16 見果てぬ夢①
妹のマナを加えて、従業員は四人になり、店もかなり賑やかになってきた。それに反して、お客様は全く来ない。
実際のところ、どうやって切り盛りしているのかは、わたしも知らない。ミコトさんに聞いてみたいのだが、従業員の規定の中に、内部事情に関して詮索をしないという旨の一文があるのだ。
何か恐ろしい組織なのではないかと勘ぐってしまうが、代価の事もあるので、逆らうわけにもいかない。ミコトさんは優しいし、労働環境にも文句はないのだが。
マナが従業員となってニ週間程経ったある日、その眼鏡の老紳士は、杖を付きながら店に入ってきた。足に不自由があるようで、七三分けの永瀬さんが補助をしている。
「いらっしゃいませ、山野様。お待ちしておりました」
ミコトさんが頭を下げるのを見てうなずくと、彼は一歩ずつゆっくりと歩を進めて、椅子に腰掛けた。
いつもなら魔法辞典を取り出すところだが、今日は既にアポイントがあるようだ。
彼は姿勢を正すと、上着のポケットから何かのチケットを取り出して、テーブルに置いた。
「お手紙に書いたのは、これなんですが」
「はい、承知しております」
ミコトさんはチケットを手に取って、裏面を確認した。
「使用期限が今日までとなっていますね」
「ええ、頂いたのをすっかり忘れておりまして」
「……あの、なんのチケットです?」
わたしが聞くと、ミコトさんは表面を見せてくれた。『優待チケット』と書いてある。
要するに、通常の代価を払う買い取り方式とは異なり、チケットと交換で魔法を体験出来るシステムらしい。
「ご希望はございますか?」
ミコトさんが聞くと、老紳士は窓の方を見た。
「……月に行くことは出来ますか?」
「月?」
わたしとマナは一緒に声を出してしまった。
「月に行きたい、というのがお望みですか?」
ミコトさんの問いに、老紳士ははっきりとうなずいた。
「いかに魔法と言えど、流石に無茶な願いだとは思っているのですよ。しかし、長年の夢なものでね」
しばしの沈黙の後、マナが遠慮がちに手を挙げた。
「ミコトさん、わたしの魔法で月に行けませんか」
「瞬間移動の魔法でしたら、距離の制限はありませんので、行くことは可能ですね」
ミコトさんがニッコリ微笑む。
「お客様、わたしの魔法でお連れ出来るかもしれません」
マナは得意気な顔で言った。
「ほう、そんなことが出来るのですか」
「実際にお見せしましょう。少しだけお立ち頂いても?」
老紳士はマナの手を借りて椅子から立ち上がった。
「お試しで、沖縄あたりに行ってみましょうか」
マナは何故かわたしの手も取って、魔法を発動させた。光る球体に包み込まれたわたしたちは、あっという間に南国の海岸に到着していた。こちらはまだ夕日が沈む間際で、海に伸びる赤い帯が、キラキラと輝いている。
「これは凄い」
老紳士は感心して目を細めた。
「お嬢さんは本当に魔法使いなんですな」
「はい。まあ、瞬間移動しか使えないんですけどね」
魔法店に戻ると、老紳士はヒゲを触りながら考え込んでいた。
「つまり、月まで魔法で瞬間移動する、ということですかな」
「そうなりますね」
「それが可能だとして、月面で活動出来るという保証はしてもらえるんですよね」
「え?」
マナは調子の外れた声を出した。この子は昔から短絡的なところがあり、後先考えずに行動してしまうのだ。
「瞬間移動の魔法は確かに、身を持って体験させていただきました。しかし、月面に着いた途端に死んでしまっては、困るわけです」
「まあ、それは……そうです……よね」
途端にマナの勢いが萎んでいく。
「月にはほぼ大気がないのです。限りなく真空に近いと言っていい。そんなところに生身で移動するのですか? 宇宙服を着るか、それと同等の効果を持つ魔法を使う必要があると思いますが、そういう魔法はありますか?」
「宇宙服の魔法……は辞典にはなかったような」
「少なくとも、気圧と気温のコントロール、酸素の供給、宇宙線からの防護ぐらいは出来なければ、どうにもなりませんね」
マナがすっかりしょげ返っている。ちょっとかわいそうに思えてきた。仕方がないので助け舟を出す。
「要するに、今いるこの場所と同じ環境が保たれれば良いわけですね」
「そのとおりです」
「ハルカちゃん、確かそういう魔法があったよね」
「うん、『安全地帯の魔法』だよね」
ハルカちゃんは得意気に腰に手を当てた。