ACT30 ずっと好きでしたの【水原 桜子】
『君が無事で、良かった』
力無いが優しい、心から相手を気遣う笑顔。きつく抱きしめる結弦の腕は、見た目に反し硬く、逞しい。
『落ち着いて聞いてくれ。君の……ご両親が――』
それはさっき秋子から聞いたわ。おじ様とおば様も……お気の毒だったわね。
『ごめん。僕があの鍵を掛け忘れたんだ。全部そのせいなんだ』
そうなんですの? いいえ、貴方のせいなどではありませんわ。すべてわたくしの嫉妬心が招いた事。わたくしはあの化け物の存在を知った上であの場所に行ったのですもの。
でも浅はかでした。事は自分一人の身では済まなかった。
ごめんなさい。貴方は秋子と話してあげて。あの子を、もう一人のわたくしを受け入れてあげて。もしあの子が子供を諦めるような事があれば……わたくしは貴方を許さない。
「――――桜子!!!」
しつこいわ結弦。一人にしてって言ってるでしょう? わたくしは大丈夫。貴方と違って……無傷ですもの。そう、あの男にはまだ何もされてない。貴方は右手を怪我したのでしょう? 右手じゃなく、左手だったかしら? どちらでもいいわ。来週末のリサイタル、代わりに弾いて差し上げても宜しくてよ。
「間違いありません。銀の弾丸です」
「……うそ。誰かが入れ替えたってこと?」
結弦? 他に誰か居るの? 秋子の声じゃないみたい。言ってる事もちんぷんかんぷん。
ああ、身体がだるいわ。眠くて仕方がないの。それにとっても寒い。胸のあたりが氷のよう。お願いよ結弦。そんなに揺すらないで。ちょっとだけよ。ほんのちょっと、眠るだけ。
……何か聞こえますわ。とても……遠くから。これは……泣き声? まだ小さい……ほんの生まれたばかりの赤ん坊の産声。
不意に何かが唇の上にポタリと落ちました。瞬時に香る芳しい香り。落ちる雫は数を増し、滴りとなって口の中に流れ込む。素晴らしく滋養に満ちた味わい。ゆっくりと味わい、飲み込む。せがむ口元に押し付けられる温かい感触は、人間の肌。無我夢中で牙を立てる。声を殺し呻くその声……結弦?
「……結弦!!」
「良かった。眼が覚めたんだね?」
飛び起きたわたくしを見た結弦が笑っています。力ない笑顔で。あの時と同じ顔で。思えばいつもあなたは笑ってましたわ。思い出の中の貴方は笑顔ばかり。本当はあなたの気持ちに気づいて居たの。気付いて居ながら、その笑顔は秋子にむけるべきと、ずっと自分に言い聞かせていましたの。でもわたくしも本当は自分の気持ちに気付いて……そうですわ、幼いころからずっと――
当然ですわ! 秋子とわたくしは元々、同じ人間なんですもの!
「好きよ、結弦!!」
自分でも驚くほど、本心が言葉となって出ましたわ。初めて言えた言葉です。わたくしは無我夢中で結弦に抱きつきました。
「貴方の事が……好き!! 大好き!!」
抱き返す結弦の腕は、やはり細いが逞しい、よく鍛えられたピアニストの腕。その腕が背を離れ、この顎を上に向かせ……何て素敵なんでしょう! 貴方と口づけを交わす日が来るなんて――
「あの、盛り上がってるとこ悪いんだけど」
ちょんちょんと肩をつつかれ振り向くと、浅香が呆れ顔で立っていましたわ。
その顔を見て初めて我に返りました。
なんてこと! わたくしとした事がこのような人前で?
わたくし、もうカーーーっとなってしまったんですわ! 恥ずかしいやら恨めしいやら、怒ればいいのか泣けばいいのか、わたくし自身、収拾がつかなくなってしまいましたの。
でもそんな一切合切が一目で吹き飛んでしまったんですわ! それほどの事態でした。人はあまりに驚くと、逆に心静かになるものですわ。このわたくしも同じ。口を眼を閉じる事も忘れ、浅香の腕に抱かれた小さな生き物に眼を奪われたんですの。
見えますでしょう? ほらその――まだ血まみれの……産まれたての赤ん坊が。