ACT38 今生の別れ【水原 桜子】
96小節。ここからが正念場。
伴奏も主導もない。右と左とが同時に旋律を奏でる第2の変奏部。終わりに向け、一息に駆け上がるパッセージ。
けれど。ここに来て身体が限界を迎えるのが解ります。心の臓に打ち込まれた弾が重たく、冷たくのしかかってくる。手が、指が、肘が、身体中が凍てつきます。すべてが石のように重い。
見えない。客も、舞台も、鍵盤すらも。
聴こえない。結弦とわたくしの指が、鍵盤を叩いているはずなのに。
そんな時、結弦の鼓動が聴こえました。
その音。
リズム。
えぇ、とても……温かい。これは? 結弦の……生命の持つ……エネルギー?
気付けば指は動いている。黒いピアノの天板が白い光を照り返している。腕の中の結弦がとても熱い。それがとても心地良くて、もっと感じたくて、ぎゅっとこの身を押しつける。彼もそれに答える。わたくしの身体も熱を帯びていく。
不意に現れた青い湖。どこまでも深い、碧く澄んだ水面。指を動かすそのたびに、どこまでも広がる碧い波紋。
ただひたすらに指を動かす。音を重ねれば重ねるほど、景色は色で満ちていく。
緑の平原、赤い家屋の屋根、ヒースの丘に遊ぶ子供たち。
駆け上がる音階。完全に調和する二つのパート。
教会の鐘が鳴っている。誰かを送る鐘。黒衣の人間が棺を担いでいる。それを追う人間達が泣いている。
祝いの鐘。階段を駆け降りる花嫁と花婿も見える。二人を言祝ぐ大勢の人間達も。
これは誰かの記憶かしら? もしかしてリストその人の? 鐘の音が呼び覚ましたと言うの?
結弦、貴方にも見えているの?
そうなのね? 貴方もわたくしと同じ景色を見ている。あなたと記憶を共にしている。
息を切らし、上下する結弦の鼓動。それと完全に一つになる自分。更なる高みを目指し、駆け上がる。鐘の音が煌めき輝いている。この世のすべての鐘が鳴っている。
――ああ! すごいわ! 誰かとここまで一体感を感じたことが、貴方にあって!?
ラストパートの激しい旋律が、湖面を激しく震わせる。何度も力強く鳴らされる鐘の音。その波動を全身で受け止める。
共に弾いたラストの和音。それはわたくし達の終わりを告げる音だった。
結弦がペダルから足を離す。わたくしと彼の指先もそっと鍵盤を離れ――
場を満たす余韻が徐々に弱まり消えていく。結弦の身体も、その温もりも。
少しばかりの間を置き、思い出したかのように客の一人が手を叩いた。
二人、三人、そして一斉に。熱いコールがホール全体に吹き荒れる。
結弦が客に身体を向ける。彼の手がわたくしの方に差し伸べられ、しかしその手はただ椅子の背もたれをぐっと掴んだだけ。
そう。わたくしの身体はもう――
腕を横に広げ、客のコールに答える結弦。鳴り止まぬ拍手。
そうよね。貴方には最後の仕事が残っていたわね?
長く伸ばした右の前髪が軽く揺れる。硬く引き結ばれていた口元が緩み、口ずさんだのは歌の一節。リストの友人だったシューマンが、クララとの婚礼の前夜に捧げた賛辞の歌。歌に合わせ、右手の指が鍵を滑る。
――献呈――Widmung (Robert Schumann / Franz Liszt)
シューマンが妻の為に書いた歌を、リストはピアノ曲として二人に贈った。
……美しい調べ。ふわりと浮き上がる意識。舞台袖に座りこむ浅香の腕に抱かれた赤ん坊が、眼を開けて嬉しそうに声をあげている。
ふふっ! まるで一緒に歌っているよう!
この子はわたくし達の子。貴方と秋子と……わたくしの子。
さよならは言わないわ結弦。今夜は呼んでくれて、本当にありがとう。