ACT19 2人の桜子【麻生 結弦】
プログラム7番「タランテラ」を弾き終えた時、高揚は頂点に達していた。あえて休憩を入れずに一息に弾ききったリスト難曲。
どう? 桜子。君と最後に遭ったのは両家の葬列が済んで、2人でノクターンを弾いた時だったね。僕も君も両親の死を受け入れられなかった。メロディーもどこか上の空。弾き終わった時、君はポツリと言ったっけ。
『あの子を、秋子を幸せにしてあげて』
『違うんだ。僕が本当に好きなのは――』
ずっと閉じたままだった瞼を開けた。白い光が目の奥に飛び込んで矢のように突き刺さる。押し寄せる疲労感。思った以上に辛い。そうだよ、とっくに限界は超えてた。腕も肩も、石になったように重い。今更に身体から噴き出す汗。恐るべしリスト。もはや最終曲を弾く気力も体力も残ってない。でもいいんだ。これで。
椅子の背を掴んで腰をあげ、舞台袖に合図を送る。係員がマイクを手に走ってくる。受け取ったマイクをONにして、指先で軽く叩く。常連客が「いつものが始まったか」みたいな期待の目を向けてきた。ザワついてた場内が静まり返る。曲が終わるたびにコメントを入れるのが僕のいつのもスタイルだからね。作者が曲に込めた意味とか、逸話とか。僕なりの解釈とか苦労話とか。そういうの、喜んでくれるお客多いから。でもごめん。今日はそういうのは一切なしです。
「お集まりの皆さま! いよいよ最終曲となりました。リストと言えばこの曲、そう、ラ・カンパネラ!」
拍手が起きる。指笛を鳴らす人も居る。今夜の客はノリがいい。
「実はここでサプライズを用意しました。皆さま、お気づきですね? S席の彼女に!」
どよめきが起こる。何事かと身を乗り出す客も居る。桜子は黙って僕の顔を見つめている。
「この曲は是非彼女に演奏して頂きたいと思うのですが……如何でしょう? 水原桜子先生?」
客席から「うそ!?」とか、「マジ!? すごっ!」なんて驚く声が次々にあがる。
彼女はしばらく座ったまま大きな眼を見開いて、なんと答えようかと迷ってるようだった。
あの時の君も迷っていたね。血を吐く思いで綴った僕の言葉に、君は黙ったまま。そして部屋を出て行った。以来ずっと音沙汰なし。今日こそ聞かせて、いや聴かせてもらうよ。君の答えを。
やがてそっと微笑んだ彼女。ゆっくりと、優雅に首を縦に振る。嬉しいよ。YESでもNOでもいい。答えてくれる気になった。そうだね?
彼女をエスコートしようと、舞台中央のステップを降りる。立ち上がり、歩を進める彼女の手を取って舞台へと誘う。
冷たい手だ。彼女が片手でドレスの裾をつまみ上げ、ステップに足を乗せた、その時だった。
「ダメよ!!」
制止の声。高いキーの、良く通る女の声だ。見ると最後列の向かって左端に、白い人影が立っている。純白のドレス、肩まで伸ばしたキャメルブラウンの髪。きつい眼でこっちを睨む、その顔はどう見ても、
「桜子?」
え? えぇ!? いやでも僕はいま君の手を握って――
突如としてこの手を振り払った女。その指先が目に映る。緋色に塗られた爪。とても長い。長い爪。有り得ない。ピアニストなら絶対に爪は短く切るものです。
「君は誰だ!?」
ぐいと口元を歪めた女。その手が、信じられない素早さで僕の手首を掴む。脚を払われ膝をつく。後ろ手に捩り上げられた腕。関節が悲鳴を上げる。
きつく首を絞め上げる女の手にナイフが握られているのを見た時、初めて客の一人が甲高い悲鳴を上げた。