ACT55 最低だわ【佐井 朝香】
あらら、眠ってた赤ちゃんがぐずり出しちゃった!
麻生が慣れない手つきでお腹をなでなで。でもお父さんの手って解るのかしら? すぐに眠っちゃって、可愛いわあ……。二股くんも一応父親の自覚、あるじゃない?
あたし、腰かけてた椅子ごと、よいしょって彼の近くに移動した。
あたしは医者。理解するしないは関係ない、患者さんには結果を説明する義務があるって思い直したの。
「フ……麻生さん。ATPって知ってる?」
「先生。いまフタマタって言おうとしたでしょ」
あっはは……解った?
「ごめん! つい。ってそんな事どうだっていいじゃない。知ってる? 知らない?」
「どうでも良くなんかないけど、もちろん知ってます。子供でも知ってるんじゃないですか? 今時コンビニにもありますし」
むくれた顔して座りなおした二股くんが足を組んで両手をベットの端に置く。
「は? コンビニ?」
「預金をキャッシュで引き出す支払機でしょ?」
「……惜しいわね。それはATM。最後はMじゃなくて、P」
「え……っ」
急に狼狽しだした彼。そわそわ手を動かして、今度は考える人のポーズ。
「……と……じゃあ……国民総生産?」
「それはGNP! Pしか合ってないじゃない!」
あらら、また沈黙。ウンウン唸って考えこんじゃって。
「……降参です。教えてください」
「アデノシン三リン酸。思い出した? 高校の生物で習ったでしょ?」
彼は見るからにピンと来ないって顔して、両手で頭を抱えて。
「聞いた事あるようなないような。すみません僕、高校でもピアノとハンター業のことしか頭になくて、理科とかあまり興味無くて」
ん……そんなものかなあ……え? ハンター?
「そうよ! あなた、アスリートよね?」
「え?」
「ピアノだってそうよ! あんな長い時間運動するお仕事なんだから、ATPがどうやって作られるかくらい知っときゃなきゃ!」
「そうなん……ですか?」
陽の光に照らされて、あたしの眼を真剣に見あげた彼の眼は……まだ「人間」よね? その光、あの時の秋子さんの眼とは違うわね?
「いい? ATPは核を持つすべての動物、植物の細胞内に存在するエネルギー分子よ。これが無いと基本、生命維持すら出来ない」
「へぇ」
「どう? 興味が湧いてきた?」
「それっていま考えなきゃ駄目な事なんですか?」
ガクッと後ろにつんのめりそうになった。なにこの温度差! ハンターなら――ハンターだからこそなのかも知れないけど!
なにまたチラッと庭の方見たりして! もう! 腰浮かせないの!
「いーい? 君の血液は酸素を運んでないみたいなのよ!」
「……酸素? それとATPとどういう関係が?」
「関係もなにも。酸素が無きゃ大量のATPは生産できないのよ?」
「先生、僕……いわゆるサーヴァントって奴になっちゃったんでしょ? そういう常識、通用するんですか?」
「常識じゃない。法則よ。例外のない説ってこと。すべての生物はATP無しでは生きられない。切り離して考える事なんて出来ないの」
「だから、僕はもう生き物じゃないんでしょ? さっきほとんど死人って……」
「訂正するわ。あなたは生き物――人間よ。ヴァンプになった人達も、あの伯爵も含めてね」
「伯爵が……ヴァンプが……人間?」
フラリと麻生が立ち上がる。
「先生、それはphilosophical(哲学的)な考察に基づいた結論でしょうか」
「いいえ。あくまでbiology(生物学)によって導き出した仮説よ」
二股くんったら、いきなり声を上げて笑いだした。腹をかかえて、よろよろと窓辺に歩み寄って。
「先生はやっぱり先生だ。酸素とか、ATPがどうとか。僕は普段、そんなこと気にも止めない」
黒いカーテンを引いた彼の手が窓のカギを外す。ぐっと開かれた隙間から吹き込むヒンヤリ冷たい秋の風。
「ヴァンプは人間なんかじゃない。人殺しの化け物だ。だから僕はこの手で何体も狩ってきた」
「でもねフ……麻生さん?」
「……もう二股でいいです。秋子に桜子……どうせ僕はどっちつかずで優柔不断な最低野郎ですよ」
「じゃああらためて、二股くん」
「……訂正しないんですね」
じっと外に耳を傾ける二股くん。彼はあくまでハンター。ヴァンパイアが何者か、なんて考えもしない。いいの? 本当にそれで?
「君はヴァンプが化け物と言った。ならその最初の化け物――『真祖』は何処から来たのかしら?」
「……さあ。どっかから湧いてでも来たんじゃないですか」
「生き物の死骸か何かが寄り集まった、有機質の集合体?」
「え……えぇ」
「それこそロマンチストの考え方よね。ヴァンプは魔法で動くゴーレム? それとも悪霊でも取り付いた?」
麻生は何も言わず、黙ってしまった。
あたしは立ちあがって、「ちょっと待ってて」って彼に断わってから部屋を飛び出したわ。さっきの部屋に「例のあれ」を取りに行ったの。ヨイショって掴んだそれはやっぱり結構重たくて。
息を切らして戻って来たあたし。彼は、あたしの手に抱かれたこれを見て驚いた顔をした。ま、とうぜんよね。
「あたしはオカルトは信じない。ある日、原始の海で偶発的に発生した――ひとつの細胞(cell)からすべてが始まった」
「せ、先生? それ……なんですか?」
「腕よ。見ればわかるでしょ?」
「いや解りますけど、どうして? いったい誰の?」
「さっきの騒動聞いてたでしょ? 柏木さんのよ?」
「柏木って……まさか柏木局長の腕!?」
そろそろっと腕に近づいた彼、触ろうとしたその手をビクリと引っ込める。腕がその手をバッ! と広げたから。すぐにクタッとなったけど。
そうなの。この子ったら結構ヤンチャなの。
「わかった?」
「わかったって、何がです?」
「どう見ても人間の腕でしょ?」
「どう見てもそうは見えないけど、なるほど、局長は元々人間だ。みんな元は人間。そう言いたいんですね?」
「そうよ。問題はどうして普通の人間がこうなったのか」
あたしは腕を冷蔵庫に仕舞いながら彼を見た。彼は眼を閉じてため息ついて、そして言った。
「何故なんてどうでもいい」
「え?」
「人が何故ヴァンプになったかなんて、どうでもいいって言ったんです」
「二股くん?」
「いま僕に取っての一番の問題は、自分がもうハンターでもピアニストでも無いという事です」
ガチッと音がした。
金属の擦れる冷たい音。
あたしは気付いた。それがセミオート拳銃のスライドを引く音だって事に。
麻生の手には真っ黒な拳銃が握り締められていた。彼の銃。彼の手にすっぽり収まるサイズの小さな銃。どうして? あの時柏木さんが奪ったはずの銃が、どうして彼の手に?
「サーヴァントの末路はハンターである僕が一番良く知っています。死ぬか、変わるか。そうでしょう?」
震える左手がグリップを握りしめる。その銃口がゆっくりと彼自身の米神を向く。
「桜子はもう居ない。置いてけぼりを喰らった僕の希望はせめて音をみんなに届ける事だった。それがこのザマだ」
「……やめて」
出来るだけゆっくりと彼に近づいてみる。後ずさる彼の背が窓のガラスに触れる。
「止めないでください。局長ほどの人でもああなった。そうなる前にカタをつけます。僕にだってそれくらいの矜持はあります」
「待って。いっそヴァンプになっちゃったら? またピアノが弾けるわよ。桜子さんだってそうやって凄いピアニストに――」
「あははは先生! ヴァンプが人を超えるのは当たり前ですよ!」
笑いながら、彼は泣いてた。大粒の涙。
大の大人が、男が、人前でそんな風に泣くなんて。
「……違う。違うんです。人じゃなきゃ意味が無い。人が弾いてこそ……じゃないですか」
ぐっと胸がつまる。……わかったわ。良く解らないけど、良く解る。解るけど、でも引かないわ。あたしは医者だもの。
「なに甘えた事言ってんのよ」
「……え?」
「甘ったれるなって言ったのよ」
つかつかと足を踏み出す。
「なに? 彼女が死んだから? もう希望なんてないから死んでやるって?」
スズメか何かが飛び立つ音。庭先で誰かの話し声。きっと柏木さんの声よね。カタはもうついた?
柏木さんは完璧な人。あんな若造のハンターにやられる人じゃない。
でも柏木さん、あなた――麻生に銃を渡した? 眼のつく場所に、もしかして枕元にでも置いた? こうなる事が解ってて、もしかして自殺するかもって……自分の育てたハンターに、麻生に銃を?
もしそうならあなた……最低だわ。
「いい? この世に生きたくても生きられない人間がどれだけ居ると思ってる?」
麻生が持つ銃にそっと触れる。硬直した手の指を、そっと掴む。
「貴方が死ぬほど苦しむ末期のガン患者だって言うのなら話は違ってくるわ。でも違うでしょ?」
彼の眼にはとまどいの色。
あたしは彼の口元に顔を近づけ、優しく、そっと口づけた。
一度見開かれた彼の眼が閉じる。彼の手から力が抜ける。その手か銃を離す。
もう二股くんなんて呼ばないわ。
貴方はとても健気な人。責任感の強い人。とても強い意思と誇りを持っている人よ。ただもう少し待って。早まらないで。
「麻生さん。あなたはまだ戻れるわ」
「……え?」
マガジンを排出してから、あたしはもう一度スライドを引いた。点火前の弾薬が飛び出し、あたしの手の上でコロリと転がる。銀に光る弾丸。しっかりとそれを指と指にはさみ、彼の眼の前に持っていく。
「ヴァンパイアはラブドウイルス科、いわゆる弾丸型のウイルスによる伝染性疾患よ」
「……なんですって?」
「ヴァンパイアは伝染病。だからこそ治る可能性がある」