ACT69 嵐の前触れ【佐井 朝香】
「まさか、その手を使いますか?」
柏木さんが茶色い眼を大きくしてあたしを見た。
「どういうことです?」
麻生ったら要領を得ないって顔で首を傾げてる。
「あなたの左手を見て。つまりそういうこと」
「え? ああ! そういう事か! サーヴァントになれば――」
「そう。どんなに深い傷も綺麗さっぱり治ってしまう。その後でワクチンを打てば発症を防げるかもってこと。ただ……もし効かなかったら……」
正直不安しか無かったわ。もしワクチンの効果が無かったら? サーヴァントになった後で、やっぱり駄目だったら? ならいっそ、このまま何もしない方がいいのかなって。でも意外な人があたしの背中を押したの。
「俺ならいいぜ。遠慮は要らねぇ」
驚いたわ。カイトの意識が戻ってて、眼だけでじっとこっちを見てるの。その眼にはしっかりした意志の光が宿ってる。
「ずっと聞こえてたぜ。あんたらの会話」
「え?」
「良く解んねぇけど、ワクチンとやらで治るんだろ?」
「……解らない。狂犬病のウイルスが同じものかどうかなんて、ほんとのほんとに思い付きだもの」
「でもそれしか方法がねぇんだろ? ならやってみるしかねぇだろ」
「いいの? ガブッと噛まれて血を吸われるのよ?」
「そりゃあイヤだぜ。イヤに決まってんだろ。あんたや麗子さんみてぇな美女ならともかく、司令は男の中の男だ」
「……いや、そこ?」
「けど仕方ねぇ…………あんたを……信じるぜ」
再び昏倒しかけたカイト。今のだけでも相当無理をしたみたい。
「そうね、そうよね」
そうそう! 何もしなきゃ死んじゃうって、さっき自分でも思ったじゃない!
「やってみるっきゃないわ! 本人の許可も出たし!」
「急に元気になりましたね」
「切り替えと立ち直りが早いのだけが取り柄なのよ! さあ柏木さん! サクッと、いやガブリとやっちゃって!」
でも柏木さん、戸惑った顔であたしを見たまま動かない。
「どうしたの柏木さん、簡単でしょ?」
「簡単では有りません。言った筈です。自分を抑える自信などないと。変わったが最後、二度と戻れないかも知れない」
「局長……」
「一度欲しいと思えばそのすべてが欲しくなる。時には抉り、裂き、犯す。それがヴァンパイアです」
「別にいいじゃない」
「「……え?」」
なによ二人とも。あたしの「いたって前向きな意見」に、そんなアホっとした顔なんかしちゃって。
「いいわよ、いざとなったらここにいる麻生くんが止めてくれるから」
「……え? 僕?」
「もちろんあなたよ。自分がハンターだってこと、忘れちゃった?」
「いやでも、局長にこの僕が敵うはずが」
「大丈夫! いくら万能無敵の柏木さんも、吸血中は隙だらけ。もちろん殺せと言ってるわけじゃないわ。頭に2,3発ぶちこめば、しばらくは動けなくなる。でしょ?」
「……先生って……」
「なに?」
「見かけによらず乱暴な人なんですね」
「勇断をふるえる麗人、とでも言って欲しいわね。時間がないわ、さあ、早く!」
柏木さんが、ゆっくりと頷いた。その口の端に、優しい笑みを浮かべながら。
そして約10分が経過。
「ほら、もういいわよ!」
「痛って!」
「な~に? たかが注射のあとポンポンしたくらいで!」
「そのポンポンが痛ぇっつーの!」
口尖らせながら、バネみたいに立ち上がったカイト。その膝も、腕もお腹もすっかりキレイ元通り。破けた衣服の隙間から健康そうな肌が覗いてる。
そう、すっかり全部済んだの。柏木さんに吸血されたカイトの傷が完治して、そのカイトにワクチンを打つ。その一連の作業が全部! しかもみぃんな予想通り!
少し離れた所で息を荒げて座り込んでるのは麻生結弦。あたしを挟んだ反対側のベットに腰かけて、頭をさすっている柏木さん。
「お疲れ。お2人は大変だったわね?」
「いいえ、カイトの奴、すっかり元通りになってくれたみたいですし」
「えぇ。佐井様を信じた甲斐がありました」
これ、やったーー!! って叫ぶとこよね。いつものあたしなら、小躍りしながら彼らにキスして回ってたかも知れない場面。
けど。
あたしは素直に喜べなかった。何度か起こる身体の不調もそうだけど、何か凄く……嫌~な予感がしたの。これから大変な嵐が来る……その前触れみたいな。
だから、ぴこん! て言うコミカルが音があたしのお尻のあたりでした時に、やっぱりって思ったの。
「先生?」
「メールだわ。ちょっと待って」
あたしはスマートフォンのホーム画面をタップした。送り主は未登録の携帯からだけど……
「え? これってどういうこと?」
「どうかしましたか?」
柏木さんが駆け寄って来て、その後ろにカイトがついて来て、麻生と3人であたしのスマホを覗き込む。
そして顔を見合わせた。メッセージにはこう書かれていたの。
『伯爵ヲ返シテ欲シケレバ、議事堂ヘ一人デ来ラレタシ』