ACT96 2度目の憑依【菅 公隆】
ため息が出た。心からの賛嘆のため息さ。鳥達が燃え盛る陽炎に呑みこまれる景観が美しすぎてね。今日に限って夕陽がこんなにも赤い。その赤を眼に映した群衆の眼がすべてわたしを向いている。
ブルルルル!!
突然響き渡った馬の嘶き。え? って思ったよ。その音に、じゃない。群衆がその音に何の反応も示さなかったことにね。
翳る寒空。心地よい寒風。カサカサ鳴る枯れ葉。遥か遠くで走行する電車や車のクラクション。永田町と霞が関の外側は、普段通りの生活を営んでいる。だけどここだけはひっそりと暗く沈んでる。いつもならとっくに灯される筈の街灯や、オフィスのライトも付かないから、東京じゃああり得ないほど星が良く見える。
広場にもね。見てよ、群衆の瞳が無数に煌めいて、夜空をそのまま映したようで、ほんと、息を飲む美しさだ。
でもさ、ダメだよ。舗装を踏み鳴らす蹄の音がしているのに、木の上の狙撃手がギシリと梢を鳴らしたのに、何故君たちはわたしだけを見てるんだ。わたしがたったいま訴えたことは、わたしの本心なんだよ? 人とヴァンパイアの平和的共存がわたしの悲願だ。同胞が法的に保障される未来を夢見て来た。
だからこそ君たちは心からこの意見に賛同しなければならない。賛同した上で柏木が例の結果を持ち帰る。新案の審議が叶い、決議され、堂々国民の総意となる。政治家にとって、これほど満足のいく結果なんてない。それなのにさ、なんだよこれ? わたしが、ヴァンパイア特有の「魅了」の力で落としたみたいになってるじゃないか。
君も君だよ柏木。さっき一人だけ目を合わせなかった記者は君だろ? 何だよ。朝香が君に頼んだ件はどうしたんだよ。データは? 写真は? わたしの意図はとっくに解ってるはずなのにさ。
いつもそうだ。君はいつだってわたしの命令を真っすぐには実行しないんだ。「Yes Master」は聞き飽きたよ。そんな取り澄ました顔してさ? いつも別の意図が隠れてる。わかるよ。君は「人間」を捨てられない。でもわたしの命には逆らえない。人を殺すたびに、君自身が血を流す。傷つけるその度に傷つくのは君自身。
楽しいけどね? ほんと、ゾクゾクするけどね! でもさ、そろそろ諦めない? 化け物は消せばいいなんて、浅はかだよ。簡単で、単純すぎる選択じゃないか。聞いたね? 朝香の言う「ヴァンパイアは人間」説。いいじゃないか!
ついてきなよ。従いなよ。わたしも君も人間。ちょっと変わってるだけの人間なんだ、化け物じゃない。
一緒に行こう。この「苦難の道」を共に永遠に生きるんだ。
『ボス、やっぱやっちまおう。いいな?』
『やる? 何をだ』
『何って決まっんだろ。伯爵を始末すんだよ』
……バカだな。ぜんぶ聞こえてるよ如月。わたしはヴァンパイアの伯爵だよ? 少なくとも君と沢口との会話だけは筒抜けなんだ。さっきから殺せ殺せって随分じゃないか。
君を殺すのは本当に惜しい。出来れば駒にしたかった。柏木を越えられるのはたぶん君だけだ。だからぎりぎりまで生かしておいた。でもやめだ。いまその気になられたら流石のわたしもただじゃ済まない。
仕方ないよね柏木。君の育てた可愛い弟子は始末させてもらうよ?
眼に力を籠める。暗かった視界が黄金に染まる。ここ一帯の……いや、外からもコウモリが集まり出す。明治神宮、新宿御苑、各施設の軒下に巣くっていた愛すべき同胞たち。こんなに居たんだ。星空も隠れてしまった。
さらに力を籠める。この身すべての意識をこの眼の奥に。そんな時だ。微かだけど、妙な波動を感じたのは。
肩を支えてくれた者がいる。手枷を嵌められたままの両腕が、小刻みに震えているのに気づいたんだろう。
これは……なんだ? 持続的にゆっくりと範囲を広げる……地震のような動きだ。震度にして0。人間には感知できない波動。震源は限りなく浅い。だが地震では……ない。もっと……人工的な――
「全隊員、一時避難だ! 近くの非戦闘員を伴って速やかにこの場を撤退しやがれえええ!!!!」
如月の怒鳴る声。何故だ? 何故この今に撤退? なんだ? 大規模な破壊兵器が誤作動でもしたのか? 大量のTNTか、それとも「核」か? まさか! そんな兵器を用意する時間も、度胸もないはず!
広場を蠢く群衆。もはや戦闘員でも何でもない烏合の衆。奴らへの声掛けに躍起になっている如月。髪を振り乱し駆け回る月毛の馬が暗がりに映えている。
――ガガガガガガ!!!!
そんな折の銃撃音。朝香や総理が隠れているあたりからだ。まさか地下を潜り駆け付けた者でも居たのか? かつ人に危害でも加えたのか? だとしたら台無しだ。サイレンサー無しの派手な炸裂音は、流石に人間の耳にも届く。如月の指示などそっちのけで、音の方角、すなわち参議院側昇降口の奥へと報道が流れていく。
「おおおおい!!! 中に入んな!! どけ!!」
咎める如月の声は興奮した彼らに届かない。わたしは流れに身を任せつつも如月を見た。彼の眼だけが屈服していない。この場で唯一、自我を保つ健全なる眼。そんな眼を持つ主人を背に乗せ、こちらを見た二つの眼。まるで大粒のルビーの瞳。その視線を即座に捕え、迎い入れた。
イメージする。
ゆっくりと切り離すもうひとつの自分。
魂の根源、ヴァンパイアの力の結晶。
手首の枷がやんわりと抵抗するが……この伯爵の力には及ばない。
ふわりと地を離れ、その眼に飛び込む。
赤い虹彩を突き破り、網膜を抜け、視神経を伝い、感覚を、運動を司る中枢へと。
地に4本の足をつく自分を認識する。
熱い。胸の奥が、腹の底が、腕が、足が、指先から体毛一本一本に至るまでが煮え滾っている。夜空に向かい吠えてみる。両の蹄を持ち上げてみる。尻を軽く跳ね上げてみる。首にしがみついていた騎乗者が軽々と宙を舞う。思った以上の膂力。しなる筋肉。力強く打ち鳴らされる鼓動が、血潮を巡らせる。なんという躍動感、これが馬という生き物か。
「姫! 悪ぃ!」
見下ろせば、如月が銃をこちらに向けている。青みがかった塗装の銃口がぬらりと光る。撃鉄はすでに起こされた。
トリガーにかかる指。その光景、その瞬間に意識のすべてを預ける。狙いは胸の正中。厚く頑丈な胸骨という骨に守られた部分。ヴァンパイアと化した馬の骨は強靭だ。いかにマグナム弾といえど、その鎧を貫けるのか?
試してみるも一興、と思うがしかし、そんな酔狂ごとは以ての外であったらしい。射出音がしたその時には、すでに守りの布陣が敷かれていた。空に蝟集していたコウモリだ。幾百重にも重なった彼らが盾となっていたのだ。
幾百もの悲鳴。飛散する無数の欠片。空しく落下する二つの弾頭。死にゆく同胞には目もくれず如月へと攻撃を開始するコウモリたち。黄金の視界が緋色へと変化する。わたしの中の獣が鎌首をもたげる瞬間。いつもそうだ。同胞の死を眼にしたわたしは抑制が難しい。
遠慮なく見舞ってやったさ! 何度も、何度もだ! むろん、致命傷にならないよう加減してね!
なんだよ、張り合いがない。ほらほら、抵抗しないと死ぬよ? どうしたのさ?
まさか……愛馬に銃は向けられないとか……そういう事? いまさら?
――ふざけんなよ!! タマ撃ちしか能のないゴロツキが!!!
正面から踏みつけてやる。バキリと折れる感触、ぐちゃりと潰れる音。小気味のいい叫び声。ぞわりと背を抜ける恍惚。苦痛にゆがむ顔ほど胸がすくものはないね! あはははは!! いい恰好だ!! そうだよ! 悶えなよ! 泣いて頼むんだ! 命乞いするのさ! おい、どこ見てる? なにをブツブツ言ってる? 何か言い残す? いいよ、聞いてやるよ。命以外ならね。最後に一発、撃たせてやってもいいけど? お気に入りの骨董品も見納めだね!
興の乗りきったそんな時だった。ポカンと口を開けて観覧していた客席から何がが飛んできたんだ。それが如月の頭をコツンと弾いた。ぼんやり宙を見ていた如月が、ハッと我に返った顔してさ、こっちも一気に興が冷めてしまったのさ。石のつぶてを投げたのは他でもない、柏木だ。……仕方ないか。如月は明らかに本気出して無かったからね。眼を覚ましてやりたかったんだろね。
うん。確かにわたしは言ってない。如月を助けるなとは。だからって逆らった事にはならない? 冗談じゃない。そんな理屈、通るかって!! いつも、いつも肝心な時に君って奴は! 憎たらしいったらありゃしない。今度の今度はただの仕置きで済むと思うな。
如月。とりあえずのお預けさ。わたしはあっちに戻る。のっぴきならない事態になってるようだしね。答えてやるといい。このお馬さん、月姫って言ったっけ。この子はほんと、君の事が好きで、好きで好きでたまらなくて、でも元には戻れないって知っていて――だから――
お望み通り引導を渡してやるといいよ。簡単だろ? 君は柏木お墨付きのハンターなんだから。