ACT62 血の契約【菅 公隆】
「手傷が無い」なんてのは嘘だ。胸のやや左寄りの一点に凍りつく痛み。まるで鼓動を打つたびに打ちつけられる白木の杭。間違いない。この中にはさっきの銃弾が取り残されている。
しかしそれすらも忘れさせる官能がこの脳を支配していた。無我夢中で味わう、脳髄がとろけるかの美味。これが、これこそが人間の血の味。何という甘美な喉越し。染み渡る命の泉。
弱まっていく男の鼓動。内ポケットにでも入れていたのか、黒い表紙の手帳が落下して血だまりの上でパサリと開く。
まだだ。
まだ足りない。
ズブリと手指を突き立て、その心臓を掴む。
握りこみ、離す。また握り、離す。こうすれば……残らず絞り取れるだろう。
長く尾を引く苦鳴。そうだ、苦しめ。存分に苦しめばいい。貴様は仇だ。あいつの……アルジャーノンの仇。
「炎の眼。白き……髪。口から覗くは……諸刃の剣」
吐息で囁く男の言葉。
「滅びの使徒か……いや、貴方こそが……主か」
それは安らぎに満ちた声。
身の毛がよだつ。
こいつ、気でも触れたか? このわたしを神にでも見立てているのか?
そうして祈り、神の国に旅立てるとでも思っているのか?
冗談じゃない! 安らかになど死なせるものか!
最大限の理性を以て牙を引き剥がす。もう一度喰らい付きたい衝動をなんとか抑える。荒い息をゴクリと飲み込む。
「如何なされた伯爵様?」
田中氏の声音には僅かな焦り。
「その者、すでに貴方様の血を受けております。とどめを刺さねば吹き返しますぞ?」
「吹き返す? 生き返るって?」
「然様、吸った者の下僕、生ける屍となり申す。その前にお早く」
「へぇ、面白いじゃない。下僕ならわたしの言葉に従うんだろ?」
「それだけでは御座らん! 当人が強く望めば、同胞ともなれるのが下僕なれば!」
「ますますいいよ、駒として使えるなら我々の利益に繋がるさ」
「何を仰せか! こ奴はハンターですぞ? 我らが仇敵。いつか手を噛む虎をどうして伯爵様のお傍に置けましょう?」
「その時は……その時さ」
あらためて男を見下ろす。手足の出血は止まっている。飛んだ手足の断面がざわざわと蠢いている。本体を探し求めているかのように。
「君、名前は?」
無論、答えるはずもない。口を噤む、その脇腹を嫌というほど蹴り飛ばしてやる。血だまりを無様に転がる男。さらにその血で汚れた横顔を、靴の底で踏みつける。
「言いたくないならこっちで言うよ。柏木宗一郎。そうだろ?」
ピクリと反応する眉に瞼。
「今朝資料を見たからね。185cm75kg、長崎生まれのカトリック。特徴だらけだもんな。しかも武道関連オール5段、現在Sランクの審査中って……すごいよ! これ以上の人材なんか無いじゃないか!」
とっくに西へと移動したのか、差し込んでいた月明かりは消えていた。塗りつぶされた窓は外の光を拾わない。真の闇の来訪。しかし今のわたしにはすべてが見える。
「どう? 手足をぜ~んぶ無くした今の気分」
ゆっくりと彼の周りを歩きながら。血のこびりついたロザリオの、硬い感触を楽しみながら。
「西太后って知ってるよね。彼女が帝の死後、寵妃だった女性に何をしたか」
しゃがみ込み、左手でその顎を固定する。十字架を掲げた右手を振り上げ、一息に降ろす。2度。悲鳴も2度。
「そうだよ、あの人もこんな風に手足を落とした。眼を抉り、耳を焼いた。有名な話さ!
あの人はもっと凄いよ? 地下の豚小屋に放り込み、人豚と呼んで罵ったんだから! 解るよ! 良く解る! 彼女もきっと、ヴァンパイアだったんだよ!!」
サロンに籠もる音が耳を突く。むかし貝殻を耳に当てた時にこんな音がしたっけね。
「痛いかい? 苦しいかい? それとも……もっとかい?」
震える唇が微かに動く。その動きがしきりにある言葉を呟いている。
「……駄目だよ。殺してくれなんて言っちゃいけない。君は実に有力な……幹部候補なんだからね」
血に塗れた十字架をゆっくりと舌でなぞる。たまらない。そうさ。君はわたしの『初めて』さ。なかなか居ないと思うよ。伯爵と呼ばれる男のヴァージンを奪う男は。
「もし君が肯うなら、悪いようにはしない。もともと寛大な質さ。強制はしない。君が望むなら、その力をハンター育成のために役立ててもいい。出来るだけ君の意思を尊重しよう。君は本日一番の功労者だからね。
あれ? どういう意味かって顔してるね? そうだよ、今だから言うけど、わたしは協会の司令塔、つまり元帥でもあるのさ。今朝の決定で、ヴァンプの担当大臣が元帥も兼ねる事になってさ。だから早速協会に通達したんだ。頭を叩けば奴らをつぶせる、潜入しその正体を見極め……隙あらば消せってね。その標的がまさかわたし自身だなんて、夢に思わなかったけどね! で……そろそろ、答える気になったかい?」
ふたたび眼を閉じた、その胸倉を掴み上げ、耳元に口を寄せる。
「寝るなよ。『拒否』は重大な職務規定違反だ。罰として……そうだな。君を免職にしても何の意味もなさなそうだから……ああ、そう言えば居たね。君が随分と眼をかけてる若手。麻生結弦に如月魁人、だっけ?」
狼狽が手に取るように解る。なるほど、最初からこの手を使えば良かったんだ。
「ちょっと勿体ないけどさ。手始めにこの2人を――」
「……ます」
「なに? 聞こえないよ?」
スッと涙が流れ落ちた。いつのまにか、抉った目玉が再生している。濡れそぼる黒い澄んだ瞳がじっとこの眼を見つめている。
「従います。心から貴方の僕となることを望みます。我が……主」