ACT27 本当の望み【水原 桜子】
翌朝、わたくしは病院のベットで目を覚ましたのですわ。
『良かった……! 姉さんまで死んでしまったら、私まで生きていけないわ!』
かけ布越しに縋りついてるのは秋子。彼女は告げました。パーティーでの惨状を。ヴァンパイアと思われる個体が現れ、両親達を手にかけた様を。
『安心して、結弦さんが無事よ。ただ右手に怪我をして……来週末のリサイタルに間に合いそうにないの』
言いながら胸のあたりを押さえる秋子の顔が、やたらと青ざめて見えます。
『秋子、あなた顔色が悪いわ』
『……だって……色々な事があり過ぎて……』
嗚咽を漏らし始めた秋子が、不意に椅子を蹴って立ち、手洗い用のシンクの前でせき込みましたの。
『あなた! まさか!?』
振り向いた秋子の顔で、すべてを悟った。彼女のお腹には結弦の子供が居る。
『いつ?』
『あと半年もすれば……産まれるって』
『結弦は知っているの?』
『言えないわ。彼、結婚する気は無いって言うの』
『ダメよ。ちゃんと言って、想いを伝えなさい? お腹の子が可愛そうだわ』
秋子とわたくしは一卵性の双子。わたくしと同じ遺伝子を持つその子はわたくしの子。
それをあなたは……
堕ろすと言って家を出た秋子のこと。生まれる事を否定されてしまったわたくしの、いいえ、わたくし達の子。
双子で無ければこんな悲劇はなかった。そうですわ、わたくしさえ居なければ、ありふれた幸せがあの子を待っている筈だったのに!
そんな憂いも忌わしい記憶も、人間をやめたその瞬間に吹き飛んだ。哀しみや憐憫の情といった感情が、ヴァンパイアには無いの! 必要ない! 人間は家畜だもの。人間だって、牛や豚を、当然のように食べるでしょう?
そして何より、獲得したあらゆる感覚のすばらしかったこと! 聴覚、自在に動く身体に手足! 強靭な指! グランドピアノの潜在能力を真の意味で引き出せるのは、おそらくヴァンパイアだけね?
貴方の代理としてリサイタルで弾いたあの日。曲目はすべて詩情豊かなショパンのエチュードでしたけど。
感動したわ! 普段とは違う音に! 鈴のように鳴る弦の音に天の光を感じて! あの日あの時、世間の眼が一斉にわたくしを向いたのです!
勢いに乗ったわたくしは、好きだったリストの演奏で、会場を沸かせるようになりました。多くの客が失神して、「悪魔の音」と記事になったことも。ふふ! まるでリストその人が演奏した時みたいに……ね?
でもね、ある日ふと思いましたの。芸術とは何かと。初見で完璧な演奏をこなす事がそれほど大層な事なのかと。客は奏者の「弛まぬ努力」を聴きに来ているのではと。
化け物は所詮化け物。
愕然としましたわ。
こんな力を手に入れる為に、わたくしは自身の誘惑に負けたのです。
どうせいつかハンターにやられるなら、せめてあなたの手で。そう思ってここに来たのですわ。秋子の事は予想外でしたけれど……
結弦!
何を躊躇いますの!? これがわたくしの本当の望みですの! だからお撃ちなさい!
結弦が何か言いかけたその時です。結弦の肩越しに、誰かが片膝を立てこちらに銃を向けているのが見えましたわ。
浅香? いつの間に……どうして?
狙いは結弦。引き金に添えられた指が動く。結弦はいまだ気付かない。
「浅香……待っ……!」
止められませんでしたわ!
赤く染まる視界の中で、わたくしは音を聴きました!
シアー(ハンマーを保持したり離したりする為の金具)が回転する音。
撃鉄がリリースされる音。
撃針が弾丸の雷管を叩く音。
銃の内部機構が発するすべての音が、まるで楽譜に並ぶ音符のように順序正しく聞こえたのです。寸分狂わぬ各スプリングの反発音とタイミング。滑らかに銃身を滑り押し出される弾丸の弾頭。その音のすべてが。
距離にして8メートル。我々に取っては至近距離では無い、やや遠くから向かい来るひとつの銃弾。
眼力の強い個体、例えば佐伯のような個体なら、その軌道を把握し逃げる事が出来たでしょう。格闘を得手とする者なら、素手で弾くなりしたかも知れません。
けれどわたくしは――
わたくしが幹部に据えられたのは、攻撃対象を広く取れるから。
大勢を一度に操る、その能力がコロニー全体の利益に繋がるから、ただそれだけの理由。わたくしに出来た事はただひとつ。聴力で音の行方を追う事。
音はまっすぐに結弦の背中に向かいました。結弦は咄嗟に避けたけど、でも弾は振り返り様に遊んだ彼の左手首に着弾し、貫通しましたわ。
同時に跳ねあげられた拳銃が宙を舞う。弾丸の方は威力を落としつつもこちらに向かい、この胸の真ん中に当たりで動きを止めた。
しかしわたくしはいい。通常弾など単なる異物。後で浅香に取ってもらえばいいのですもの。問題は結弦ですわ。
膝をついた結弦のもとへ駆け寄りました。ダラリと下げた左手頸から間歇泉のように血が吹き出しています。
「――結弦!!!!」
こちらを見上げた彼が、苦痛に歪めていた顔を無理やりに緩ませ、笑ったように見えました。
「良かった。やっと話が……通じそうだ」
「何を言っているの!? 早く血を止めないと!」
ドレスの裾を破り、彼の手に巻こうとしますが、溢れる血が邪魔でうまく行きません。
思った以上に傷は深い。いくつもの白い骨が傷口から覗いている。その間から、腱とも肉ともつかぬ赤い筋がいくつも飛び出している。この損傷、2度とピアノは弾けないでしょう。ハンターを続ける事も。
なのに彼は笑っているのです。二つの道を同時に断たれ、おそらくそれを承知していながら、それでも笑ってる。
「こんな時にどうして笑えるの!? 何故さっき、外したりしたの!?」
「だって答えを……半年前の答えをまだ……聞いてないから」
「馬鹿! いまさら何を言っているの!?」
わたくしは泣いていた。小さい時のように、泣きじゃくる自分。ヴァンパイアになってから、忘れていた感情が何倍にもなって帰ってきて、自分でもどうしようもないのです。
いつの間にか浅香が駆け寄って来ていて、結弦の腕をてきぱきと手当てするのが見えました。その間、わたくしは座ったまま。止まらない涙を拭い……不意に目の前が暗くなりました。