ACT37 かの巨匠に寄せて【麻生 結弦】
Eフラットのピアノの音で目を覚ました客達。
ホールの温度がさっきまでと違う。客達の眼が違う。すべての視線がピアノに注がれている。まるでプログラムが進行していたあの時間に戻ったように。僕はこのリサイタルの主催。何か言わなければならない。だが――
「お待たせ致しましたわ皆さま。この曲が、明日の皆さまの糧となれば幸いですわ」
僕の代わりに呼びかけてくれたのは桜子。客の視線が彼女に注がれる。彼女は微笑みを返し、ピアノの方へと歩き出す。胸の染みが見る間に広がり、その半身を赤く染めていく。君の命は風前の灯。なのに君は……君って人は……
彼女の手を取ろうとして腰を上げ、でも僕は伸ばしかけた手を止めた。桜子が二言三言呟いたのが耳に入ったからだ。
「ありがとう柏木。ありがとう、浅香」と。
桜子の視線を追えば、舞台袖に立つひと組の男女。赤ん坊を抱いた先生と、黒服の支配人。そうですか、貴方は柏木……局長。どおりでさっきの無線、現場に居なきゃ言えない台詞ですからね。
随分とカッコいいおじさんに化けましたね? もちろんそれも素顔じゃない。
ええ。聞きませんとも。局長の行為や意図を疑う権利は僕達ハンターには無い。でも解ります。桜子の事は、僕の手で決着をって事ですよね? 局長が手を下すのは簡単だけど、それじゃあ誰も救われないって、そんなとこでしょ? カトリックの局長らしいっちゃらしいですけど。でも少し小細工が過ぎません? チケットの件。アサカ先生のPPKの件。そんな事しなくても、僕はちゃんと……ええ、ええ。局長がすっごく周到な人で、保険かける人だって事は解ってます。局長のお陰で僕は余計な罪悪感を持たずに済んだ。そう受け取っておきます。
いいですよ、この場は納めて見せますとも。
一度下ろした右手を、もう一度桜子に差し出す。触れた彼女の手は透き通るように冷たくて、こんな手でピアノなんか弾ける訳が無いのにそれでも億尾にも出さない。そんな彼女は今でも僕の目標で。
そうだよ。僕はずっと君のピアノを追いかけていたんだ。知ってる? ピアノに転向したのは、君の音を聴いてしまったからなんだよ? すべてのヴァイオリニストがたぶん目標にしてるニコロ・パガニーニ。父は僕を現代に蘇ったパガニーニ! なんてフレーズで売り出したかったらしくてね。それこそいい音が出るまで食事抜きで練習されられたよ。(パガニーニも父親にそうやってスパルタされたらしいね!)
そんなこんなでようやく納得の行く音が出せた、そんな時僕は君のピアノを聴いたんだ。
ショックだったよ。あの苦労は何だったんだろうって思った。この気持ち、君には解らないだろうな。ピアノが出す、カンパネラの鐘の音。どんなに技巧を凝らしても、技術を磨いても、ヴァイオリンじゃ出せない音があるんだと思い知らされた。そりゃパガニーニその人が弾いたなら出せたのかも知れないけど。
桜子、この椅子に座って。そんな顔しないで。大丈夫さ、僕は大丈夫。そう、そこに腰かけて。左パートを頼むよ。僕はこの通り、左が使えない。左はほら、音域がものすごい広いから、君が座った方が絶対いいって。そうそう。弾きづらいかもだけど、僕がこうやって支えるからさ。あ、ペダルは僕がやるよ。立ったまま弾く時はこの方が弾きやすいから。
ゆっくりと僕の顔を見上げ、頷いた桜子が鍵盤に指を置く。手首が動く。冷たく澄んだEフラットオクターブが、現実の音となってホールに響いた。
僕は息を呑んだ。
凄い。こんなことってある? 君にはいつもこんな景色が見えているのか?
大勢いた客の姿はすでに無い。
眩しいライトも、舞台装置も何もなく、そこにあるのはただ無限に広がる白い虚空。上も下もなく、そこにポツンと置かれた自分が酷く不安で、僕はただ次の音に耳を澄ませる。
二つ目のEフラット。
足元に白い湖面が出現した。澄んだ湖。深い水底。湖の底に沈んでいるたくさんの何か。あれは……棺桶? 幾重にも折り重なり、水底を満たす死者の棺。墓場の上に立つ自分。ゆっくりと広がる波紋が、白木の棺を揺らめかす。ざわめく気配。死者が目を覚ます。その蓋が今にも開きそうで眼を逸らす。
ぐるりと囲む水平線が、灰色の空に白く溶け込んでいる。
三つ目のEフラット。
足先が踏むダンパーペダルの感触が戻る。右の指先が鍵盤に軽く触れている。黒いピアノが、確かにそこに据えられている。
僕に返された時間。感じる客達の視線。遥か遠くで鳴っている教会の鐘。手首を曲げ、ひとつ上のオクターブを、小さく叩く。3度鳴らされる硬い音。トライアングルにも似た音。合いの手で彼女がまた3度。そして僕も3度。静かなる序章。寒空に消え入るような……鐘の余韻。
序章後の間。固唾を飲んで見守る客の呼吸。それを近くに感じる。鼓動が早鐘を打ち出す。
吸った息を静かに吐く。初めの主題を奏でるのは僕なんだ。落ち着いて。思い出して。リストの足跡を追ってヨーロッパを旅したあの時の事。何故彼がこの曲を何度も作り変えたのか知りたくて、リストの生地に行った時の事。
眼を閉じる。肩と肘の力を抜き、右手指を躍らせる。
硬く澄み渡るピアノの音。右手の奏でる旋律に、合わせる桜子の音が聞こえる。完璧だよ桜子。音質も、タイミングも、主旋を邪魔しない控えめさも。そうだよ桜子! 彼らの呼吸を感じよう! 僕と一体になろう!
桜子を抱く腕に力を込める。ピクリと身体が反応する。僕は指を一心に動かす。先へ、先へと進めていく。
鐘の旋律が展開し、新たな旋律に取って変わる。忙しい動き。小刻みにスイッチする僕と彼女。華やかさを増す旋律に耳を傾ける。
ふと桜子が主題を奏でる。彼女主導、僕の方が彼女に合わせる、そんな一場面。
眼を開ける。さっきまで白一色だった湖と空に色がついている。澄んだ湖が怖いほど青い。なだらかな丘陵が湖を取り囲んでいる。緩いカーブを描く緑の地平線が見える。散らばる白い家屋と、教会の尖った屋根。雲の無い空に、この湖を囲むスカンポの丘。あの丘は……そうだ。オーストリア国境付近のショプロンの郊外。そこで草はらに腰かけて眺めた景色。そこで僕は、遠くで鳴る鐘の音を聴いたんだ。
その時気付いたんです。敬虔なカトリックだった彼は、誰かを祝う時、またはその死に直面した時、必ず鐘の音を耳にしたはず。その度に鐘は違って聞こえたはずだと。
第1稿を書いた頃、リストはマリー・ダグー伯爵夫人と道ならぬ恋に落ちていた。世間は非難されながらも、2人は3人の子をもうけた。彼を支える夫人の存在がよほど大きかったんでしょう。大事な家族。可愛い子供たち。うんざりするほど難しくて弾きづらい第1稿を、より弾きやすく、分かりやすい第2稿に書き換えたのは、そんな幸せな家庭に安らぎを感じたから?
だがその第2稿を、リストは発表せずに取っておいた。友人のロベルト・シューマンの結婚祝いに献呈するつもりだったから。シューマンの婚姻は事情あり難航していたから。
ダグー夫人がリストの元を離れたのはこの頃だったらしい。
シューマンと妻クララが無事に教会で式を挙げ、リストはクララにこの第2稿を捧げた。その時の鐘の音は、どんな風に彼の心に響いただろう。何の因果か、同じ年にニコロ・パガニーニが亡くなった。おそらくリストが心の師と仰いでいた巨匠の死。
パガニーニは、そのあまりの人間離れした超絶技巧が故に「悪魔に魂を売った」と広く信じられていた。だからどの教会もパガニーニの遺体を引き受けず、棺は延々と盥回しにされた。
リストはそれを目の当たりにし、どんな気持ちになっただろう。教会の鐘が冷たく、残酷な音に聞こえたんじゃないだろうか。
その後新たな恋をして、その最中に尊敬するショパンが死んで。音楽家としては長い時を生きたリストは、出会いも多い半面、多くの知人や家族の死にも直面している。鳴らされる鐘の音は消えず、思い出と共に蘇る。幾度も、幾度も。
たぶん、その過程がリストを第3稿――最終稿への改定へと駆り立てた。
曲の方はラストスパートに突入していた。ここは本当に大変なんです。右パート、左パート、共にオクターブの音階を駆け上がっては踏鞴を踏み、駆け降りてはまた駆け上がる。スイッチする場面もあるけれど、ほとんどが同じタイミングで鍵盤を叩くパッセージ。ある程度のスピードも要求される、両者が本当に一体にならなければクリア不可能な通り道。
桜子が僕を強く引き寄せる。僕もしっかりと彼女を抱える。上下の動き。眼では追えない手指の動き。さらに早まる鼓動。喘ぐ彼女の呼吸。クライマックスに向け、僕達はいま一体となっている。さらに動きを早める。
もっと! もっとだよ! 桜子!!
緑の景色が一斉に弾けた。僕に取っては唐突なラスト。意識を無くし、ぐったりと椅子にもたれ掛かる観客の姿が目に映る。僕はまだだ。まだ卒倒する訳にはいかない。僕はここの主催だから。
まだ響いてる教会の鐘。青く澄んだ湖。眼の前には黒いピアノ。そして僕の横に、桜子だけが居なかった。