなくしてその方針転換が功を奏したのか。先ほどまでは、その場に立ち止まったまま一向に動こうともしなかったブルートゥスが再び、前を向いて歩き始めたのだった。


「よしよし、やっと始動してくれたか。偉いぞ、ブルートゥス。さっきは散々傷みつけて悪かったな」


 アレスは激励の意味も込めてか、首元を優しく撫でたのだった。


 人によっては手段を選ばず、下につく部下に対して圧力をかけ、無理矢理にでも動かそうとすることがある。

 しかしそれがむしろ逆効果である場合もある。かえって精神的負荷を与えるだけの結果となり、ただただ心身共に摩耗してしまうような。言わば、エネルギー・バンパイアのようなケースだ。

 この老いぼれブルートゥスが普段から、締まりがないといった性格を持ち合わせているのも、アレスの前の飼い主であった人間からひたすらエネルギー・バンパイアされて、結果、魂をどこかに置いてきてしまったかのようなしょぼくれた性格に変えられたのが原因なのかもしれない。

 日頃から度重なる精神的虐待を受け続けた結果が、今の締まりのない性格のブルートゥスを形作ったと言えよう。


「ブルートゥス、あんまし無理はしなくていいからな。休みたい時は、たっぷりと休んでいいからな」


「ファーッ」


 アレスの思いやりある言葉に、ブルートゥスは気の抜けた声でそう答える。


 アレス自身、先を急ぎたい気持ちは山々だったと思われる。だが自身のエゴを押し付けるばかりでなく、鷹揚とした心で愛馬ブルートゥスと接しようとしていた彼であった。


◇◇◇◇


「ご苦労様、ブルートゥス。よく頑張ったな、よしよし」


 太陽は東の方角に空高く昇っていた。

 アレスは老いぼれブルートゥスと共に、アスピリッサ・プペロス地区のあの噴水広場の前に到着していた。


「ファーッ……」


 愛馬ブルートゥスはここまで中々の距離を歩かされたこともあってか、随分と呼吸が荒くなっていた。馬齢40歳のブルートゥスにとっては、まさに過酷な旅路だったに違いない。成人男性の60~70㎏ほどの体重を背負っての移動は、身体に相当な負担がかかっていたはずだ。きっと猛烈に首元が異常に凝っていたり、背中がズキズキ傷んだりしているものと思われる。

 そのように絶賛グロッキー状態となり、心ここにあらずな状態に陥っていたブルートゥス。その彼の様子を見て、アレスは広場に生えている植込みの木にリードを括りつける。


「ブルートゥス。俺、ちょっとこの辺で用事を済ませないといけないから、一旦ここで待機な。

 それまでゆっくり英気を養ってくれ。好物のバナナ、ここに置いておくから。遠慮せず、全部食べていいからな」


 アレスはそう言い、黒ずんだ1房のバナナをブルートゥスに与えた。このバナナは先ほどの朝方、出発前に屋敷の敷地内にある穀物庫から入手したものだった。穀物に関しても、取り立て屋ジョエルに言わばガサ入れされてしまったようで、新鮮な食べ物はほとんど残っていなかった。

 唯一穀物庫内に取り残されていたのが、腐りかけのミカンにリンゴ、黒ずんだバナナぐらいだったのだ。

 しかし今のアレスには、それらの物を容易に捨てられる状況ですらなかった。いくら腐っていようとなかろうと、空腹を満たすためにはそれらの腐りかけを意地でも口にする他なかったのだ。


「ファーッ」


 なけなしの食料を分けてもらえることを嬉しく思ったのか、ブルートゥスの声は若干上ずっていた。アレスはバナナの皮を向き、彼の口元に持っていく。

 外側の皮はどれも、まるで全身黒タイツを履いているかのように、隅々まで真っ黒だった。

 そして案の定、肝心なバナナの中身の方も暗黒に染まりきっており、最早、実が黄色くなっている箇所を探す方が困難なレベルだった。通常であるなら、口にするのも憚られるほどの黒さであった。


「ファーッ。ファーッ」


 漆黒のバナナを目にしたブルートゥスは、一切のためらいもなくそれらを口にした。よっぽどお腹を空かせていて、背に腹は代えられない思いがあったのだろう。黒ずんだ1房のバナナは、ものの数十秒で全て平らげてしまったのだった。


「いい食べっぷりだ。元気が出たようでよかった、よかった。ヨシヨシ」


 アレスは、漆黒のバナナを完食したブルートゥスに労いを込めて、優しく首元を撫でたのだった。


 最後にアレスが食事を摂ったのは、プペロス地区のアーケード付き商店街でケバブを食べていた時だった。つまりもう丸一日、何も口にしていないことになる。本来であるなら、アレスもあの漆黒のバナナを、愛馬ブルートゥスを差し置いて真っ先に口にし、空腹を和らげたかったことだろう。

 それでもなお、自分を差し置いて食料をブルートゥスに分け与えたのは称賛に値する行動と言える。


 ストレスが渦巻く社会では、学校で受けた教えのほとんどが、建前でしか過ぎないことを思い知らされる。道徳なんてものは、あってないようなものであり、世の中は自分本位にしか行動できない人が大半である。いやむしろ、自分本位に行動せざるを得ないと言った方が適切なのかもしれない。

 ましてやアレスは一度、冒険者界隈で頂点にのぼりつめた男であり、一昔前までは毎朝毎晩、塩分濃度濃いめの高価な食事を口にし、贅沢の限りを尽くしていた。その頃と比較すれば、生活水準はダダ下がり、心身的な余裕もなくなっていたはずだ。それでもなお独りよがりにならず、愛馬ブルートゥスに親身に接することができているのは、実に素晴らしいことだと思われる。


「じゃあちょっと行ってくるわ。すぐに戻ってくるからな」


 ブルートゥスがバナナを完食したのを最後まで見届けたところで、アレスはその一言を言い残し、その場を去った。

 アレスからすれば、老いぼれのブルートゥスがバナナで喉を詰まらせやしないか心配だったこともあって、完食するまでの間、ずっと待ち続けていたのだろう。別に骨付きの魚を食べている訳ではないので、そこまでの心配は無用だと思われるが、これもアレスのブルートゥスに対する愛があるが故のことに違いなかった。

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