ACT34 秋子の忘れ形見【水原 桜子】
……あ……浅香? それは何? 人間の赤ん坊に見えるのだけど。
浅香の肩越し、秋子のドレスが床に横たわっている。
血まみれの服。小さな赤ん坊。ふたつのキーワードから連想されるその「何か」は明白なのに、どうしてもそれと繋がらない。
そんな筈ないわ。あの子はあの時、結弦に振られたっ……て。だから明日病院へ行くって。
「その子……まさか……」
そんなわたくしの問いに答えた浅香の言葉は単純明快でしたわ。
「ええ、そのまさかよ。秋子さんの子」
「「ええええええああっ秋子の!!!?」」
「嘘ですよね!?」「嘘でしょ!?」「おぎゃあああああ!!」
まあ! なんてこと!
結弦とわたくしの驚きの声に加わった赤ん坊の泣き声と言ったら!
結弦! 今のハ長音階の第Ⅳ度和音ですわよね!
それも限りなく正しい、ピッチF(349.228Hz)! A(440.000Hz)! C(523.251Hz)!
その証拠にあのピアノの3弦がちゃんと共鳴しましたわ!
「ふ……二人とも、落ち着いて話しましょ?」
落ち着いてなど居られるものですか! その子、是非にも音楽家にしないといけませんわ! そうよね? 結弦!? 秋子も人が悪いわよね? 産むことにしたのなら、どうして教えてくれなかったのかしらね?
結弦はそんなわたくしの顔をチラっと見て。すぐに浅香に向き直って。
「予定日は半年以上も先だったはずだ! いくらなんでも早すぎます!」
――え!?
わたくしは呆然としましたわ。思わぬセリフでした。彼はわたくし達がハ長三和音を奏でたことなどどうでもいいらしいのです。彼の関心はただひとつ。赤ん坊が早く生まれてきてしまった、その事だけだったのですわ。「何故居ない筈の赤子が存在するか」ではなく。
何故? どうして結弦が予定の日取りまで把握しているの? 秋子、なの? 彼女が結弦には教え、わたくしには教えなかったというの? わたくしだけ蚊帳の外だったと言うの?
「早いなんて、そんな問題じゃなくてよ! お腹の子はとっくに堕ろしたはずですわ!」
わたくしの声は怒気を孕んでいた。誰に対して? もちろん二人ともによ!
「……ぇえ!? 違うよ! 僕はちゃんと認知して、養育費も送るつもりで!」
「どういう事!? 秋子! 説明してちょうだい!」
そうよ。本人に聞くのが一番いいわ! 秋子! あなたよくもこのわたくしを――
……そうでしたわ。あなたはもう……逝ってしまったのですわ。
熱いものが両の目から溢れ出し、頬を冷たく滑りました。わたくしもまだ、泣くことが出来ましたのね。
真昼のように舞台を照らすスポットライト。その光を受け止め、なお黒々とその躯体を置くグランドピアノ。長い歴史をかけてその形を変え、現代のそれへと結実した人類の傑作とも言うべき弦楽器。
そのピアノが、ポツリと「啼く」。Dシャープオクターブの和音を自ら奏でたのです。
なんてこと。あなた、ずっとそこで見ていたの? わたくし達の成すこと、する事、すべてを、そこで?
会場の客達が一斉に顔をピアノに向けました。その瞳は微かな意思の光を灯しています。微かに立ち昇る熱気が、会場の温度を上げ始め、わたくしは背を伸ばして客席に向き直りました。
「お待たせ致しましたわ皆さま。この曲が、明日の皆さまの糧となれば幸いですわ」
浅香が赤ん坊を抱いたまま、そっと舞台端へと向かうのが見えます。そこにはいつの間にか柏木が立っていて、浅香と何事か言葉を交わしつつこちらを見ました。
彼の眼には安堵の色。わたくしは小さく頷いて見せました。
柏木。初めて出会ったのはひと月前のあの日でしたわね。あの時わたくしは貴方の頼みをきいて、だから貴方もわたくしの我侭をきいてくださった。
でも本当に貴方がわたくしの為になさりたかったのは、もっと別の事でしたのね? だって……貴方がS席のチケットをすり替えたのでしょう? わたくしの代わりに秋子をそこに座らせて、秋子と結弦とわたくし3人が舞台へと上がるよう仕向けた。過去の清算、蟠りはわたくし達自身の手で決着をと。
浅香。その子のこと、お願いね? ほんの少しの間ですけれど、会えて良かったと思いますわ。初めはイラっとさせられましたけど、でも……なんでしょう、あなたの言動には人の心を明るい気分へと変えさせる、そんな力がありますわ。ヴァンパイア相手に堂々と渡りあうしたたかさや、わたくしの力に呑まれない強さも。伯爵様が「やれるものなら――」なんて仰るはずですわ。
……不思議ですわ。あなたならあの方をお救いできる、そんな気がしてなりませんの。とってもお強いけど、でも、とってもか弱いあの方を。大勢を従えながら、でもたった1人で奮闘なさっておられる気の毒な御方。あの方の支えとなれるのはあなたしかいないと、そんな気が致しますの。
ふふっ! おかしいですわね? 決して長い付き合いではありませんのに。
「ありがとう柏木。ありがとう浅香。そして――」
サーヴァントの滅びはヴァンパイアのそれに準ずる。秋子の身体は塵芥の如く消えてしまったけれど、でもその魂は――
「秋子。あなたはわたくしと共にここに居る。見ていて頂戴」
気がかりなのは時間。残されたわたくしの命はあと僅か。あの139小節を弾き切るための力がわたくしに残されているのかどうか。
そんなわたくしの手を、結弦が掴んだ。ピアノの鍵盤側へと誘う彼。
もしかして手伝ってくださるの?
何も言わずに、わたくしを椅子に座らせ、右手をそっと鍵盤に置く結弦の眼がこう言っている。
『一緒に弾こう』 『あの時のようにに』
彼の左手は力無く下がったまま。湧き上がる涙を見せたくなくて、わたくしは少し顔を伏せた。そうね。そうして差し上げても……宜しくてよ?
使わぬ右手を膝上に置いたまま、左の中指と親指をオクターブに添えました。その姿勢は不安定で、身体がぐらりと右に傾いだのですけれど。結弦がぐっとこの腰を抱いて――え? その手、怪我をした方、ですわよね?
素知らぬ顔で、右足先を右端のダンパーペタルに乗せる結弦が微笑む。座らずに立ったまま、左腕はわたくしを支えたそんな姿勢で? ペダル操作とあの右パートを? むしろ貴方の方が限界の筈なのに!
結弦の眼は揺るがない。結ばれた口元がこちらに笑いかける。
解りましたわ。行かせて頂きますわ! 貴方がくれた時と力はすべてこの1曲の為に!!




