ACT77 わたしと同じなのか【菅 公隆】
「じっとして! 脈と体温確認するだけだから!」
思わぬ大声に反応した背筋が一瞬伸びたよ。仕事以外で頭ごなしに叱りつけられる事なんて無かったからね。
キツく眉を吊り上げて、「患者は云う事を訊くのが当然」って顔した彼女の顔が近づいてきてさ。何する気かと思ったら、額をわたしの額にくっつけた。
熱があるってさ。脈も速い、ちょっと楽にしてくれって。彼女の額からじんわりと流れ込む何かがあんまり気持ち良かったから、眼を閉じてそれを堪能してたら……少し、ほんの少しずつだけど、胸の痛みが和らいでいくのさ。胸の痛みも、猛烈な吐き気も。
有り難いね。田中さんあたりから受け継いだ気のパワーとか?
ただ身体自体はぜんぜんだ。ひどくだるいし、手足も鉛で出来てるみたいにずっしりだ。ひどく寒い。真っ暗な闇の中で椅子に身を預ける自分。そんな中で額の部分だけが温かいのさ。
確かに彼女はそこに居る。サラッとした髪が頬や首のあたりに触れてるのは何となく解る。だから彼女の顔を見たくて眼を開けようとしたんだ。でもダメだ。閉じてしまった瞼がどうやっても持ち上がらない。
先生はそんなわたしに容赦がないのさ。口を聞くどころか耳を貸す事すら億劫なのに、発作の原因は柏木のせいだねなんて確認してくるんだ。なんとか口を動かして答えたけど限界さ。これ以上はぜったい無理だね。
「いい? 触るわよ?」
黙って頷くしか無いじゃないか。男のネクタイを勝手に解くなんて、医者って凄い職業さ。ボタンまで? 3つも?
いいけどさ。承諾したのは確かだし。こんな風に首から下を順繰りにじっくり触られるのも……まあ耐えられる。
そりゃ恥ずかしいよ。人に見られるの自体初めてだし、病院なんか、精神科以外かかったこと無いし。
ただ一言、断わって欲しかったよ。痛いかもとか、熱いかもとか。衝撃だったよ。ちょうど心臓の真上に来た時の彼女の手。
焼けたアイロンでも押し付けられたかと思ったよ!
柏木の手に貫かれた時だってこれほどじゃなかったね!
叫んだつもりが実際出たのは蚊の鳴くような呻き声。彼女は手をどかさない。わたしはただ跳ね上がる上半身を必死で抑えつけて耐えた。動くななんて、口で言うのはほんと簡単だよ。灼熱の地獄から解放されたのは、随分と後さ。でも凄いよ、気づけば格段に楽になってたんだ。
「左心の一点に重みがあるわ。銃弾の位置はそこね?」
「……へぇ……わかるん……だ……」
声も一応出たよ。まだ覚束ないけどね。開かないと思ってた瞼もね。
そしたら女神みたいなオーラを背負って腰かける先生がそこに居てさ。いやいや、ほんとに神様に見えたよ。だってさ、居る? 触っただけで身体の何処に何があるとか、正確な位置の把握出来るとか、触っただけで痛みを取るとか。
見える筈のないそれが見える医師。人間のレベルを超えた医者。
彼女はわたしと同じなのか。わたしと同じ真祖なのか。田中さんはそれを知ってて?
「発作を抑える方法を教えて? あるんでしょ?」
ふたたび問いを投げかける彼女。確信を含む言い方だ。
実を言えばもうほとんど治まってたけど、言われる通りに教えたよ。一緒にシューベルトを聴いてもいいかなって思ったんだ。あれはわたしに取って思い出以上の曲だしね。この先伴侶にするかも知れない女性と共有してもいいかなって。
で早速聴き始めたら……先生、スースーなんて子供みたいな寝息立て始めてさ。……酷くない? せめて触りまで聞いて欲しかったよ。
これ以上ないくらい安らかな寝顔。柔らかなレース越しの陽光がその髪を煌めかせてる。ため息が出たよ。このわたしですら黙ってられない寝顔でさ。
そっと手を伸ばして頬にかかる長い前髪に触れてみる。細く、柔らかでしなやかな髪だ。ずっと触っていたいけど……でも引っ込めた。不自然に静まり返った部屋の外で、何かがピーンと張り詰める気配がするんだ。さっきよりもっと大勢の人間がこの議事堂を取り囲んでるのが解る。死はもう目の前だ。わたしは無論、おそらくはこの人も。
どうしようか。こうして時を待つのもいいかもだけど、折角だから起こしておこうか。
「せんせい! いつまで寝てるのさ?」
そしたら先生ガバっと起きて、その慌てようったらないのさ。
わたしは笑いを堪えながらそんな様子を眺めてたけど。ふと先生の異変に気付いた。上気した頬。早鐘の鼓動。……もしかして?
「どうしたのさ。顔が赤いよ?」
わたしは努めて軽く、明るく声をかけた。先生が両手の平で頬をはさんでおろおろしてる。そんな先生の眼の奥にそれが見えた気がして顔を近づける。額を彼女のそれにピタリと当てて、奥の奥を覗き込む。まるで深い海のような彼女の眼。その奥の……ほの昏い奥の底から……ムクリと起き上がる無数の眼。ざわめく闇。確かに見えた。覚醒が近いのか。
とりあえず冷やすもの……なんて周りを見回せば、テーブルに用意されたおしぼりが眼に入る。気休めかもしれないが、落ち着かせる効果はあるかも知れない。
そう思って額の上に乗せてやったら、泣くんだよ。なんで? って聞いても止まらないのさ。
しばらくそれを見守ってたら、すんと一度鼻を鳴らした彼女がさ。あの沢口に知らせなくていいのか、なんてまともな事を言い出した。いまこの時にあいつの名前なんか聞きたくなかったね!
もちろん言ってやったよ。先生の手首を掴まえながら、「奴の言う事を真に受ける必要なんかない」ってね。奴は君を「晩餐」のつもりでここに呼んだんだってね。だってね。そしたら先生。意外な顔して「え!」って叫んでさ。
顔を赤くしたまま黙ってこっちを見上げてる先生。
潤んだ眼。何かを求めている唇。
もしそれに触れたら……彼女はどんな反応をするだろう?
「どうしたのさ。その辺の覚悟はして来たんだろ?」
吐息だけで囁くように。唇を彼女の耳元から徐々に移動しながら。触れ合うか触れ合わないかの距離を保ったまま。そうして触れた唇は想像以上に柔らかだ。
「ん……」
返ってくる吐息が熱い。彼女はわたしを拒まなかった。