ACT17 リストばかりですの?【水原 桜子】
「おかしいわ」
ただ黙って席に付いていた浅香が不意に顔を上げました。
「何がですの?」
「おかしいわよ。カジュアルなカッコの人が誰も居ないなんて」
確かに皆が皆それなりの格好をしている。男は黒かグレイのスーツ。女もスーツかワンピース。指定のないこんな日はラフな服装の方が大勢いるものですけれど。そんな中、浅香だけがいつものブラックジーンズに白ブラウスに……白衣。
だからさっさと着替えたら良かったのですわ。
「それにこの空気、息が詰まっちゃうわ! 気取った人ばっかり!」
「おやめなさい。付いて来ると言ったのはあなたでしてよ?」
「……そうだけど」
噴き出してしまいましたわ。ハンドバックを大事そうに抱えながら口を曲げ、絶えず周囲に眼を向ける朝香の恰好と言ったら。
そうこうしているうちにも、立ち見の人間が座席の後ろに並び、空間が隙間なく埋まっていきます。大層な人気ですこと。
でも解ってましてよ? すべてが本当の客では無いことくらい、お見通し。半数以上がハンターね? 御覧なさい、あの鋭い眼つきに隙の無い手つき足つき。無粋でしてよ、少しは隠したら如何?
不意に場内が暗転しました。響く革靴の音が、ゆっくりと舞台袖から中央へと進みます。
タイミングよく照らされたスポットライト。その中で一礼し、顔を上げたのはタキシードに身を包んだ結弦。割れるような拍手が起きましたが、彼が椅子の前に立つとすぐに止みました。
ギイと椅子が軋む音。ふと顔をしかめた結弦。何か不具合でも? 椅子の高さを合わせるのを忘れたの?
……違う。あれは椅子の高さを訝ったのではない。眩んだのね。照明の照り返しに。
彼は普段、長い前髪で右側の目を隠しています。それが素敵だと騒ぐ女性もいますけど、わたくしは知っていますわ。彼の右目が健常ではないこと。思わぬ事故がもとで、その眼は永遠にその機能を失った。
彼の眼を診た医者にこっそり訊きましたわ。見えはしないが、光は見えると。むしろ痛いほどに眩しい、そんな症状だと。
彼は一度しっかりと眼を閉じて、しかし突然に弾き始めました。リスト、超絶技巧練習曲 第4番 マゼッパ。
驚きですわ! いつもショパンのポピュラーな曲目ばかり選択する貴方が、こんな曲を選ぶなんて!
激しい情熱のこもった、重く荒々しい多重和音の連続。端から全開の曲。まるで舞台を揺るがすほどの迫力に、客が押されてる。あちらこちらから息を飲む音が聞こえる。
怒りと憎しみが綯い交ぜになった音。まさに激情だわ。これが貴方が表現したかった音ですの? 音が胸を揺さぶり、突き刺さる。凄いわ。ええ。とても。
8分ほどの演奏が終了し、客は沸いた。1曲目にしてなんとスタンディングオベーション!
何故? 何故なの? よくよく見れば、次の曲も。その次の曲もリスト。その次も! そう! 今夜はリストオンリー! しかも超がつく難曲ばかり!
確かに観客はその迫力と技巧に酔うでしょう。男性ならではの音量、迫力を伴うダイナミックな演奏に沸くことでしょう。
でも違うのではなくて? 客は貴方の美しい木枯らしを聞きに来たのではなくて? 優しく奏でるセレナーデや、軽快なワルツを楽しみに来たのではなくて? 貴方の音は繊細で詩的で、そこが評価されていた筈。それがこんな……
ええ、わたくしは好きよ。リストの曲を弾く時ほど、魂を揺さぶられる事もなければエクスタシーを得られる事もない。
ええ! ええ! とても楽しみですわ! 美しい「ラ・カンパネラ」で締めくくる今夜のリサイタル、最高ですわ!
まさか貴方。今夜のリストはすべてわたくしのために?