ACT16 リサイタルの夜【麻生 結弦】
「ふ……」
ため息が出ました。時計の針がきっちり60分の経過を知らせています。ハノン(フランスのCharles Louis Hanonが指の基礎訓練のために書いた教本)を弾き終えるのに要した時間。
首と肩を回して伸ばし、5本の指を重ねて反らす。じゃあ最後にショパンの練習曲でもと、鍵盤に指を置いた、そんな時です。仕事用の携帯が電子音のショパンを奏でたのは。
ワルツOp.64-NO.2。画面の表示はハンター協会の事務局長の携帯番号。
「はい、麻生ですが」
声は少しイラついていたかも知れません。せっかく温めた指がまた固まってしまう、そんな焦りを隠せなくて。
「桜子が入場したよ。見えるかい?」
客席を映し出すモニター画面に視線を送る。僕の贈ったS席に悠然と腰かける女性が見えています。白のドレスはいつものです。彼女のトレードマークのようなもの。
「S席の桜子を確認しました。大丈夫でしょうか? もし本当に彼女がそうなら」
「心配は要らない。客層を見たまえ」
ですね。常連客とは別の意味で見知った顔が大半です。
「君も心の準備をしておくのだな。例え彼女がかつての――」
「大丈夫ですよ、解ってます。秋子の容態はどうなんですか?」
「サーヴァントの兆しが見えている。2度と人には戻れまい」
「そうですか。仕方ありませんね」
通話が切れる。スマホをSteinwayの響板に置く。
秋子。一度は妻にと選んだ人。そんな君がまさか、ヴァンパイアに襲われるなんて。桜子はこのことを知ってるんだろうか?
視線をS席の彼女に戻す。プログラムを開き、目を走らせている桜子。
君と最後に逢ったのは一か月前、あの事件の後だったね。白いドレスの裾をはためかせ、柔らかに動く腕や手首、白い指。温かな肌も、茶色の眼も、確かに人間のそれだった。それがいつ、どこで?
僕達がもっとも憎むべきはヴァンパイア。あの日、彼が僕達のすべてを奪った。僕の家系は代々のハンター。父さんも母さんもAランク。それがあんなにも呆気なくやられてしまった。君の両親も、あの場所に居さえしなければ今頃は元気で笑っていたはずなんだ。
だからもし君がほんとうにヴァンパイアなら、ここに来るはずが無い。そうだよ、君は僕がハンターだと知っている。まだ僕達が幼かった頃は良く一緒に遊んだよね。今でも目に浮かぶよ。膝がやっと隠れる長さの白ワンピース。その裾をひるがえし息を切らす君の姿。
「何をしてますの!? そんなことではハンターになれなくてよ!?」
そう言って、君はテラスの横で本を読んでる秋子に手を振ったね。落としたベレッタを急いで拾ったのを覚えてる。玩具だったけど、まだ小さい僕の手には大きすぎるそれを。
両手で持ちなおして、狙いをつける。それを見た君も、手に持った水鉄砲を僕に向ける。そんな僕達の遊びはいつも大人達に邪魔されたね。
「先生! 麻生先生!」
「……えっ! なに?」
「立ち見でもいいから入れてくれと仰せのお客様が殺到しております。如何いたしましょう?」
コンサートホールの支配人が困った顔して立っていました。僕はマネージャーを取らないから、こんな調整は全部僕に来ます。
「殺到って、どれくらい?」
「少なくとも50名はいらっしゃるかと」
「そんなに!? いいですよ、当日券、半額で出して下さい」
「かしこまりました」
早足で駆けていく支配人。ほどなくしてドッと流れ込んだ客たちが画面に映る。
僕は今度こそ鍵盤に指を乗せ、一息にショパンを弾きました。エチュード作品10の第1曲のアルペジオ。モニターの桜子が僕の方を見た。まるでその音が聴こえたとでも言うように。
僕の意図に気づいてくれた? プログラムに目を通した君なら解るだろ? いつもショパンばかり選んで弾く僕が、何故そんな曲ばかりを選んだのか。
革命? 木枯らし?
弾かないよ。ノクターンも舟歌も、バラード1番も。たぶんみんなが大好きなショパンは何も弾かない。
僕の胸のうち、聴いてくれるよね? 僕はヴァンパイアが憎い。あの事件から立ち直れたのは、このピアノがあったからだ。家族を亡くした哀しみと、奴等への怒り。今夜はそれを鍵盤にぶつけます。君のようにね。
そうだろ? 君は両親をヴァンパイアに殺されてから音が変わっただろ?
あの時、僕は君がピアノを止めてしまうんじゃないかと心配したけど、それは杞憂だった。君はやめず、それどころか感動を生む弾き手になって帰ってきた。そうさ。僕と君は同じなんだ。そんな君がヴァンパイアになる筈がない。
ついに開演のベルが鳴りました。いよいよ開幕ですね。