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ヴァンパイアを殲滅せよ  作者: 金糸雀
第2章 伯爵編
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ACT72 ただ1人の想い人【柏木 宗一郎】

 マニュアル本の見慣れぬ記号、薬物名の羅列を解読しつつ、仕事に励む麗子に目を向ける。ここに残り、私の補佐を申し出た彼女はこのような自然科学系の仕事も出来るようだ。ここは密かに佐井浅香の後を追い、伯爵様の元へと馳せねばならぬ所だが。


「局長。浅香のことが気になります?」


 手を止め黒目勝ちの瞳でこちらを見上げる麗子。16年前の、まだ彼女が学生であった頃と同じ眼だ。


「佐井先生だけじゃない、麻生と魁人のことが心配だ。そして伯爵様の事も」

「伯爵……さま?」


 ゆっくりと控えめにヒールを運び、そっとこの袖を掴んだ彼女がこちらを見上げる。


「人間だった貴方を、貴方のすべてを奪ったそいつが……心配だって言うの?」


 腕を掴む、その指に力が籠もる。

 私は唇を噛んだまま目を逸らす。

 彼女がそっと手を離す。

 ゆるりとカーブを描く前髪がサラリと横に流れる。


「なぜ朝香を行かせたの? 貴方の言ってた『想い人』って、朝香の事じゃないの?」


 室内は静まり返ったまま。再び吹き込んだ秋風が彼女の長い後ろ髪を靡かせる。


 防衛省に勤務していた彼女がハンター協会に出向し、この私の秘書となったのは先月のことだ。つまり私が麻生結弦の屋敷から逃亡し、協会へと復帰した直後。沢口防衛副大臣の推薦だと寄越された彼女は、仕事上実に有能だった。無茶とも言える上からの指示をこなしつつ、ハンター育成業務に奔走していた私を実によくサポートしてくれた。

 そんな彼女がある日、この私に対する想いを打ち明けた。16年前、大学のサークルで顔を合わせたあの時から一時も忘れる事は無かったと。

 衝撃だった。ヴァンパイアとなってから……いや、それ以前から人としての自分を捨てていた。悲願達成のためには恋愛は無論、非合理な感情も生活も不要だと。

 そんな私の心を揺るがした彼女の告白。無論、応じられる身ではない。伯爵からは彼女への情報を最小限に留めるよう警告されていた。沢口が諜報の目的で彼女を送った可能性が高いと言うのだ。

 迷った挙句、しかしそれ相応の覚悟で出向いた逢瀬の場。そこはじき解体を待つばかりの古い道場だった。


「良かった。来てくれないかと思ってた」


 なんと彼女は、白の道着に黒の袴。合気道の装いにて待っていたのだ。


 床面中央に敷かれた古畳の中央ややこちら寄りに彼女は座していた。陽が落ちたばかりのうす暗がりの中、時折差し込むヘッドライトの光が彼女の背を照らし出す。

 背筋を伸ばし両手の拳を膝に乗せるその姿勢のまま、ずっとここで私を?

 そう言えばあの頃も。サークル帰りに決まって立ち寄るこの場にて、一番先にここで待ち、そして最後まで居残っていたのが彼女だった。


 神前に向かって一礼し、素足となった足を畳に乗せる。敷き詰め固めた藁を踏む弾力。あちらこちらがほつれ、擦り切れた畳はまだ温かい。


「遅くなってすまない」


 私の声に振り向いた彼女が、はにかむ笑顔を浮かべ首を振る。何も言わずゆっくりと立ち上がる彼女。何故彼女はこの場を指定したのか。その井出達、かつての記憶を共有する為か?

 一間(2m弱)ほどの間合いを取り、向かい合った我々は少し長めの礼を交わした。16年前のあの時ならば即座に半身の構えを取るところだ。ところが彼女は一向に構えを取らず、ただ腕を横に下げたまま強い視線を送るのみ。


「私が勝ったら付き合ってくれる?」

「え?」


 思わず訊き返した。どちらかが仕掛け、それを返す。その型は様々だが、そのすべてが決まった型、「演武」と呼ばれるもの。通常、合気道では実践的な試合は行わない。つまり「勝ち負け」という概念自体がないのだが。


 彼女は戸惑う私になんら構わず、一歩前に出た。腹下に溜めた右拳をまっすぐに突き出す正拳突き。合気道ではない、空手のそれだ。私はそれをかわさず左掌で受け掴み取った。だが彼女は動きを止めず、むしろそのまま前に出た。左で私の襟を取りつつ。


 しばし状況の整理に時間を要した。無様に尻もちを突いた私の上に跨った彼女が得意げに笑う。なるほど、彼女は私の脚を払ったのだ。いや、「払い」ではなく「刈り」。柔道で言う大内刈りだ。袴をつけた足はその動きが察知し辛い、と一応は云い訳しておく。


「驚いた。君がまさか、そんな手でくるとは」


 クスリと笑った麗子が自分の額を私の額に押し付ける。


「私もよ。意表を突ければ……格上に勝つことも出来るって」


 今にも触れ合いそうな彼女の唇と、その吐息の甘い香り。それはヴァンパイアであるこの身にとってはあまりにも煽動的な知覚情報だった。私は彼女の両肩を抱きしめようと伸ばした手を死ぬ思いで堪えねばならなかった。


「あの夜の事は忘れないわ。貴方は何度も何度も、「頼むから離れてくれ」と。心に決めた人が居るから、それを裏切りたくはないって」


 彼女の声が私を現実に引き戻した。機器が低く振動する音。じっとこちらを見上げる麗子。濡れて光る彼女の眼にこの自分の姿が映りこんでいる。


「今となっては悔やまれる。あの場に行くべきでは無かった」

「私はただ、一度抱いてもらえればそれで良かった。貴方がヴァンパイアかどうかなんて疑いもしなかった」


 眼を背けた視界に、再び彼女が飛び込んできた。感極まったのか。この腕を掻い潜り抱きついてきた彼女を、私はただ抱き返した。


「今なら違うわ。そのブレスレットをつけてる限り、血の欲求は抑えられる。あの時は悔しかったけど、でも嬉しかったわ。貴方は懸命に私の気を逸らそうと……自身の身の上を話してくれた」

「……そうだったかな」

「そうよ。美しい故郷のこと。荒波に囲まれた孤島。その丘の上の教会で起こった……あの事件の事も」


 彼女の言葉が更なる過去の記憶を呼び覚ます。

 寒空に凛と輝く明けの星。

 朝焼けに染まる礼拝堂。

 カサリと音を立てる紅葉の葉。

 開け放たれた両開きの扉。

 色濃く漂う……血の匂い。


「貴方はその島での唯一1人の生存者。だから――」


 彼女の顎を上向かせ、唇を重ねた。あの光景を今だけは思い出したくなかった。この体重に耐えかねるように身を沈める彼女の身体を横抱きにする。触れ合う唇を離さぬまま。傍の診療台にその身を横たえながら、ふと思う。

 彼女は防衛省の人間だ。沢口が送りこんだ理由は、この私がヴァンパイアではないかと疑った為だ。しかし今は違う。


「念のためもう一度言うが、私には――」

「今だけはその人の事は忘れて! 今だけ、この時間を私に頂戴!」


 しばらくの間、互いの身体を求めあい確かめ合った。セットしていたタイマーの電子音が時を知らせるまでその行為は続いた。この時ばかりはこの手枷に感謝した。

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