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ヴァンパイアを殲滅せよ  作者: 金糸雀
第1章 幹部編
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ACT35 鐘の音の序章【水原 桜子】

 ――La Campanella ~Grandes etudes de Paganini S.141/R.3b――

 パガニーニ大練習曲集より 第3番 「ラ・カンパネラ」


 まずはわたくしの番。添えていた黒鍵を小さく、3度。鋭く丁寧に指先ではじく。細心の注意を払うべき出だしの音は、すでに遠い鐘の音を模している。


 同じリズムで結弦の右が更に上の黒鍵を捉える。繊細なスタッカートが同じく3度。澄み切った鐘の音を響かせる。

 そして次はまたわたくし。音は2度、1度と、その数を減らしつつ徐々にスピードを落とし――

 そこまでの、たった3小節がこの曲の序奏。わたくし達が呼吸を確かめ合う為には十分な、決して短くない3小節。幾ばくの間がホール一帯を緩慢に包み込む。いよいよ……ですわね?


 結弦の右手が動く。場内が息を飲む。細かなリズムを刻む最高音のDシャープと、それに続く右親指があの美しいCampanella(カンパネラ)の主題を紡ぎ出す。

 いいわ……何度聴いても……とても……とっても物悲しくて……それでいて気品溢れるメロディ。

 わたくしの出番は次の小節から。左で奏でる分散和音アルペジオ


 結弦の音は決して弾き急がず、音を皆に届ける事だけを考える、そんな音。澄み渡る旋律メロディにうっとりと耳を傾ける観衆。

 わたくしもこの旋律に引き込まれる。そのルーツに思いを馳せる。この主題を作ったのはリストではなく、若き日のリストを作曲の世界へと引き戻した巨匠――ニコロ・パガニーニ。あのリストを虜にした旋律が……ゆっくりとホールの空間を満たしていく。


 次第に上がる打鍵のスピード。

 休憩はありません。結弦の頬を汗が滑っています。右パートは弾き始めたら最後、激しい跳躍、反復、重音の連打や音階を、最終に向け一息に弾き切らなければなりません。咄嗟に右手で支えました。一瞬間、グラリと揺れたその身体を、しっかりとこの胸に抱き寄せます。鼓動が聞こえますわ。曲と共にリズムを刻む鼓動が。


 結弦。

 いまどんな気持ちですの? どんな思いで鍵盤を叩いていますの? いったい誰の為? 観客の為? それとも自分自身?

 ふふ……愚問だと思うでしょうけど、でもわたくし、もしリストが生きていたら同じ質問しようと思ってますのよ?

 何故あなたは超絶技巧家ヴォルトゥオーゾを目指したのか。そんなあなたが何故、曲を「作ろう」と思い立ったのか。ならばそれは誰の為か。あなたには同じテーマをもう一度改め、組み立て直す……いわば、改訂癖のような癖がある。何故そこまで一つの曲に入れ込むのか。このカンパネラも……


 ね? 結弦。貴方も不思議に思いますでしょう?

 ですわよね? この Campanellaは「第1稿」ではありませんもの。


 リストがカンパネラを書くきっかけとなったのは1932年4月20日。初めてパガニーニの演奏を聴いた時のこと。

 ニコロ・パガニーニ。音楽史上最も偉大なヴァイオリニストで作曲家。技巧を超える超絶技巧家。ヴィルトゥオーゾの中のヴィルトゥオーゾ。そんなパガニーニの演奏ぶりに大ショックを受けた彼は、ピアノのパガニーニになろうと決意し彼を徹底して研究した。その結果、「パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲」が完成した。

 それこそがLa Campanellaの記念すべき第1稿(1834年)。超絶技巧を目指したリストがその情熱を持って書きあげた傑作。

 わたくし、今の世に生まれたことを恨みますわ。もし彼と同じ時代を生きていたらと。

 聴きたかったですわ! ホール一杯に響き渡るピアノの音! 跳ね踊るリスト自身の手と指先! 観客は我を忘れ、ある者は卒倒したと聞くわ。わたくしもそこに居たら……きっと……

 もし録音技術が彼の時代に追いついていたらと……心底思うわ。エジソンがもっと早くに生まれていたらと。

(トーマス・エジソンがアナログレコードを開発したのは1877年)


 今となっては、その様を彼の譜面から読み取るしかない。

 結弦は弾けて? あの譜面……ふふ……とても難しい曲。まるでわざと難しく書いたような、自分自身の鍛錬が目的で書いたような、そんな譜面。それを難なく弾きこなしたリスト。

 彼、実はヴァンパイアだったのかも知れませんわね? わたくしならいざ知らず、一介のピアニストでは手を焼いたでしょう。自慢ではなくてよ? わたくし、ヴァンパイアですもの!


 しかし彼はおそらく気付いたのですわ! 超絶技巧は客を圧倒することは出来ても、決してその心を打つことが出来ないと!

 彼は曲を1から作り直しました。まずはイ短調だったこの曲を、黒鍵の多い変イ短調に移調した。黒鍵の方が、跳躍の際に鍵盤を捕らえやすい、つまり弾き易さを考慮したからだと言われてますわ。そして過剰とも思われる音符を大幅に取り去り、さらにパガニーニのバイオリン協奏曲第1番の素材も取り入れ、まったく別の――メドレー的な曲を書き上げた。

 それがカンパネラの第2稿――パガニーニの超絶技巧練習曲集第3番(1840年)。


 でもリストはこれでも満足しなかった。

 何故なのかしら。2つの主題の組み合わせに「ちぐはぐ」なものを感じたから?

 彼は新たに取り入れた素材をすべて取り去り、当初の素材構成に戻してしまった。そしてフラットが7つも付く変イ単調からシャープ5つの嬰ト単調へと書き直した。Eフラットで表記していた音符をDシャープ表記に変えたのです。

 EフラットとDシャープは同じ音ですわ。聴き手に回れば気付かない事でしょう。でも弾き手に取っては弾く時の心理が異なります。おそらくリストは音を半音「下げて」読むよりも、「上げて」読む方が、音の感覚がりクリアになると考えた。鐘の音を表現するために。硬質でクリアな響きを引き出すために。(そんな解釈にわたくしも同感ですわ!)

 さらに主線の一音一音を追いかける最高音域のDシャープを書き足し、儚くも美しい鐘の音を作り出した。


 それこそが「パガニーニ大練習曲集」の第3番――La Campanella(1851年)。

 パガニーニのヴァイオリン奏法を研究し、その技術をピアノに翻訳したリストの大傑作。いままさに弾いているこの曲!


 いまふと思ったのだけど、彼が20年近くもの歳月を、このテーマ――オリジナルではない、他人の作ったテーマにかけたのは、ただそのテーマが美しいからという理由だけでは無いのではなくて? 自分を震撼させたニコロ・パガニーニという音楽家に対する、最高の敬意表明ではなくて?


 結弦の指が、79小節目の美しいトリルを奏でています。合いの手のアクセント入れるわたくしの左。一層激しさを増していく主旋律。曲はついに第2の変奏部――96小節目へ突入する。

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