ACT40 局長の正体【麻生 結弦】
冷たく残されたピアノ椅子。耐えがたい喪失感が僕の胸を締め付ける。ピンと張りつめている僕の中の音。でも答えなきゃ。客があんなに手を叩いています。
「ありがとう」
何度も呟いた言葉は言葉にならず、コールの渦に飲み込まれていく。
僕は両の手を差し伸べ、とある詩の一節を歌い出した。シューマンの歌曲集「ミルテの花」の第1曲。音楽を嗜む人なら知る人も多いだろう。歌に合わせ、1人、2人と立ち上がり歌い出した。もちろんサクラなんかじゃない、握手した覚えがある常連客ではあるけれど、あくまで一般のお客様です。立ち上がる人の数はどんどん増えて、大勢の歌声でホールが満たされていく。
うん。今夜の客は、本当にノリがいい。
フレーズ途中で椅子に腰かける。立ってた人が座り出す。左手の感覚は殆ど無いけど、でも大丈夫。この右手が出来るだけカバーする。この主旋、いつ聴いても優しい多幸感に溢れてるよね? 聴いてくれたみんなに感謝を伝えたいならこれしかないっていつも思う。だけど今夜だけは胸がしめつけられる。曲の背景に自分自身を重ねてしまう。
「献呈」は「ミルテの花」のピアノ用編曲バージョン。リストが友人シューマンとその妻クララに献呈したもの。ですが、それってどうなんだろうって思うんです。リストからすれば、祝福かリスペクトのつもりだったかも知れないけど、でもシューマンにとっては内心、腹が立ってしょうがなかったんじゃないかって。
だってそうでしょ? 苦労に苦労を重ねてようやくゴールインしたクララ。綺麗なうえ頭が良くてピアノも上手くて作曲まで手掛けるようなクララ。そんなクララの為に、たぶん一生分の思いを込めた筈なんです。この曲は自分とクララだけのとっておきなんです。それを盗まれてしまった。
当時リストはスーパースターだった。初めて譜面を見ずに弾いたピアニスト。繰り出される超絶技巧。しかもその美男子ぶりに誰もが酔った。対して自分は指を痛め、ピアニストの道を諦めた日陰の身。親しければ尚のこと嫉妬する。素直にその功績を讃えられない。しかもリストはクララとも馴染みとくれば……
これは僕の勝手な想像ですけど、クララみたいな女性にリストが何も思わなかったとはどうしても思えないんです。リストは多くの女性と関係を持ったような人です。その多くはクララのように、美しく聡明な女性でした。
だからリストはリストでその結婚を心の底から祝うことが出来たんだろうかと。長い時を両者の友人として過ごすうちにクララへの想いがつのり、しかし彼らの結婚を応援しなければならない、そんな日々をずっと過ごしていたとしたら――
男2人に女1人。僕たちとは逆だけど似てる。今なら解ります。そんな彼等の気持ちを考えると胸が締め付けられる。
もし誰かに「彼女」を取られたら、僕はそれを心から祝えるだろうか。
客席の一部がざわつく。いけない。音に籠もる僕の気持ちを感じ取ってしまったのかも知れない。
左手が重い。時折襲う来た鈍い痛みで意識が飛びそうになる。巻いた包帯がぐっしょりと赤く濡れている。落ち着け。雑念は捨てましょう。僕はこのリサイタルの主催で、ピアノの、音楽のプロフェッショナル。聴き手に音を届けるのが仕事です。
どうにかこうにか弾き終わり、喝采の中で終了した全曲目。投げ込まれた花を拾ったり、大きな束を手渡されたり。
退場する僕の後をしばらく追っていた拍手も、まばらになり消えた頃、ようやく人の波が出口へと向かいだしました。ハンター協会の面々だけはその場に居残っているのが見えます。局長の指示を待っているんでしょう。御苦労、今夜はゆっくりと休みたまえ、なんて言葉を。その局長は、まだ舞台袖に居るでしょうか。そこは全体を見渡せる位置だから……ああ、やっぱり。
僕は両脇一杯に抱えた花束の隙間から二人を確認しました。手前にはアサカ先生が赤ん坊を抱えて立っていて、奥に立つ局長の背中を見つめてる。
僕が花束をテーブルにそっとおいた、その時です。とんでもない言葉が耳に入って来たんです。
「私が……ヴァンパイアであるわたくしが、いつまでも抑えられるとは限りませんから」
――局長が……ヴァンパイア?
もちろん驚きました。言葉を発してるその背中は確かに局長。立ち姿を見間違える僕じゃない。
嘘ですよね? 嘘って言って下さい。貴方はハンター協会の事務局長。知ってますよ、貴方がクリスチャンであることも、陽の光を浴びても平気な事も。
そうです。3日前に2人で夜なべしたあの時も、朝日ですっかり明るくなった事務室で美味しいコーヒーを入れてくれましたね? 僕が褒めたら「そうかね?」って嬉しそうに頷いて、そしてご自分は手をつけないまま。「飲まないんですか?」って聞いたら「猫舌だからね」って……結局そのまま。その後で、魁人が差し入れた吉屋の牛丼を、やっぱり猫舌を理由に食べなかった。日比谷さんが持ってきたカステラも、甘い物は苦手だとかで――
そうです。思い返せばこの1か月間、局長が何かを食べたり飲んだりしている所を見た事がありません。思い当たることは山ほどあったんです。最初から疑わなかっただけだ。あの伯爵に挑んで、良くぞ半殺しの目で済んだと単純に喜んでいただけだ。あの伯爵がハンターをただで返すわけが無い。優秀なハンターほど狙われる。仲間にも加えたがる。伯爵は局長を返り討ちにした後で、当然軍門に下れと迫ったはず。伯爵がどんな手を使ったか知らないが、局長は承諾した。だからこそ生きて返した。
そこまで考えた時、疑問が湧きました。局長が面会謝絶の3年間、いったい何処に居たんでしょう? ヴァンパイアに治療は必要ない。ならば、何故そうと偽って姿を晦ます必要が? まさか……?
僕が地下室の彼と初めて対面したのは、重体の局長を医局に搬送したその直後でしたよね? そして局長が局長として復帰したのも、地下室の彼が脱走したその直後だった。もしかして、もしかすると――
僕はカマをかける事にしました。まだこっちに気付かない先生の背後に忍び寄り、開いた白衣の隙間に手を滑らせる。そこに僕のベレッタがあると踏んだんです。
と思えばやっぱり。ベルトに差し込んであったそれを素早く抜き取る。先生は気付かない。
「局長。今夜の事、仕組んだのはすべて貴方ですね?」
身体をこちらに向ける局長。僕の向けた銃口を真っ直ぐに見返す赤い瞳。
瞬間、右手首を上に跳ねあげられました。同時に足を払われ、身体が宙に浮く。視界が反転、気付いた時は仰向けに抑え込まれている。両足の膝、腰、肩、両腕の肘と手首。あらゆる可動部位が固められ、動かせない。
おそらくは1秒にも満たぬ間だったに違いありません。反撃する隙は無論、相手に受け身を取らせる必要すら無い鮮やかすぎる仕事。
解っていました。もし彼がヴァンパイアならすぐにでも撃つべきだったんです。銃をただ向ける、なんて猶予は許されない。ヴァンパイア相手に威嚇は無意味。そう地下室の彼は教えてくれたのに!
――ガチン!
ベレッタが床に当たる硬い音。背中に押しつけられた硬い床。
絶対的な脅威が僕の上に居た。霞む視界。その中に二つの赤い眼だけがくっきりと浮かび上がる。氷のような万力の掌が、この左右の頸動脈を絞めつけている。
「……局、長」
ようやく出せたかすれ声。絞めつける手が緩む。見下ろす眼が赤から金色に変わる。嗜虐に歪む口元から白い牙が覗く。
「ヴァンパイアに威嚇は無意味。特に君は眼が悪い。先手を打たれた場合、我々の動きに対処出来ない。教えた筈だがね?」
局長の手指が喉元の窪みを撫でている。いつでも殺せると脅すその仕草、まったく同じです。3年もの間、あの地下室で僕達を鍛えてくれた、あの彼と。
「貴方だったんですね? あの暗い地下で僕達を待っていたのは」
見下ろしていた金色の眼が硬く閉じられる。残酷な笑みが寂しそうな笑みに取ってかわる。
「気付くのが遅いよ、麻生君」
僕の首から手を離した局長は、おもむろに仮面を剥ぎ取った。それはまさにあのヴァンパイアのものだった。
「……どっちですか?」
「どっちとは?」
「局長はヴァンパイアと人、どちらの味方なんですか?」
そうだ、局長の行動は理屈に合わない。地下室に居た時の彼は本気でした。本気で僕と魁人を鍛えてくれた。手業だけじゃない。孫子の書籍まで持ち出して戦略戦術を指南してくれた。自分を殺すはずのハンターを本気で、全力で育成してくれたんです。さっきのもそうだ。桜子を殺すように仕向けるのもおかしい。いまもだ。僕を殺せたのにしなかった。局長がヴァンパイアで、人間の敵だって言うなら、そんな行動を取るはずがありません。
「知りたいかね?」
「えぇとても」
じっと僕の眼を見つめていた局長が口を開きかけ、けどすぐに閉じました。再びその色を変えていく両の瞳。首を巡らしてみてその訳が分かりました。大勢のハンター達が僕らを取り囲んでいたんです。
それぞれの銃口を僕達に向けたスーツ姿の戦闘員達。その中の1人が前に出ました。
「結弦から離れてくんない? 司令?」
いつもの派手なキャップにダブついたカーキー色のパンツ。馬の墨絵模様のTシャツまでいつもと同じ。クラシックだっていうのにスタイルを曲げない。如月魁人はそんな男です。黒いグローブをつけた両の手には彼の得物、コルト社のパイソンが2挺。すでに撃鉄は起立しています。