ACT141 解かれた軛【菅 公隆】
終わったのか。残念だ。もっと聴いていたかった。
そんな時、いまだ余韻に浸るわたしの耳にこんな声が届いたのさ。
『音ってもんは恐ろしいもんや』
……そうか。田中さんはこれを「恐ろしい」と。必死に押さえ込もうとしている荒い息遣い。相当の衝撃を受けたのか。
会場は静まり返ったまま。座った姿勢を崩さない麻生。
ああそうか。曲目はすべて……弾き終わった。けれど会場の反応はない。誰も手を叩こうとはしない。
……だね。これほどの演奏に、ただの拍手で返すのは味気ない。はっきりと、「言葉」で讃えるべきだ。あれだ、日本語の「イイネ!」に相当する、あの言葉を叫ぶんだ。……誰が? やはり主賓のわたし達ってことは、代表であるわたしか?
肘で魁人の腕を小突く。だってさ。いま声なんか出したら泣きそうだったからさ。裏声で変なコールする訳には行かないだろ?
魁人は「え?」って顔したけど、すぐに心得顔で立ち上がった。……理解が早いな。大丈夫かな。た~まや~とか叫んだりしないかな。だがそれは杞憂だった。彼は見事にシュプレヒコールのトリガーを引いて見せた。
喝采の嵐。立ち上がった麻生。っと、大丈夫か? フルマラソンでも走り切ったランナーみたいだけど。きつく閉じていた眼を薄く開け、手慣れた優雅な礼をした麻生。
更なる喝采。見れば、隣に白いドレス姿の秋桜が立っている。すらりと伸び切った背に手足。今の彼女は桜子だ。オーラが凄い。まさに往年のピアニストの貫禄だ。輝くような笑顔を観客席へと送り、彼女が麻生の腕を取る。そして椅子へ。なんと2人並んで腰かける。
歓喜のどよめき。息を呑む。……いや、待て。2人? いやいや、アンコールに答えるの、早すぎないか? 休まなくて……ていうかさ、こっちの準備がまだ出来てないよ?
座る観客。気づけば自分も椅子の背にもたれている。霞む視界。頷きあう二人、黒い服の麻生と、白い服の桜子。光り輝くグランドピアノ。それらがぼんやりとした輪郭に変わっていく。しばしの間。一瞬だけ、麻生の視線がこちら側に座る誰かと合う。
している。
確かに音はしている。
鐘の音だ。
沈む意識の中で、耳だけははっきりとその音を捉えている。
さわさわとした波が指先に触れる。
ピリリとした痺れと共に、指先、足先から手足を伝い、背筋を撫で、髪の毛一本一本に染み渡っていく。
繋がっている。
ホール全体が一体になっている。溶け合っている。
座っている筈だが、座面も、肘掛けもそこには無い。
座っている筈なのに、その身体がここに無い。
……いや?
自分という存在を確かに感じる。
寒い。
さっきから酷く寒い。
苦しい。
ずっと前から、呼吸が出来ていない。
無数の、針より細い何かが身体を通り抜ける。
前後左右。
無数の針が何度も突き刺さる。
逃げられない。
身体を捩ることすら出来ない。
攻撃は一向にやむ気配が無い。
叫んでみる。
しかし、纏わりつく鐘の音がどうにもそれの邪魔をする。
手足の痛みはやがて、胸の中心へと集束していく。
熱い。
溶けた金属を流し込まれたようだ。
苦しい。
いつまで続くんだ?
堪らない
ここままだとどうにかなってしまう。
≪もうすぐだから! 頑張って!!≫
確かに朝香の声を聞いた、その直後だった。得も言われぬ衝撃が身を貫いたのは。ライフルの一斉射撃を受けた事がある人なら解るかもだ。頭部に手足、胴体すべてが四散、かつ各組織から細胞の分子に至るまで、散り散りになるような……そんな衝撃だ。
魁人が何か叫んでいる。同時に耳を焼いたのは、鉄を引き裂くかの破裂音。
感覚が消えうせる。どこまでも静まり返った深い闇。わたしは……この世から消えてなくなってしまったんだろうか。
≪よく見てハムくん! 眼をあけて!≫
またもや朝香の声。
眼を開ける。
ここはコンサートホール。さっきから、ずっと同じ場所でわたしは?
試しに力を入れると、フワリと足腰が動いた。手足が、特に手首のあたりがやたらと軽い。不審に思いそこを見れば、そこにいつものアレがない。赤い轍に似た痕が3つ、刻まれているだけだ。つまりはブレスレットの痕跡。能力の大きさに応じ、二重、三重と重ねる……怪力や吸血衝動といった危険な力を封じる枷であったそれがない。
……あ……有り得ない。
もしや……床に散らばる破片が……それなのか?
……さっきの音は……これが破裂した音? どういうことだ。わたしは……覚醒してしまったのか?
辺りを見回し、さらにぎょっとする。皆が皆、わたしと似たポーズを取っていたのさ。自由となった手首を茫然と眺めるポーズをね。
想定外だ。わたしを含め、500あまりの「ヴァンパイア」の頸木が解かれてしまった。麻生と秋桜(桜子)の2人が共同作業で弾いたせいか、あの旋律にその手の効果があったのか。
「おい」
魁人に呼ばれ、振り向けば銃口がこちらを向いている。
……約束したからね。もしわたしが覚醒するような事態となれば、直ちにこの心臓を撃ち抜くと。ここは覚悟を決めるべきだろう。わたしの代わりなど幾らでもいる。
両手を腰のあたりで後ろに回し、向き直ったわたしの眼を魁人が睨む。射抜くような黒い視線が、しばしわたしのそれと絡み合う。そして――
「……撃たないのかい?」
「ああ。てめぇは人間だからな」
「なぜ言い切れる」
「眼を見りゃ解らぁ。俺様を誰だと思ってやがる」
「そう……なんだ?」
わたしは魁人を、正確にはその眼を信頼している。魁人がそう言うのならそうなのだろう。
ひとまずは良し。が、深刻な状況には変わりない。今現在、多勢のヴァンパイアに囲まれているんだ。
魁人と柏木がいかに強力な騎士でも、太刀打ちは不可能。が、諦めるのはまだ早い。魁人が狙いをつける。右の銃口はわたしの背後。
……だね。牽制すべきは田中さん。この場のヴァンパイア達の長。彼が命じなければこの群衆は動かない。
だが左の銃口はどういうわけか9時の方向――舞台上に向けられた。魁人の眼が怪訝に細められている。額から流れ落ちる幾筋もの汗。
田中さんはと見れば、いつもの落ち着いた佇まいで立っている。いつものその柔らかな視線をやはり舞台上に向けたまま。
「……うまくいったんですね。田中さん?」
小さな秋桜を横抱きにした麻生が、うっすらと張り付く微みを浮かべていた。