ACT44 懐かしい匂い【佐井 朝香】
広い背中だわ……
それが初めて彼を見た時の印象だった。
あたしに向けられた銃弾をあっさりと阻止した人。特に構えもせず、ただ足を肩幅に開いて立っている和服の男性。彼の足元に転がってるのは、どうやらカイトが撃った弾。あれをいったいどうやって?
聞こえなかった。弾を弾く音も、その弾が床に落ちる音も。手の平で優しく掴んで、そっと床に置いたとでも?
ふと香った甘い匂い。
甘いと言っても、クッキーとかアップルパイみたいなスイーツ系の、じゃなくてね? お線香をもっとすっきりと軽くした……そう、これはあのお香の匂い。
あたしには父も母も居ない。お祖母ちゃんに引き取られ、育てられた。
今でも覚えてるわ。お祖母ちゃんは食事の後、よくお茶を立ててくれたこと。小さな囲炉裏に、小さく練った丸い薬(練り香とかいう)をくべると、とってもいい香りがした。お祖母ちゃんの着てた着物にも同じ匂いがついていた。そのお祖母ちゃんもあたしが中学に上がる前に――
懐かしいけど辛い記憶がこの胸を絞めつける。
田中さんって言うのね。何故彼から同じ香りが? まさか、まさかよね。きっとお茶が趣味のおじ様か、茶道の先生で、たまたま使うお香が同じだっただけよね。着物の色艶といい質感といい、随分と高そう。センスもいい。薄緑が混じる明るいブラウンの羽織、その肩に散った白い桜。袴は黄色味を帯びたグレー。模様は色合いを抑えたモノトーンのベイズリー。古風な桜とベイズリーがうまい具合にベストマッチ。
「なあおっさん」
――おっさん!?
思わずムカっと来たあたしは声の主を睨みつけた。
なにそれ! 遠慮もなにもない、ベンチに寝そべる酔っ払いでもにかけるようなぞんざいな言葉。カイト君? 目上を敬いなさいって学校で習わなかったの?
「有り得ねぇよな。誇り高いヴァンプ様が、2体お出ましとか、マジ有り得ねぇ」
あ、なるほどそういうことね。
一見チャラいカイトくんも色々と考えてる。
彼は田中さんを挑発するつもりなのよ。ほら、人って逆上したり動揺したりすると平常心を無くすでしょ? そうすればどんな凄い人でも、普段しない失敗しちゃうもの。
医療の現場でも同じ。恋人や肉親の手術はご法度。変に意識して手元が狂ったらコトだもの。
ところが田中さんの反応は冷静そのもの。怒るどころか、冷静を通り越して高笑い。カイトに痛いところを突かれた筈なのに、それが不思議とツボにハマったみたい。さっすが! 上に立つ人は器が違うわ!
田中さんの余裕とは裏腹に、あたし達を囲む男達には余裕が無い。照準を合わせる動作。引き金にかける指に力が籠もるのが見える。
「やめとけ。こいつは『気功師』だ」
「――ほう?」
眠っていた赤ちゃんが、パチっと眼を見開いた。何かをしきりに探すような仕草。口を開けて、可愛い舌を覗かせて。
お腹がすいてるの? 怖くないの? 待っててね。たぶんこれ、もうすぐ終わるから。田中さんがきっと何とかしてくれるから。
くいっっと白衣の裾を引かれて振り向く。柏木さんが片膝をついたまま、眼で麻生を差してる。倒れてる麻生は顔面蒼白。もしかして死んじゃった?
赤ちゃんを柏木さんに預け、麻生の頸動脈その他を触ってみる。大丈夫。脈はある。でも変。綺麗すぎない? さっきまで顔に傷とか無かった? え!? 左手が……撃ち抜かれた筈の手首の傷が……跡形もない!?
――やん!!!
いきなりあたし、床に押し倒された。見上げたら柏木さんがあたしの上に乗っかってて。
そして今度こそ見えた、見えちゃった! 田中さんの身体から、周りを歪ませるほどの気(?)の渦が立ちあがるのが!
その直後よ! カイトとハンター達が一斉に引き金を引いて──
音はしない。彼等が叫ぶ声も、倒れる音もぜんぜんしない。田中さんの気が音と衝撃をシャットアウトしてるのね?
無音のなか、ハンター達が倒れ込むのが見える。カイトも床に張り付いたまま。柏木さんが抱っこしていた赤ちゃんが、それを見てキャッキャと笑ってる。
男達の呻く声。
ああ、音が戻った。バリアーが解かれたんだ。終わったんだわ。そう思って辺りを見回す。濛々と立ち込める煙のせいで状況が全く解らない。柏木さんが煙の中に姿を消す。向かう先は――さっきまでカイトが立っていたあたり?
靴音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。止めでも差しに行くつもりかしら? でもそれを止める田中さんの声が聞えて……
あたし、急に膝の力がガクッと抜けちゃった。一気に襲う眠気と疲労感。支えてくれるこの腕は……柏木さん? 田中さん? 駄目、もう……限界。