第四十一話「老いぼれブルートゥス」
馬小屋の窓から、淡いオレンジ色の光が流れ込んでいた。
この辺りの朝は、まだまだうすら寒い。
「ううう、凍え死にそうだ。いくら藁をかき集めても、これかよ」
アレスは唸り声をあげつつ、身体を起こす。昨晩、寒さをしのぐためにアレスは、馬小屋に敷いてあった藁をかき集めるだけかき集め、自身の身体に重ねていた。
しかしありったけの藁を集めたものの、結果的に寒さが幾分か和らいだだけであり、実質ほぼほぼ焼け石に水に近い状態であった。
彼自身、馬小屋で一夜を明かしたのは、久方ぶりのことだ。それは彼がまだ故郷の実家に住んでいた時のこと。やりたくもない農作業の日々に追われ、お金も心のゆとりも全くなかった頃である。
アレスはその当時、領主らが定めていた作物の上納リストのうち、唯一カブだけを収められなかったことがある。その責任を取らされる形で、アレスは実母から馬小屋に監禁されてしまったのだ。
作物の収穫の時期が訪れると、領主の手下の者から彼の父または母宛てに、上納リストが手渡される。そのリストは領主が定めた期限内に、指定のあった作物を収めなければならないといったものだった。期限内かつリストにあった作物とその個数分、収められなかった場合はペナルティーとしてお給金の大幅カットが実施される。アレスの家族からすれば、死の宣告書を突き付けられたようなもので、仮に未達成だった場合は、その日を境に生きた心地がしなくなるという、アレスの家族達にとってまさに呪われたリストなのである。
このように領主から上納リストが手渡されてからの日々は、ますます多忙となる。普段でさえ忙しいのに加えて、さらなる労働を余儀なくされる。広大な畑の管理、見回りに加えて、収穫という作業が加わることにより、作物の収穫時期は特に気を休める一切の時間が許されなくなるのだ。
そうした事情もあり、度重なる重労働に身体が悲鳴をあげていても、全くお構いなしだ。自身の身体の健康よりもまずは、領主から渡された上納リストの通りに、作物を収めることの方が大事なのである。
『あんたの不始末で、大事なお給金4割カットさね! 落とし前つけんかい、このバカチンが!』
アレスがカブの収穫をし忘れた旨の報告をした際、彼の実母は容赦なかった。
『お母ちゃん、止めてくれ。フライパンは人に向けて使っていい物じゃないぞ』
上納リストの未達成の事実に、この時の実母は我を忘れたのか。あろうことかカレーを煮込んだ後の熱々のフライパンを手に、再三に渡って息子であるアレスのお尻を強打しだしたのだ。それは日没後の晩御飯の支度をしていた時であった。
当然のことながら、その時の実母の形相はゴブリンやゴーレムのように大変いかめしかったのは言うまでもない。
……まあ要するに、実の息子にフライパンでケツを叩かなければならないほど、上納リストの未達は、彼の母にとってあまりのもショッキングな出来事だったと言えるのだ。
『許してくれよ、お母ちゃん。ただ俺はカブを収穫し忘れただけじゃないか。離してくれよ、この手を』
最終的にアレスのお尻の表面温度は、真夏の砂浜のようにあっつあつになった。そうしてその場から起き上がれずにいたところで、アレスはズルズルと彼の実母に引きずられるように馬小屋まで連れられ、一晩そこに幽閉されてしまったのである。
まあそんなある意味、驚愕だった過去の話はさておき。
今現在、当のアレスは早朝の馬小屋内に漂う冷気に、身体を震わせていた。普通、このような状況であれば、死んでも目を覚ましたくない心境に陥るものだが、今回は事情が事情だけにそうもいかなかった。
急遽10日後までに、アレスは500万ゼニーをかき集め、取り立て屋のジョエルにきっちり収めなければならない。
本来なら、そのままその場に横たわり、身体を休ませたいことだろう。しかしどういうわけか、不思議と何か見えない力で引っ張られているかのように、彼の身体は自然と起き上がっていた。
これも500万ゼニーを返済するという急遽課せられたノルマの達成が、本人の頭に嫌というほど、ちらついたからに違いない。本人の意思とは別に、頭より身体が先に動いた結果だったと思われる。
「結局残ったのはブルートゥス、お前だけか」
彼が起きて早々、まず向かった先は、今晩寝泊まりした馬小屋に唯一取り残されていた1頭の馬のところだった。柵の囲いの中に佇む、その馬の名はブルートゥス。骨と皮だらけの灰色の毛をした馬で、馬齢は40歳だった。人間で換算すると100歳以上のおじいちゃんにあたる。まあ言い方はあれかもしれないが、まさに老いぼれだ。……つまりそう言っても、過言ではないほどの高齢なのである。
前にアレスはここ最近発足した、馬を使った徒競走レース“ケイバ”に関するビジネスを始めていた。それにあたり、アレスは町の専門業者から馬主となるべく、競技用の馬をまとめ買いしていた過去があった。
普段は人々の足として、魔獣との戦闘の際の機動力として、耕うん代わりとして、こよなく愛されている馬。
だが昨今、馬を使ったスポーツが密かに流行りを見せ始めていたこともあって、アレスは知り合いのアスピリッサの大富豪から、『YOU、馬主になってみない? きっと儲かるYO』と持ち掛けられたことがあったのだ。
Sランク冒険者となってからあからさまにビジネスに興味を持ちだしたたアレスは、一度儲かると聞いてから、すぐさま“ケイバ”ビジネスに参入を決めた。老いぼれブルートゥスとは、アレスがその当時、馬の業者からまとめ買いした中の1頭であった。
「よお、ブルートゥス。元気にしてたか?」
話は戻って、アレスが例の馬ブルートゥスに話しかける。しかし反応はなかった。
「ブルートゥスお前、またお眠か。呑気な奴だな」
アレスの言葉通り、よくよく見てみると、ブルートゥスの首がコクコクと揺れていた。まさにうつろうつろといった具合でその場に立ち尽くしたまま、心地よさそうに瞼を閉じていた。
「ったく、相変わらずだなブルートゥス。……起きろ、起きてくれ。さっさと出発したいんだ。町に行くにはお前の力が必要なんだ」
アレスの気も知らないで、ぐっすりとうたた寝をかましているブルートゥス。そんな彼を起こすべく、アレスは肌に触れ、ゆっくり撫で回す。その撫で方には、一種の願いに近い物が込められていた。
老いぼれブルートゥスのこのマイペースっぷりに、アレスはほとほと困らされている様子だった。
「でもなんだろう。今、俺自身、大変な目に遭ってて、胸のざわつき具合が半端ないんだけど……。
けどお前を見ていると、なぜだか安心感が湧いてくる。不思議な奴だな、ヨシヨシ」
アレスは再度、ブルートゥスの肌を優しく撫でた。10日後までにはきっちり500万ゼニーを集めなければならないアレス。そんな差し迫った状況下で、この愚鈍っぷりを遺憾なく発揮されると、思わず感情をぶつけたくなるものだ。
しかしアレスにとって、この老いぼれブルートゥスはおそらく、憎みたくても憎めない存在となっていると思われる。そのため、感情をぶつけるよりかはむしろ寄り添ってあげたいといった気持ちの方が強かったに違いない。
「おっ、そうこうしてるうちにやっと目が覚めたか。おい返事しろ、ブルートゥス。今から街まで出かけるぞ」
根気強くブルートゥスの肌を撫で続けていたところ。ようやくアレスの願いが届いたのか、ブルートゥスの目が覚めたようだった。
「ファーッ」
寝起き後のブルートゥスは、空気が抜けたような声でそう返事をする。
「やれやれ。俺の気も知らないで、相変わらずだなお前ってやつは。呑気にあくびなんぞ、かましやがってからに」
「ファーッ」
老いぼれブルートゥスとの一連のやり取りがあってから、アレスは柵を開け、早速彼を外に連れ出した。
共に馬小屋を出てから、アレスはブルートゥスの背中に飛び乗った。
「ファッー!?」
その際、一瞬老いぼれブルートゥスの声がひっくり返った。アレスの重みがのしかかったことで、危うくバランスを崩しかけそうになったのだろう。
「おいおい! しっかりしろよブルートゥス……。一瞬、肝を冷やしたぜ」
アレスはあからさまに焦りの表情を見せていた。なんてことない場面だったが、危うく共倒れしそうになったことに、命の危険を感じたものと思われる。しかし何とかギリギリのところで持ち直し、大事に至ることはなかった。
体勢を立て直したところで、アレスはブルートゥスと共に、屋敷の玄関口に向かって敷地内を闊歩し始めた。
その道中、アレスは豚小屋、牛小屋、ヤギ小屋などを横切り、馬上からそれとなくそれらの建物の様子を伺っていた。
「どうやらブルートゥス以外、家畜は全て連れ去られたみたいだな。本当に夜逃げでもしたみたいだ。見事なまでの、もぬけの殻っぷりだ」
アレスが以前まで何十頭をも保有していた家畜は、ことごとく敷地内から姿を消していた。これも十中八九、取り立て屋のジョエル・カロリントンの仕業だろう。
「要するに家畜達も、屋敷に現存している家財道具と一緒で、差し押さえられたってことか。
……このブルートゥスを残して」
おそらく当のジョエルは、商品価値があると踏んだ活きの良い家畜だけを選別して、連れ去って行ったと思われる。まるで老いぼれのブルートゥスは『金にならん』とでも言っているようなモノだった。
確かにいつも眠たそうな顔を浮かべて、のっそりのっそりとしているブルートゥス。その様はまるで庭先のおじいさんが紅茶を啜り、ぬぼーっと佇んでいるようなものだった。
……にしても取り立て屋のジョエルの手口は、悪質極まりなかった。ほぼほぼ窃盗のようなことをやっておいて、そこからさらに保釈金500万ゼニーを返せと、堂々と言えてしまうその精神性は目を疑わざるを得ない。
「今頃、俺の家畜達はオークションにかけられて、別の主人の所でお世話になってるんだろーな。はあ……」
ジョエルの所業は、まるで生まれてからずっと同じ屋根の下で生活していた我が子を、強引に取り上げられたようなものだった。アレスの悲しみは深いを通り越して、最早、呆れに近いような感覚を覚えているに違いなかった。
「しかしブルートゥスが連れ去られなかったことだけは、幸いだったな。ブルートゥスが居ると居ないとで、大違いだ。
……マジでありがとな、ブルートゥス。おかげでアスピリッサの街に向かうことができる」
「ファーッ」
ブルートゥスはまた気の抜けた声で、主人であるアレスに対してそう返事をしたのだった。