4 消したい記憶②
彼女は石原レナと名乗った。幼少期から人付き合いが苦手で、上手く意思疎通が出来なかったことが原因で、勤めていた会社を辞めることになったらしい。克服したくても相談できる相手もおらず、自分自身で何とかするしかない。悩んでいたところ、この店のことをネットで知ったのだという。
人の心がわかるようになれば、期待に応えることができる。意思疎通が苦手なのは、相手が何を考えているかわからないから。それが彼女の出した結論のようだ。
「代価として支払われる記憶は、『竹島ユキノ』さんの記憶でよろしいんですね?」
彼女が強くうなずくのを見て、ミコトさんは引き出しを開けて小さな砂時計のような物を取り出した。
「それでは、貴方の中にある、ユキノさんの記憶を計測します。これを手に握って、ユキノさんの事を思い出してみてください」
砂時計は手のひらに納まるぐらいのサイズだ。彼女は砂時計を受け取って、右手の中に握りしめた。彼女の指の間から淡い光が漏れる。少し時間を置いてから、ミコトさんがうなずいた。
「よろしいでしょう。お貸し頂けますか?」
ミコトさんは彼女から砂時計を受け取ると、天にかざすようにして中を覗き込んだ。
「最低でも三百日分の記憶が必要になりますが、少し量が足りないようです」
「そんなはずはありません。同じ高校で、今の会社に入ってからもずっと一緒だったんです。十年以上になります」
「おそらく、ユキノさんの事を正しく思い出せなかったのでしょう。辛い記憶であるなら、あり得ることです。そうなると、ユキノさんとの記憶を取り出すための鍵を見つける必要があります」
「鍵……ですか?」
彼女は不安げに眉を潜めた。
「ユキノさんともう一度会う機会はありますか?」
「ええ。明日、会社に荷物を取りに行きますから」
「では、一日だけ、試用を兼ねて魔法をお貸ししましょう。その時に、ユキノさんの心の内側にある鍵を見つけてきてください」
そう言って、ミコトさんは小さなケースをテーブルに置いた。中にはシンプルなデザインのイヤリングが入っていた。
「読心の魔法が込められた物です。これをつけて、誰かの目を見つめると、相手の気持ちがわかります。気持ちを知ることは、心に触れるということです。貴方にしか見つけられない鍵が見つかるはずです」
彼女はイヤリングをじっと見つめてしばらく考えていたが、ケースを手に取った。
「よくわかりませんが、それで魔法が手に入るんですね」
「もちろん。記憶と引き換えに、ですが」
彼女はケースをバッグに仕舞うと、頭を下げて足早に出ていった。
「よかったんですか? あのイヤリングを渡してしまって」
彼女の名前こそ聞いたものの、どこに住んでいるのかもわからない。またここに来るかどうか、保証はできないと思った。
「彼女はまた来ます。もし心配なら、モニタリングの仕事をお願いしてもよろしいかしら」
「モニタリング?」
わたしが聞くと、ミコトさんはニコリと微笑んだ。
次の日の午前十一時。わたしはとあるIT関連会社のビルの一室にいた。清掃業者の服装に身を包み、帽子を目深に被って、眼鏡にマスクといういで立ち。モニタリングとは、要するに潜入調査だった。姿はちょっと怪しげではあるが、一応正式な清掃の仕事として請け負っているようだ。
ミコトさんの指示に従ってこのビルの一階事務所を訪れると、挨拶もそこそこに制服と掃除道具一式を渡された。眼鏡とマスクは自前の変装用道具だ。ミコトさんがどうやってここの仕事を取り付けたのかは大いに謎ではあるが、考えてもわかりそうにはない。
わたしがいる部屋は割と広めで、軽く百人程度は働いていると思われた。ミコトさんのメモによると、廊下側から見て、向かって左側の端にレナさんの席があるとのこと。どこから仕入れた情報なのだろう。
わたしはフロアの床を掃除機で吸いながら、目的の席に近づく。すると、レナさんがロッカーから荷物を取り出してダンボールに入れているのを見つけた。耳には魔法のイヤリングをつけている。わたしは顔を見られないように気をつけながら、少し離れた位置で床の汚れを落としていた。
彼女はダンボールを自席に置いて、ひとつため息をついた。向かいに座っている女性の様子をちらちらとうかがっている。おそらく、あれがユキノさんなのだろう。ユキノさんは黙々とキーボードを叩いていたが、視線に気づいて呆れたようにレナさんを見た。
「言いたいことがあるなら言えば」
かなりキツめの口調だった。レナさんは気後れして口を開けない様子だ。
「ここを辞めてどうすんの? アテでもあるの」
レナさんは首を横に振った。
「あんたなんか、雇ってくれるところないんじゃない。大人しくここにいればよかったのに」
レナさんはうつむいて視線を泳がせている。
「あんたが途中で投げ出したから、わたしがその分を被る羽目になったんだよ。まったく、こっちの身にもなってよ。……聞いてるの?」
だんだんとユキノさんの口調が激しくなってくる。周囲の他の社員たちも遠巻きに気にし始めた。
「何とか言ったら。これじゃ人形に話してるみたい」
それを聞いて、レナさんが拳を握った。険しい表情で、真っ直ぐユキノさんの顔を睨む。今にも喧嘩が始まりそうで、わたしはハラハラしていた。ところが、不意にレナさんが驚いた顔をして、後退りをした。彼女はそのまま背後のロッカーにもたれかかるようにして床に座り込んだ。それを見たユキノさんが、慌てたようにレナさんのところに駆け寄る。
「ちょっと、どうしたのよ」
ユキノさんの表情は、明らかに心配そうに見えた。レナさんの方は、膝を抱えて泣き出してしまった。
ユキノさんがレナさんを外へ連れ出したため、わたしも掃除はそこそこに、二人を追って部屋を出た。見失ったかと思ったが、ビルの向かいにある公園のベンチに、二人が並んで座っているのを見つけた。
レナさんはうつむいたまま時々肩を揺らしている。わたしは公園のゴミを拾いながら聞き耳を立てていた。若干の罪悪感を感じるが、これは仕事なのだろうか。自問自答していると、ユキノさんが口を開いた。
「レナ、泣いてたってわからないでしょ。何とか言いなよ」
「……ごめんなさい」
なんとか絞り出すように、レナさんがつぶやいた。
「何で謝るの」
「わたし、ユキノのこと勘違いしてた。わたしのことが嫌いで、きついことばかり言うんだって。だから、ユキノのことを全部忘れてしまおうとしてた」
「当たりが強かったのは間違いないもんね。でも、わたしはレナが……」
「わかってる。心配してくれてたんでしょ。わたしが人とうまく話したりできないから」
「……あんたは、もっと自分をさらけ出すべきなんだよ。なんでもひとりで抱え込み過ぎ。なんか、見てたらもどかしくなって、ついイライラしちゃうんだよね。……嫌な思いさせたよね。ごめん」
「ううん、わたしが悪いんだよ。勝手に勘違いして、勝手に忘れようとしたりして、ごめんなさい」
レナさんが頭を下げると、ユキノさんがクスクス笑いだした。
「わたしたち、もう十年の付き合いだよ。どうやって忘れるのよ。そんな簡単に忘れられたらショックなんだけど」
「……そうだね。忘れられるわけ、ないよね」
ユキノさんも顔を上げて笑った。
「お昼、行くでしょ」
「うん」
イヤリングの力で、レナさんは何を聞いたのだろうか。わたしは、二人が並んで公園を出ていくのを見送った。
午後八時。店を開けてすぐに、鈴の音が鳴った。
「こんばんは」
扉の向こうから、レナさんが現れた。午前中とは別人のように晴れやかな顔だ。彼女はミコトさんの前に座ると、イヤリングのケースをテーブルの上に置いた。
「鍵は見つかりましたか?」
ミコトさんが聞くと、彼女は少し声を弾ませた。
「見つかったと思います」
「では、ユキノ様の記憶でお支払いなさいますか?」
レナさんは少し気まずそうにミコトさんの顔を見た。
「その事なんですが……魔法は必要無くなったので、キャンセルしてもいいでしょうか。イヤリングの代金は払わせてください」
「このイヤリングもあくまで試用品としてお貸ししたものですので、代価は頂きません」
ミコトさんが言うと、レナさんは少し困った顔をした。
「本当にいいんでしょうか。このイヤリングが無かったら、ユキノの事をずっと勘違いしたまま、別れてしまうところでした」
「貴方の人生の手助けが出来たのなら、それで十分です」
ミコトさんはイヤリングのケースを引き出しにしまうと、柔らかい微笑みを浮かべた。
「仕事も辞めなくて済みそうなんです。ユキノが裏で話をしてくれていたみたいで」
「それは何よりです」
最初にレナさんがこの店に来た時、そのまま記憶で支払っていたら、そのことにも気づけなかったことになる。ユキノさんの記憶が足らなかったというのは、もしかしたら。わたしはミコトさんの横顔をうかがった。
「記念にこちらをお持ちください」
ミコトさんは、テーブルの端のビンに入れてあった、不思議な色のキャンディをレナさんに差し出した。
「本当にお世話になりました」
「貴方の今後の人生に幸せが訪れますように」
深く頭を下げて、レナさんは店を出ていった。彼女は読心の魔法などなくても、やっていけるだろう。そんな気がした。
「……アヤさん、モニタリングの結果はいかがでしたか」
ミコトさんから不意に聞かれて、わたしは困った。
「結果と言われても……レナさんがイヤリングで何かに気づいて、ユキノさんと仲直りするまで、わたしは陰で見ていただけです」
「十分です。あなたは優秀な助手になれそうですよ」
ミコトさんは満足そうにわたしを見た。一体何を評価されたのかわからないが、ひとまず認められたようで安心する。
「ところでミコトさん、どうやってレナさんの情報を手に入れたんですか? 職場の席まで完璧に合っていましたけど」
「それは企業秘密ですよ」
そう言って、ミコトさんは人差し指を唇に当てた。どうやら、わたしはまだ助手以上の存在としては認められていないようだ。