ACT26 地下室の男【水原 桜子】
熱い血潮が身体中を駆け巡る。フレアと化した視界の中、結弦の姿だけが人型の黒点となって浮かび上がっています。
――死になさい!
鷲の手にした右腕を彼の眉間めがけ突きだしました。人間の頭蓋など脆いもの。良く熟れた瓜のように割れ、弾ける、その感触。思い浮かべるだけでも高鳴りますわ!
でも指先に感じたのはチラリと触れた頭髪だけ。
そう言えば貴方、ハンターだったわね。知ってるわ。おじ様とおば様が夜な夜な貴方をあの部屋に閉じ込めて、鍛えていたこと。あなたは《《本物》》を使った訓練でヴァンパイアに対抗する手段と技を身に付けた。
でも、貴方も承知ですわよね? ピアニストの腕や指先がどれほど鍛えられているか。それがヴァンパイアともなれば……どうなるか。わたくしの本気の打鍵は、秒速15打可能なグランドピアノすら追いつけない。
軽く音速を超えるわたくしの腕の動き。読めて? かわせて? その左眼だけで間合いを掴めて!?
反転する動きをそのまま振りかぶる右手に乗せ一閃。彼にとっては死角。次こそはその米神を寸断するかと思われた右手が、またしても空を薙ぐ。微かに右頬をほんの数ミリ掠めたのみ。
――当たらない!?
すかさず軌道を下に向け、沈んだ敵に振りおろすがそれも無効。如何なる方角から狙っても結果は同じ。彼の実体を捉えることが出来ません。
おかしいわ。まるで、掴もうとしてもフワリとすり抜ける羽虫のよう。どうやって死角からの攻撃を察知しているのかしら。
視覚に頼らず……感じている? 風、空気の僅かな揺らぎを、肌で感じ、動いている?
きっとそうだわ。あの眼で軌道を完璧に読むのは不可能だもの。こちらが速く動けば動くほど、気流が産まれる。微かな風圧さえも利用しているのですわ。
だとしたらこの攻防は永遠に続きますわ! 結弦は攻撃を去なすだけ。決してこちらの懐に入らない。
こうなれば持久戦だけど……不利なのはおそらくわたくし。
彼は必要最小限の動きで避けるだけ。対してわたくしは移動と腕の一閃にそれなりのエネルギーを消費する。
……血が欲しい。コクリと喉を鳴らすだけの量でいい。
トンっと結弦の背がグランドピアノの響板に触れる。
迷わなかった。顔面目掛た渾身の突き――最初に放った突きと同じ突きを繰り出す。かわせる? 今度の今度はかわせないでしょう? 貴方のすぐ後ろにはピアノがある!
予想通り、彼は動かなかった。この眼をじっと見つめ、棒立ちになったまま。
見開かれた彼の眼の異様さに驚いたわたくしは寸前で手を止めた。彼の右眼が赤かったから。ヴァンパイアのそれかと思ったから。
でも違った。赤い眼はわたくし自身の眼。視力の無い白い右眼が、わたくしの赤い眼を映しただけ。
彼はチャンスを逃さなかった。横に飛びつつ銃を抜く淀みない動き。左肩を突き抜ける弾丸の衝撃。舞台に響き渡る発砲音はFシャープ。
万事休す。結弦は銃口を下げない。
わたくしの負け、ね。……いいわ。止めをさして頂戴。
熱かった肩の痛みが引いていく。それにつれて、赤く染まった視界も元の姿を取り戻していく。
白木で設えられたアイボリーの敷板。木目の美しいその床に点々と散る赤い飛沫。中央を眩しく照らすスポットライトライト。その光のカーテンを透かして見る場内はぼんやりと暗い。薄闇の中、整然と座した大勢の紳士、淑女たち。
彼らの時は止まっている。Dシャープオクターブの続きを――La Campanellaが奏でられるのを、ただ静かに待っている。
そうよ、すべての曲を聴き終え初めて呪縛は解ける。
だから結弦! お撃ちなさい! 早くあの客達に、あなたのリストをお聴かせなさい!
結弦が微かに頷いたように見えた。まるでわたくしの声が聞こえたかのように。銃口をこちらに向けたまま、ゆっくりと手をついて立ち上がった結弦。しかし彼は――何か言いたそうに口元を緩め、そっと銃を降ろした。
どうしたの? 何故撃たないの? 貴方はハンターなのよ? ヴァンパイアを始末するのは貴方の義務ではなくて?
駄目よ、そんな顔をしては駄目。撃てばわたくしは救われる。未来永劫続く筈だった、呪いの業から解き放たれる。わたくしの命はここで終わらなければならない。何故なら……貴方の両親を殺したのはわたくしだから。
わたくしは自分自身の意思でヴァンパイアになった。秋子の為に身を引くとか、貴方の眼を傷つけた責任を取る、なんてのは自分自身に対する言い訳。
貴方、本当はバイオリニストだったでしょう? そんな貴方が、何故か突然ピアノに転向して……見る間に上達した貴方はわたくしを超えた。
いくら練習しても、常に貴方が前に居た。
憎らしかった。女に現を抜かせばいいと思い、秋子を焚きつけた。幼い頃から貴方に惹かれていた彼女の気持ちを知っていたから。思惑通り、貴方は秋子に夢中になった。でも! 何てこと! 貴方の音は寧ろ豊かになった。リサイタルを開く度に、世界中が絶賛した。
一か月前のあの日。両親共に祝賀会に呼ばれ、屋敷に行ったあの日。貴方は会場の客にせがまれてショパンを弾いたわね?
忘れないわ。凛とした美しい「木枯らし」の哀しげな旋律。「黒鍵」の華やかな主題。
胸を突いたわ。どちらも将来の成功を約束された音だった。その傍でうっとりと聴いている秋子。秋子を客達に紹介しているおじ様とおば様が居て――
絶望した。死にたいと思った。だから周りの目を盗んで地下室に行ったの。何故か鍵が開いていて、わたくしは中に入った。それ《・・》は壁に繋がれていた。
「餌、にしては様子が変だな。誰だ?」
意外にも知性を感じる口ぶりだった。
わたくしは心のうちをすっかり、ありのままに話した。彼は笑って言った。どうせ死ぬ気なら『仲間』にならないかと。
「人間をやめろと言うの? 呪われた……化け物に?」
「……超えたい、のだろう?」
何という誘惑。逡巡するわたくしを見た彼の……残酷な笑み。
「この手錠を外せ。話はそれからだ。」
「外す? どうやって?」
「880Hzの音を出せばいい。音楽家なら容易かろう?」
もちろん簡単でしたわ。手足首に嵌められた電子錠が、同時に外れ、わたくしはきつく抱きすくめられていました。
「事が済めばじき出向く」
おそらく彼はその部屋を出た。血を吸われる事も無く、気を失ったわたくしをその場に置いたまま。