ACT91 待ち受ける敵【麻生 結弦】
天井の照明にうっすらと照らし出された地下通路。清潔ですべすべした壁材がぬらりとその肌を濡らしてる。当然窓は無いし、駅みたいな宣伝目的のポスターなんかも無い。ほんとに飾りも何もないんだよ。機能重視の日本人らしい内装です。
湿った空気と地下特有の据えた匂い。上にはあのビル群が林立してる……なんて想像すると、急に息苦しくなりますね。
各連絡口に魁人の配置した人間が立っている。ハンターにSAT、自衛官。ん……あのいかにも場慣れてないスーツの人。臙脂色のバッチ。衆議院議員、ですよね?
「失礼ですが、貴方のような方がどうしてここに?」
見た目は40代、代議士としてはまだ若い。手にはもちろん何処にも武器を携帯していない。(一応僕もプロですから、ボディチェックなんかしなくても服の膨らみや不自然な皺で解ります)
そわそわと手を前にやったり後ろにやったりしていた議員が僕の問いに顔を上げた。
「あなたは?」
「僕はここの指揮を任されたハンター、麻生と言います」
「私は衆議の宮野です。勉強するなら若いうち。そう思いお邪魔しています」
「ここが危険な場所だって事、ご存知です? さっきの乱闘も見たでしょう」
「え、えぇ! いい経験でした。あんな物を間近で見たのは初めてです!」
興奮気味に手を動かし、目を輝かせる宮野。その気持ちは解らなくも無い。いいでしょう。折角ですから少し話を聞きましょう。
「宮野先生。貴方ならこの地下道一帯の地理をご存知ですね?」
「それはもう! 当選し会館(衆議院議員会館)に来たその日に探索しましたから! 驚きました、一度降りれば各会館に官邸、議事堂前駅と永田町駅に行き来可能、わざわざ地上を通らずとも用が足りるんですよ!」
……声の大きい人だなあ。しかも聞いてない事まで。
「そうですか、ではここに核シェルターがあるとか、実は他の地下街と通じてる、なんて噂については?」
「……そ、それは……」
あれ? 急に歯切れが悪くなった。やっぱり肝心な事は教えないんだ?
「さっきのヴァンパイアが一体何処から侵入したのか突き止めねばなりません。ご協力願えませんか?」
「そ! そう言われても! 私などに心当たりは──」
宮野が押し黙りました。僕のベレッタが自分に向けられてるのに気付いたからですね。
「な! 何の真似ですか!?」
「疑わしきは撃つのが僕たちの方針ですから」
「わ私は人間だ! 疑いなど失礼千万……」
またまた口をつぐむ宮野。銃口を直に押しつけられたら、そりゃ黙りますか。
「何かを隠しているのは解ります。時間がありません。10秒以内に返答を頂けない場合は吸対法が定めるハンターの権限を行使します」
「権限?」
「えぇ、当然ご存じですよね? 吸対法第4条第2項、ハンターはヴァンパイアのみならず、それを保護し隠匿する意思を持つもの、及びその疑いを生じさせる者を速やかに排除する権限を──」
「わわ解った! 答えよう! 答えるからこれを下ろしてくれ! まともに息も出来ない!」
またまた。先生がたは大袈裟です。わざわざ物騒な場に足を運ぶようなお人がそこまで動揺しないでしょう。
「私が言ったなどと言わないで下さい。確かにここには大規模なシェルターが存在します」
「戦時中に手掛けられた中央防空壕は完成していた、と言うことですね?」
宮野が頷く。官邸地下の防空壕とは別に、施工中止と目されていた全長400mにも及ぶ大シェルターが実在していたとは驚きです。当然公表はしないでしょう。国民に知られたら大事ですからね。自分達だけ助かるハラだと騒ぎ立てる輩、必ず居るでしょうから。
「ではそこと繋がる地点、位置をすべて教えて下さい」
「それは知らない! 本当です!」
僕はわざと大きな音をさせスライドを引いた。再度それを彼に向ける。
「この地下道の何処かが大手町まで続いてるという噂もありますが?」
「いや……私は……本当に……!」
引き金を引いた。ただしその頭上すれすれに。地下空間一帯に響く音の反響。低めのピッチに落ちていくFフラット。
ぎゃ! っと叫び、尻餅をつく先生。失禁は免れたようですが、唇を震わせ首を小刻みに振りながら、「知らない、俺マジで知らない」なんて繰り返してる。それがこの人の地なんだね。
僕は銃口を下ろした。ここまでされて吐かないなら、本当に知らないんだろう。
「仮にヴァンパイア達がそのシェルターに潜んでいたら──」
「いたら……如何いたしますかな?」
背後で声がしました。一帯が闇となったのはその瞬間です。
瞬時に抜き、瞬時に撃った。身を返し、宮野が背にしていた壁に咄嗟に張り付いてね。
でも……ありえない。引き金は引いた。火薬の炸裂音もした。しかし、その後に続く音が無かったんだ。着弾音も、弾が空を裂く音も。勿論着弾の手応えも。
再度撃とうとした僕は凍りついた。トリガーにかかる人差し指が……動かない!
塗りつぶされた闇の中、男の姿は見えません。でも確かにそこに立っています。さっきからヒィヒィ喚く宮川の声が、いい具合にソナーとなって、その存在を知らせてくれているんです。
冷たい夜の気配。
ポツリと灯る非常灯。
緑の薄明りに浮かび上がる人影。
やはり彼です。桜子の屋敷で伏せていたあの時に聞いた声。リサイタルの夜、魁人やクロイツ達の撃ち込みを指一本動かさずに防ぎきったもう一人の伯爵。
いつもの匂いがしない。ヴァンパイアと対峙した時にする、あのヒリつくような殺気の匂いが。こんな時に支援してくれる筈のコマンドは動かない。いや、僕と同じく動けないのか。かろうじて息だけは吸えるけど、左の指も、背の壁に添えていた右腕も固まったままの僕と。
気を操り、対象をその場に固定する。それが彼の能力だと魁人が言っていましたね。
「如月とやらも見通しが甘い。この場に居合わせる敵の戦力を見くびりすぎでしたな」
歳を感じさせない膨よかな声音。器の大きい、どこか人を安心させる話しぶり。
「ですがよろしゅう御座いました。貴方と腹を割って語り合う機会に巡り合えました故」
「……え?」
意外な言葉に思わず反応し、固まっていた空気が緩んだことに気づいた。
足元にコツンと当たる硬い弾。たった今僕が撃った筈の弾頭。それが今更ながら、重力速度に従い落下した。
「先日は思わず聴き入りましたぞ? 聞き手と一体となる魂の……生命の息吹を感じ申した」
彼はおそらく僕のピアノの事を言っている。黒い瞳は友好的ともとれる柔らかな笑みを湛えている。殺気はない。
声に覚えはあっても恰好を見るのは初めてだ。この際ですから聞いておこうか。
「かつての西の伯爵。田中与四郎とは貴方のことですね?」
銃を向けたままの僕を彼はただ黙って眺め、そして頷いた。銃など脅威でもなんでもない、そんな顔して。
「僕は――」
「無論存じております。娘可愛さに駆け付けたあの会場にて、思いがけず我を忘れ聴き惚れた相手故、それはもう」
「聴き惚れたですって?」
「左様。大胆かつ細やかなる美しき澄み渡る旋律。ピアノフォルテが音を惜しみなく、際限なく引き出し咲かせる麻生殿の技量」
まるでたった今その音を聴いているかのように耳を傾け、美辞麗句を並べて連ねる田中氏。ピアノフォルテなんて、ピアノの正式名を良くご存じで。
「これぞ魂の清めでありましょう。まこと、生き血に勝る甘露。更にその歌声たるや──」
「やめて下さい。そこまで言われるのは光栄ですが、僕と貴方は敵同士。こんな会話に意味などありません」
言い終わるやいなや発砲しました。彼の眉間に向けて。同時に一斉の射撃音が空間内を揺るがす。拘束の解けた戦闘員の仕業です。
ですが呆気なく倒れたのは彼等自身。急所は外れているが2度と立てない。そんな場所を撃ち抜かれている。隣に座り込む宮野が声にならない悲鳴を上げる。その股間からは白い湯煙が立ちのぼっている。
僕は意識を田中氏に戻しました。とたん、冷水でも浴びせられた気分になったんです。
黒い瞳はそのまま。その眉間から真っ黒な血が滴っている。その血が鼻脇を下り、口元の皺に沿って流れ落ちる。
そうです。彼は|僕の撃った弾丸だけ防がなかった《・・・・・・・・・・・・・・・》。
再度向けた銃口が火を吹いた。狙いは胸。心臓の位置を避けた鎖骨付近。やはり避けない。黙って弾丸を受け、微笑を顔に灯したまま。
「何故……!?」
叫んでいた。ひと月前の光景が蘇る。次々に引き裂かれ、絶命していく親族達。反撃空しく首を毟られた父と母。
更に4発。
腹と肩、上腕と大腿に弾を受け、流石によろめいた田中氏が低く唸った。草履履きの足を開き、血だまりの床を力強く踏みしめる。額に受けた傷はすでに治癒している。胸の傷も癒えたのか、出血は止まっている。黒く染まっていた羽織が……まるで霧が晴れるようにその色を取り戻していく。
背筋が凍った。急所を狙う事が出来ないんです。心臓につけた狙いが勝手に逸れる。それは田中氏がさっき僕にしたような技を使ったから、じゃない。僕自身の意思なんです。
「間違ってなどおりません。自身の『芸』を理解し、称賛する相手を殺せるものでは無い」
「僕はヴァンパイアハンターだ。化け物退治が僕の使命なんです」
「ハンターである前に、貴方は『芸を嗜む者』。解ります。同じ道を歩む者として、貴方のお気持ちは良く」
「……同じ? 田中さん、貴方は一体何者なんです?」
一歩、一歩と歩を進める田中氏。壁を背にする僕は詰まっていく間合いをただただ見守るだけ。
見るからに質のいい羽織。肩に散りばめられた桜の綻びは被弾した痕だろう。
僕は右手を銃に添えた。残る弾は1発。諸手で銃を握る僕に構わず歩み寄る田中氏。その胸の真ん中――心臓の真上に銃口が押し当てられる。絹独特の滑らかな肌触り。トリガーにかかる指は迷ったまま。
「……急く事もない。私の話をお聞きになられた後でもよろしかろう」
こんな時、魁人なら躊躇なく引き金を引いただろう。でも僕は田中さんの「同じ芸を嗜む者」という言葉がどうにもこうにも引っかかって、それがハンターとしての決意を挫いたんだ。