3 消したい記憶①
わたしが魔法店の助手になって二週間。今のところ、やるべき仕事は、ほぼ雑用しかない。夜にしか店を開けないので、勤務時間は必然的に深夜帯になる。予想外だったのは、労働に対する賃金が発生することだ。お金を貰ってしまうと、支払うべき対価が目減りしないのか心配したが、特殊な勤務形態に適用するための必要経費ということらしい。そのおかげで、昼間に別のバイトをする必要もなく、わたしは魔法店に勤める従業員として生活をすることになった。
労働環境自体に不満はないのだが、一つだけ気になるのは、今のところ、一人もお客さんが来ていないことだ。
「明日はお客様がいらっしゃいますよ」
わたしの心配を見越してか、ミコトさんが優雅に笑いながら言った。
「予約でも入っているんですか?」
「来るべき時に、お客様はやって来るのです」
わたしの質問ははぐらかされたのだろうか。ミコトさんが言うのだから、間違いないと思えてしまう自分もいて、なんとも言えない気持ちになる。
翌日の午後八時。ミコトさんに紅茶を淹れていると、入り口の鈴が鳴る音がした。
「あの、すみません」
消え入るような小さな声だった。眼鏡をかけた細身の女性が、怯えた表情で入り口に立っていた。
「いらっしゃいませ。こちらにお掛けください」
わたしの時と同じように、ミコトさんが彼女に椅子を勧める。彼女は軽く頭を下げると、椅子に座って背中を丸めた。わたしはハーブティーの用意をして、彼女の前にカップを置いた。
「今日はどのようなご要件ですか」
「ここで魔法が買えるというのは……」
彼女はミコトさんの顔をうかがいながら聞いた。
「取り扱っておりますよ」
ミコトさんがわたしに目配せする。わたしは後の棚から魔法事典を取って、テーブルの上に置いた。ミコトさんが手をかざすのに反応して、ページがめくれていく。わたしは先日、この魔法事典を読破していた。ミコトさんの助手をやるために必要な知識になるので、自分用に一冊貰ったのだ。
「なるほど、読心の魔法をご所望ですね」
読心の魔法とは、人の心を読み取る魔法だ。そんな魔法を欲する彼女の悩みが気になってくる。
「お支払いはどうなさいますか?」
ミコトさんは、立ち入った事は一切聞かずに、カードにペンを走らせた。
ご注文 No・095 読心の魔法
現金でのお支払い 720万円
時間でのお支払い 300日
女性はカードを見て少し驚いたようだ。わたしの治癒の魔法よりさらに高い。この価格設定については何も聞かされていないが、どこに基準があるのだろう。
ミコトさんは、時間で支払う方法と、契約変更のルールを彼女に説明した。この手順は助手のわたしがやるべきかも知れない。わたしは復習の意味も込めて、頭の中で反芻した。
一つ目は寿命。未来の時間を代価とする方法。
二つ目は労働。わたしも選んだ、現在進行形の時間を代価に充てる方法。
三つ目は記憶。過去の時間を代価とする方法。
さて、彼女はどれを選ぶだろうか。当事者でもないのに、ドキドキしてきてしまった。
彼女は契約書をしばらく見つめていたが、顔を上げてミコトさんと視線を合わせた。その表情には決意が満ちているように見える。
「記憶で支払いたいです」
躊躇する様子もなく、彼女は答えた。先程までのおどおどした雰囲気が無くなっている。
「よろしいのですか? 先程も説明した通り、一度失った記憶は二度と戻ることはありませんよ」
ミコトさんの表情から笑みが消えている。
「構いません。わたしの過去の記憶なんかに価値はありませんから」
吐き捨てるように彼女は言った。わたしには怒りの感情が混じった口調に聞こえた。
「記憶の価値とは一つの側面からだけではわからないものです。あなたにとって辛い記憶だったとしても、ある人には重要な意味を持つこともあります」
「そんなこと、あり得ません」
ミコトさんは断言する彼女をしばらく見ていたが、小さくうなずいてわたしに目配せした。
「記憶でお支払いの場合、何点か注意事項がございます」
支払う方法によっては、細かい注意事項があって、専用の説明書が用意されている。わたしは、棚の引き出しから記憶で支払う場合の説明書を取り出して、彼女の前に置いた。
「失った記憶が二度と戻らない点についてです。例えば、あなたが一年前の今日から、三百日分の記憶を失ったとします。基本的には、その次の日の三百一日目からの記憶は残るわけですが、失った記憶に繋がる事項も連動して思い出せなくなります」
この点については、わたしも完全には理解仕切れていない。理屈はわかるが、どのぐらいの影響があるのかが推し量れないのだ。
「失った記憶の期間に新しく出会った人がいた場合、その方の記憶を留めて置くことができなくなります。例え、今日の時点で交友があったとしてもです。結果的に代価以上の記憶を失ってしまいますので、この方法はあまりおすすめ出来ません」
記憶とは時間的に繋がっている。出会った事を忘れると、その人が誰かも、何故一緒にいるのかも忘れる。少しでも失った記憶に関わる事があれば、すべて認知出来なくなるのだ。
「わたしは全部忘れたって構いません」
詳しい説明を聞いても、彼女に記憶で支払うことに迷いは無さそうだった。余程辛い過去を持っているのだろうか。
「もう一つ説明しておくと、記憶での支払いは、特定の事柄に絞る方法がございます。例えば、特定の人物、特定の場所などです。この場合は、関連する記憶を束ねた結果、代価相当の時間に足ることが条件となります」
「それなら、是非記憶から消したい人がいます」
彼女は険しい顔をして、両膝の上の拳を握りしめた。